3-5
山間の砂利道を脇にそれ、深い森へと入る。心許ない道なき道をただひたすらに進む。南東の森と言われたが、はっきりとした場所を明示されたわけではない。
それでも、当てもなく歩くよりは余程いい。少なくとも南東の森の中には確かに目的の場所が存在しているのだから。
生い茂る木々のむせ返るようなにおいを呼吸し、腐葉土を強く踏みしめる。
「――アッシュ、気づいたかい?」
そんな廃教会を目指す道中。クロードが出し抜けに訊ねてきた。
「気づいたって、何が?」
「さっきのドリンクだよ」
「ああ、けっこう美味かったよな。自家製なのかなアレ。って、お前ぜんぜん飲んでなかったけど?」
もったいないと軽い調子で指摘すると、なぜか彼はため息をついた。
「やっぱり気づいてなかったんだね」
「やっぱりってなんだよ」
ただ美味しくジュースを飲んだだけで、そこまで落胆される覚えはない。
軽く睨みを利かせると、視線から言いたいことを察したのか「そうじゃないんだ」と首を横に振った。
「あのバーテンが出した飲み物に、わずかに血が混じってたんだよ」
「血?」
聞き返すと、クロードは「間違いない」と確信を持って頷いた。
量としては本当に極微量で、ドリンクの種類によっては完全に誤魔化されるレベルのものらしいが。純血種でさえ察知できるかどうか怪しいそんなものを、嗅ぎ分けられる嗅覚と味覚は混血にはない。
暗に鈍感だと言われているような気にもなってくるが、ここで突っかかってはさらに惨めになるだけだろう。
「でもなんでそんなものが」
不可解だと腕を組み、歩きながらバーでの様子を思い返してみる。
カウンターで準備する姿を見ていたが、別段怪しい行動は取ってなかったように思う。特に指に怪我をしているということもなかった。
それに明朗快活なあのバーテンがわざわざ混入するとも思えないが。
「恐らく、試したんだと思うよ」
クロードが言うには、バーテンはこちらの様子を注視していた。自分たちだけでなく、客全てに気を配るほどピリッと張り詰めていたらしい。まるでそんな素振りは見せていなかったと思うが、そこも身のこなしと相まって胡散臭いところだという。
彼がグラスに口を付けた時、一瞬眼光が鋭くなったのを感じたそうだ。
極微量の血液入りドリンクを見破れるのは吸血鬼だけ。
「つまり、店に来る客の中に吸血鬼がいないかどうか、それで看破するつもりだったってことか?」
「――その通りよ」
クロードの代わりに答えたのは、どこからともなく聞こえた女の声。
不意に風が吹き木々の梢が煽られて、森は不吉の前兆を思わせるような騒がしい合唱を奏でた。
聞き覚えのない声に、油断なく気配を探っていると――。
二人の前方に、突如として薄桃色をした一匹の蝙蝠が現れた。それに群がるように、続々と蝙蝠が集まっていく。
やがてそれらは薄霧となって、その中に人型のシルエットが浮かび上がった。
瞬く間に風が巻き上がり、取り巻く木の葉とともに一気に霧散する。
そこには腰に手を当ててポーズを決める、小生意気そうな少女が立っていた。
ピンクの髪にくりっとした緑の瞳。端正な顔立ちをしているが、見た目どおり少し幼さも残る。
それに反し、ウェストをきゅっと絞ったワンピースドレスが妙に似合っていた。黒を基調としたシックな装いが、子供っぽさに絶妙な差し色となって大人びた印象を与える。
頭上に戴いたミニハットに軽く触れると、少女はふふんと得意げに鼻を鳴らす。
「……まさか、リゼ」
彼女とは十一年前に会ったきりだが、幼い頃の面影が重なって見えた。
すまし顔をしていた少女は、ゆっくりとした歩調で歩いてくる。
「久しぶり、アッシュ」
堂々と目の前で仁王立つリゼから、思わず目を背けてしまった。
名で呼ばれたことに違和感を覚えたし、それ以上に、あの時言われた言葉が脳裏を過ぎる。『お兄ぃがもっと強ければ……』
「なんで、こんなところにいるんだ?」目を背けたままで尋ねると、
「勘違いしないでよね。別にアンタのためじゃないから。ママに頼まれたから仕方なく手伝ってあげるだけだし」ツンと突き放すように返された。
「まったく、素直じゃないね。アッシュを助けに来たって言えばいいのに」
呆れるように両肩を上げながら、親友が口を挟む。
「な、ななっ! そんなわけないでしょ! わたしだって、い、忙しいんだからっ。血の味も分かんない鈍感バカのために割く時間なんて、本来はないんだからね!」
「あれ、君も飲んだのかい?」
「飲むわけないでしょ、あんな不味そうなもの。いったい何日前の血なのよ。臭いでもうスルーしたわ」
ということは、リゼもあの酒場へ入ったということだ。
べリアに頼まれて来たというのであれば、廃教会の吸血鬼の話も知っているのだろう。その場所を調べるために、自分たちと同じくあのバーに入って聞き込みをしたというところか。
「じゃあ聞くけど、君はどう思った?」
クロードは値踏みするような不躾な視線をリゼへ向けた。
リゼは意にも介さずに、斜に構えると淡々と告げる。
「さっき答えた通り。あの女、わたしを試してたわ。いたって普通を装ってたけど、グラスを手にした瞬間に感じた視線は異常だった」
リゼがそう言うんだから、恐らくは間違いないだろう。別に親友を疑っているわけではないが。少なくとも、信憑性という意味では、クロードよりは頼りになる。
でもそうだとすると、疑念が生まれる。
クロードもリゼも、グラスの中身をほぼ飲んでいない。あのバーテンが正体を暴こうとしていたのなら、何も指摘せずに二人を見逃した理由が分からない。
「そもそも、あの人は何が目的だったんだろうな」
遠慮気味にぼそりと呟くと、聞こえよがしなため息が聞こえた。
「ねえ。もしかしてアンタ、あの時言ったことまだ気にしてんの?」
少女の少し苛立ちの込められた声音に、アッシュは首をすくめる。
目を合わせるのが気まずい。図星だったから。
「別にそれだけじゃないさ。俺も、そう思ってたからな」
伏目がちに答えると、急に額を小突かれた。若干爪が食い込んで痛い。
額を摩りながらリゼの顔を見返す。
「いつまで気にしてんのよ。それじゃあ、わたしが悪いみたいじゃない。いい? マリアさんが死んだのは、アンタのせいじゃない。あの頃のわたしは……ただ悔しさをぶつける場所がなかったからアンタに当たっちゃったけどさ、」
リゼは何故か目をそらし、決まりが悪そうにもじもじとしだした。
「――お、お兄ぃの気持ち、いまなら分かるから」
スカートの裾をぎゅっと握り、顔を赤くしながら俯くリゼ。
久しぶりに「お兄ぃ」と呼ばれ、なんだかうなじの辺りがむず痒く感じた。けれど同時に安心感を覚える。照れたりした時の仕草は、昔のままだった。
「そっか」
ぽんっと少女の頭に手を乗せて、その手触りのいい猫っ毛を優しく撫でる。
「ちょっ、いつまでも子供扱いしないでよね」
そんなことを言いながらも、リゼは手を振り解こうとはしない。「むー」と唸り、体を預け大人しい猫みたいにされるがまま。
ふと十一年前を思い出す。よくこうして頭を撫でてあげた。
懐かしさに目を細め、アッシュはやわらかく笑む。
心にしこりとしてずっと残っていたあの言葉。
いまは赦しを得られたように、少しだけ気が楽になった。
それから、リゼはいろいろと喋りかけてきた。
まるで十一年の空白を埋めるように……。
酒場から南東の森へと入って、すでに二時間ほどが経過した。
シャワーのように降り注ぐ木漏れ日が橙色を帯びていることから、日はだいぶ傾きだしたようだ。森林は濃い緑の香りに満ち、湿る腐葉土は踏みしめるたび土の臭いを散漫させる。
舗装もされていない道なき道をひた進む一向。次第に疲れの色が表情に差してきた。
「まったく、本当にこっちで合ってるわけ? あの女、デタラメ教えたんじゃないでしょうね」
がっくりと肩を落とすと、少女は一人ごちる。疲れたというより、ただひたすらに歩くことにウンザリしているのだろう。鬱蒼と茂る乱立する木々を避けて通る煩わしさ。先を見通せない視界の悪さ。いくら体力に自信があるといっても、さすがに精神的にきついようだ。
「あっ――」
その時、二人の先を行くクロードからわずかに声が上がった。
「どうしたの? まさか教会見つけたっ!? 」
期待からか瞳を輝かせて駆け出す少女に振り返ったクロードは、人差し指を口に当て、「静かに」と制止する。沈黙を要求される状況にあるのだろうか。
聖櫃教会の管理区内であるため、自然、緊張感が高まってくる。
けれど彼の表情は切迫した様子ではなく、沈痛な面持ちにも見えた。
クロードに倣い太い幹を陰にして、アッシュはその向こう側の様子をそっと窺ってみる。
そこには、異様な光景が広がっていた。
薄暗い森の中にあって、燦燦と夕日が降り注ぐ拓けた場所になってはいるものの。辺り一面を埋め尽くしていたのは、夥しい墓だった。木の枝を十字に組み合わせた質素な墓標は、犠牲者の多さを粛々と物語っている。
確かに、奥には情報どおり教会らしき石造りの建築物が確認できた。
しかし廃教会と呼ばれるだけあり、その外観は大きく損傷している。いつの時代に建てられたのか。赤茶をしたレンガの外壁は煤け屋根は半分なく、正門付近は巨大な獣に引き裂かれたかのように大きく抉れている。
「うそ、……なんで……どう、して…………」
一緒になって覗いていたリゼから、驚嘆の声がもれた。
少女が注ぐ視線の先をよく見てみると。墓が避けるようにして設けられた、教会前の花畑に突き当たる。枯れているのか、茶色をした花々の中に一人、人間の姿があった。
「もしかして、あれが暴走吸血鬼か?」
話に聞いていたよりは大人しい印象しか受けない。暴走という言葉の意味から考えるに、想像との相違にため息をつくと、
「アッシュ、見て分からないのかい」
「お兄ぃ……あの
二人から哀れむような憐憫の眼差しを向けられた。
リゼに関して言えば、どうしてか瞳を潤ませている。
「そんな目で見るなよな。お前たちと違って、俺はそこまで視力良くないんだから」
こういう時、混血というのは不便だなと思う。母の血は誇りに思っているが、任務に支障をきたす点だけはもどかしい。
仕方なく、気配を殺しながら移動する。広場の外周をなぞるようにして迂回し、向かって教会右手の林へ身を隠す。驚いたことに、教会の裏手にも無数の墓が突き立てられていた。
目標まではおよそ五十メートル。
アッシュは一息つき、改めて幹を背にして覗き見る。
「――――――ッ」それを認識した瞬間、息が止まるほどの驚愕に我が目を疑った。
枯れた花々の中にある金髪の若い女性。
もとは綺麗な純白だったであろうドレスは、その大部分が赤黒く汚れている。
唯一咲いていたユリの花を愛おしそうに撫でる姿が、不意に幼い頃の記憶と重なった。
そこにいたのは、間違いなく母マリアだったのだ。
二十歳の頃に不死者となって以来、老いることのなくなった体。聖母のようなやわらかな物腰、たおやかな佇まい。見間違えるはずがない。十一年前に死に別れたと思っていた、母マリアだ。
「母、さん……生きてたのか――」
「アッシュ」
木立から出ようと一歩踏み出すと、いきなり肩を掴まれた。振り返ると、クロードは何も言わずに首を横に振る。
「どうして止めるんだ、母さんが生きてたんだぞ!」
「落ち着きなよ。ドラクロア卿の情報を忘れたのかい?」
「暴走がどうのだろ。でも、あれのどこが暴走してるっていうんだ? それに母さんは吸血鬼じゃない、不死者だッ」
強い調子で訂正する。と、「――危ない!」リゼの叫びと同時だった。
がくんと、脳が揺さぶられたと思ったのも束の間。次の瞬間には、アッシュは教会の壁へと激突していた。あまりの衝撃にそのまま外壁をぶち破り、教会内の長椅子を次々破壊しながら反対側の内壁に打ち付けられる。
どうやら、リゼに蹴り飛ばされたらしい。幸い、椅子が腐っていたため軽いクッションとなり、二次的なダメージはそこまで負わなかった。
わずかな間を置いて、地鳴りとともに重いものが倒れるような轟音が響く。
咽込みながら上体を起こし、軽くめまいのする頭を振った。見通しの良くなった教会内からいまの状況を確認する。
先ほどまで自分たちが隠れていた樹木が、見事になぎ倒されていた。林側に倒れていることから、二人がやったものではないことが窺える。
「ってことは――――」
「やめて、マリアさん!」
その時、リゼの緊迫した説得の声が聞こえた。アッシュは慌てて駆け出し、教会を出る。
そこには、墓を蹴散らしながらリゼと戦うマリアの姿があった。不死者であるにもかかわらず、母の身のこなしは常人のそれではない。
鋭い爪を武器として、ただひたすらに相手を害しようと腕を振り下ろす。しかし少女はことごとく攻撃をかわし、マリアの手は触れることすら叶わない。
勝てるはずがない不毛な戦い。それを母は解らないでいるのか。
かつて家で預かったことも、娘同然に可愛がったことのあるリゼを目の前にしても、それに気づかない。
暴走。その二文字が、アッシュの脳内で螺旋を描いていく。
「やめてくれ……」発した声は掠れていた。
虫も殺せなかったあの優しい母が、いまは危害を加えるために攻撃している。信じられなかった。信じたくない現実だった。
それでも、二人の戦闘を止めるために、アッシュは声を張り上げる。
「やめてくれよ、母さんッ!! 」
黄昏の空へ、いっせいに飛び立っていく無数の鳥。悲痛な叫びは森をざわつかせた。
言葉が届いたのか。マリアの動きがピタリと止まる。
が――、
ギギギとぎこちなくこちらを向いたマリアは、見たこともないほど目を真っ赤に充血させていた。不気味に嗤う口元が、背筋を悪寒で凍りつかせる。
嫌な予感がし、わずかに足を引いた刹那。
マリアは新たな獲物を見つけたようにカッと目を見開き、虚をついて踊りかかって来た。
「お兄ぃ! 逃げてッ!! 」リゼの叫びが耳に木霊する。
「クソッ!」
小さく吐き捨て、飛びついてきた母の両腕をがっしと掴む。
――逃げてもしょうがない。自分は息子だ。母さんの正気を取り戻さなければ。
首に噛み付こうとしてくる母の顔を、その度に半身を引いてなんとか紙一重で避け続ける。
「母さん、俺だ! アッシュだよ!」
「ガァアアアッ!」
至近距離で訴えかけるも、一向に落ち着きを取り戻さない。
どころか、組み合った当初よりさらに力が増してきているのを、腕へかかる負荷で感じた。
「ッ――なんて、力だ」
混血といえど吸血鬼。その自分より、元人間の母の力の方が強い。これが暴走の影響なのか。
思考している間にも、マリアの顔が徐々に迫る。腰を引きながら、なんとか一定の距離を保っていたが、それも限界へと近づいていた。
あわや母の牙が首筋に届こうかという寸前。かかっていた負荷が急になくなり、母の姿が視界を滑って落ちていく。
代わりに目の前に現れたのは、クロードだった。構える左手は手刀の形を成している。
どうやら母を気絶させたようだ。
「ごめんよ、アッシュ。いまはこうするしかないと思ってね」
「……悪い、助かった」
自分がなんとかしたかった悔しさに歯噛みする。
しかし、助太刀がなかったら今頃どうなっていたかを思うと……。
「とりあえず、教会に運ぼう」
クロードに促され、気を取り直す。
母を抱き起こし、一先ず教会内へと寝かせつけるために移動した。
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