3-8
離れた場所から、ノエルはその一部始終を見ていた。
別に見守っていたわけではない。見ていることしか出来なかったのだ。いつでも殺す機会はあったというのに。
ヴィンセントがこの場にいたのなら、『お前らしくもない』と小言を言われただろう。
けれどノエルは手を出せなかった。欠片ほどの同情もない。それよりも、アッシュが母と呼んだ女性を異能の力で消し去ったこと。俄かには信じがたい光景だった……。
「――お兄ぃ!」
薄桃色の髪の少女が、不安そうな表情を浮かべてアッシュを揺り起こそうとする。
しかし一向に彼が目を覚ます気配はない。
「大丈夫だよ、リゼ。気を失っているだけだ」
群青の髪の少年が、少女の肩に手を添えて落ち着ける。
……好機。殺すのなら油断している今だ。
ノエルは手に提げた回転式拳銃の撃鉄を静かに起こす。
ハンマーの起き上がる音に気づいたのか、吸血鬼らが揃ってこちらへ目を向けた。
敵は三体、と一人。祖父に比べれば早撃ちは得意ではないが、精密射撃をヴィンセントに褒められたことならある。
大丈夫、と自分を落ち着け銃口で目標を定めた。
「リゼ、アッシュを連れて先に行くんだ」
少年がリゼに離脱を促す。
少女は視線をわずかに下げると、ノエルの左腕付近を見た。
「バカ言わないでよね。あれ、執行者でしょ? 頭のヘルシングはお兄ぃの仇。それはわたしの仇でもあるんだから」
「彼女はそのヴァン・ヘルシングの孫だよ」
ゾクリ。ノエルの背筋を得体の知れない冷たい感覚が撫でる。寒いわけでもないのに体が震えた。
リゼの雰囲気が明らかに変化したのだ。瞳は殺意に燃え滾り、その体をドス黒いオーラのようなものが稲妻状に走り回っている。
本能が警告を発している。あの少女は危険だと。
「だったら、なおさら殺さなくちゃ――」
冷酷に目を細めて前傾姿勢をとる少女。今にも地を蹴りだしそうに前のめったその細腕を、少年が掴んで制止した。
思いのほか強く握られているのか。ノエルから目を逸らさない少女はわずかに顔を顰める。
「なんで止めるのよ。クロード、離しなさいよ……殺すわよ」
「ダメだね」
「どうしてッ!」
「頭を冷やすべきだよ。あの銃には聖霊銀が込められている。アッシュを狙われたら元も子もないだろう?」
「撃たれる前に殺せばいいでしょ」
「この距離だ、無理だよ。それに、君は寝起きでまだ体が鈍ってる状態だろう。いくら真祖でもブランクが長すぎる――」
「真祖!? 」
クロードの口にした言葉に、ノエルは目を剥いた。先ほどアッシュが叫んだ時もそのようなことを言っていたが。まさか……。
容姿に目を凝らすと、純血種の特徴ではない瞳の色が見て取れた。普通は真紅であるはずが、少女は翠色をしていたのだ。
擬態しているようには見えない、ということは――
「目録には載ってない三体目ですって……。しかもあんな子が」
吸血鬼の中でも最強と謳われる真祖。それが目の前に。
ノエルは逡巡する。トリガーにかける指がわずかに震えた。
それを勝機と捉えたか。一瞬を見逃さなかったリゼはクロードの手を振り解き、ノエルへ向かって跳躍した。
揃えられた五指の爪が凶悪に伸び、分厚い鋼鉄すら容易く切り裂く刀となって襲いかかる。
「しまっ――」
あまりの速さについ及び腰になり、反射的に引金をひいた。しかし銃口がぶれ、弾は掠りもせず思わぬ方向へと飛んでいく。
リゼとの距離はわずか数メートル。
――殺られるッ。
そう思った刹那。今しがた放った銃声とは比べ物にならない、獣の咆哮にも似た大きな砲声が轟いた。
「痛――ッ」
今にも斬り付けんと腕を振りかぶっていたリゼが、小さな悲鳴を上げて跳ね飛ばされる。体を折り畳み小さく後方へ宙返りし、着地と同時に左手で地面を叩くと、その反動で元いた場所まで後退する。押さえる右腕からは血が流れていた。
「リゼ!」
「大丈夫、聖霊銀じゃないみたい」
そっと手をどける。結構な出血量であったにもかかわらず、射創は跡形もなく消えていた。
純血種の治癒力を遥かに凌駕する復元能力を目の前にして、ノエルは息を呑んだ。そしてついと弾が飛んできた自身の後方を振り返る。
森の中から、長物を担いでゆっくりと歩いてくる人間の姿を確認した。先端の形状はまるで戦車砲のように四角くなっている。
「あのライフルは……ACオルレアン? ジゼルさんですか……」
「アッタリー」
月明かりの元、気分上場といった様子で現れたジゼルはライフルを地に下ろす。
音をたてて大地に屹立する黒い巨砲。
フランス製のPGMヘカートⅡに着想を得た、ボルトアクション式の対物ライフルだ。
十三年前の屍食鬼大発生を教訓に、建造物に隠れた標的を撃ち殺すために聖櫃教会が開発した。全長およそ160cm。有効射程2km。重量はマガジンを抜いても16kgを超える。
主な使用弾薬は12.7×99mm NATO弾。
ライフリングに特殊な加工を施すことにより、長い銃身でも聖霊銀を用いたフルメタルジャケット弾を、安定して超長距離撃てるようにした特別製である。
「ノエル、ここは引きな」
現れて早々、ジゼルは信じられないことを口にした。
「なっ――どうしてですか!? あなたも私の仇を知ってるでしょう? どうして撃たせてくれないんですかッ!」
強い調子で反論すると、いつもは飄々としているジゼルが珍しく鋭い目つきをした。思わずたじろぐが、ノエルはその瞳を真っ直ぐに睨み返す。
「あんたも見てたろう? あの子が母親を殺す瞬間を……」
「それがどうかしたんですか。吸血鬼に同情なんて、執行者にあるまじきことですよ」
「そうかも知んないね。でも、これが汚く仕組まれた事だってことを、あんたは知ってる?」
「仕組まれた? いったい何を言ってるんですか?」
ノエルの目が点になる。
そんなこともお構いなしに、ジゼルはコートのポケットに手を入れて何かを取り出した。それをこちらへ放り投げてくる。危うく取り落としそうになるも、なんとか宙でキャッチした。
どうやら執行者間で使用される小型の携帯端末のようだ。イヤホンがぐるぐるに巻きつけられている。側面に貼り付けられているラベルナンバーから、ヴィンセントが使っていたものに違いない。
なぜこんなところに……そんな疑問を口にしようとする暇もなく、ジゼルが告げた。
「そいつはさっき盗聴した、その子らの会話を録音したものだよ」
「会話を?」ノエルは訝しげに片眉を上げる。
「概ね、そこのクロードって子が言ってることに相違ない。聞いてみな」
ちらと少年たちを窺うとこちらを警戒しながらも、アッシュを背負って帰り支度を整えていた。
不本意ながらジゼルに従い、イヤホンを耳に突っ込む。そして端末の再生ボタンを押した。
深刻そうな少年たちの会話の内容は、到底信じられないものだった。
「――おじい様が仕組んだ罠……ですって」
しかも人間に純血種の血液を投与して、不死者の餌にしていたと。
突き立てられた夥しい数の十字を見渡す。これが全て、その餌食として利用された人々の墓。
「こんなこと、信じられるわけないでしょう。ジゼルさんは、吸血鬼の言うことを信じるんですか?」
「信じる信じないはあんたの自由だよ。けど、この事件にはいろんな思惑が絡んでるってことは教えておいてあげる」
彼女の情報はモザイクばかりで、まるで話が見えてこない。
苛立ちを眉間に刻み、懐疑的な眼差しを向けた。
「あなたは何を知っているんですか?」
「そいつはあんたが見つめることだ。自分の眼で確かめな」
言葉はきついものだったが、口調はどこか柔和だった。
『確かめてみたらどうだ』ヴィンセントも同じことを言っていた。祖父の何を確かめろと……。
ノエルの中で、小さな疑念が生じる。それはほんの些細な切り傷程度だが、確かな疼きを感じさせるものだった。
ふと目線をずらすと、すでに吸血鬼たちの姿はない――。
†
アッシュらとノエルが去った後。
ジゼルは廃教会の森で一人。微風が木々の葉を揺らし音を奏でる中で、樹に背中を預け満月を見上げていた。
ある男を待っているのだ。
待ち合わせることに胸を躍らせたのはいつの頃だったろう。手を上げて近づいてくる彼に胸がときめいたのは……。
思い返してみても、もう何年も前のことに、思い出さなければならないほどの時が流れたのだとしんみりしてしまう。
こんな廃教会の墓場の前でなければ、胸は高鳴ったのだろうか。
もしも眩い月明かりの下、どこかの海辺で潮騒を聴きながら待っていたのなら。もしもクリスマス、煌びやかなイルミネーションの中、ツリーの元で待っていられたのなら……。
いや、そんなことはないとジゼルは首を振る。待ち合わせの意味を考えると、十に一つもない。
「ふぅ」と思い煩うような吐息をこぼし、雲の流れを目で追っていると――しばらくして、背後から枯れ木を踏み折る音がする。
「遅かったわね」
待ちくたびれたといわんばかりに、溜息交じりに声をかけた。
「すまん」
「まあ、あんたがあたしとの待ち合わせに時間通りに来たことなんて、一度もないか」
くすりと鼻を鳴らすジゼル。仕方がなさそうな顔をしているが、その口元は緩んでいる。
男は無言のまま、彼女と同じ樹に背もたれた。
「ノエルには伝えたわ。これで貸し借りなしよ」
「ああ、面倒をかけたな」
相変わらずぶっきら棒なヤツだと、ジゼルは愉快げにカラカラと笑う。
ふと背後の気配に揺らぎを感じた。何か口に出そうとして躊躇っているようにも思えた。期待半分に、それを促してやるためにも問いかける。
「どうしたの?」
「いや。……ところで……お前はこれからどうするんだ。バチカンに戻るのか?」
けれど淡い期待は外れ、弾みかけた胸は落胆に萎んだ。呼吸へ秘かに混ぜた溜め息が月夜に沈んでいく。
彼の言葉からわずかな寂しさを感じたが、それを茶化すことなく、丸い月を見上げるとジゼルは問いに迷うことなく答える。
「そうだねー。ここでの暮らしも悪くはなかったけど、あたしはアッチの人間だから。なんならあんたも一緒に帰る?」
「俺にはまだ、やることがある」
「ま、そう言うと思ったよ。ホント、仕事熱心なんだから」ジゼルは呆れ気味に肩をすくめ、「――そんなにあの子は、妹さんに似てる?」
しかし尋ねる声に返事はない。
ただ微かに喉を詰まらせる音が聞こえ、
「……そろそろ行く」
素っ気なく告げる男の気配が樹から離れた。その背中に向かって、ジゼルは言葉を投げかける。
「生きて帰ってきてよね。また、一緒にお酒飲みたいんだからさ」
「善処はする、保証はないけどな」
そんな弱気な言葉を聞きたかったわけじゃない。が、弱腰になるのも無理はないと、ジゼルは自身を納得させた。
「――お前の作るマティーニ、楽しみにしてる」
最後にそれだけ告げると、やがて男の気配は完全に消えた。
どこか遠くで虫と獣の鳴く、寂寞とした静けさが墓地に降り積もる。
空に穿たれた天窓を見上げると、先ほどよりも寂しく映った。
「……ヴィンセント」
胸を突く切なさに呟いた名前は、冷たく肌を撫でる風にさらわれて掻き消えた――。
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