3-4

 トランシルヴァニアの南東に位置する、旧ブラショフ県ブラショフ。

 周囲を山に囲まれた中世の薫りを残す街並みは、その時代に生きていなくても、どこか懐かしさを感じさせる。

 南部の山中にはブラン城が聳えている。昔悪名を馳せたドラキュラの城だ。ヘルシングに退治されてからは、今はなんとも虚しいことに博物館になっているらしい。

 赤茶色の屋根瓦がひしめく歴史地区を特に楽しむ暇もなく、アッシュとクロードは郊外へと赴いた。


「ドラクロア卿の言う近郊って、一体どの辺りなんだろうな」


 アッシュはぐるりと周辺を見渡す。

 小さな村落のようだが、人通りもほとんどなく、街の喧騒とはまるで無縁な静かな所だった。

 ブラショフの旧市街からさほど離れていないにもかかわらず、一気に片田舎度が増す。

 目線を上げると、トランシルヴァニアの外壁を遠望できる。壁まではそう遠くない。

 ただなんとなく、森の方にあるだろうと東へ足を運んだのだが、まさか失敗だったのか?

 情報が曖昧すぎて、幸先不安になってくる。


「こんなことなら、中央広場辺りで聞いてくるんだったな」


 旧市街中央に位置するスファトゥルイ広場西側にはブラショフのランドマークにもなっている黒の教会、中央には噴水や旧市庁舎がありブラショフを訪れる観光客で賑わっている。地元の人間も数多いだろうから、何か知っている人が少なからずいたかもしれない。

 しかし、通りが多すぎるのもそれはそれで不味いだろう。中に執行者が混じっていないとも限らないからだ。臆病風に吹かれ、街での聞き込みを端から除外したことを悔いる。


「肩を落とすにはまだ早そうだよ?」


 そう言いながらクロードは前方を指差した。

 つられて目を向けると、なにやら酒場らしき木の看板が。木造の建物が多い中、そこだけ石造りで浮いていた。外観だけなら、都市部に在ってもおかしくはないくらいに洒落ている。

 いまから旧市街まで戻るというのは、さすがに気乗りしない。ブラショフ近郊に潜んでいるというのなら、この辺りの住人が知っている可能性もなくはないだろう。


「……まあ、当てもなく歩くよりはマシか」


 クロードと顔を見合わせ、互いに頷く。

 二人は情報が聞けることを願いながら、店の扉を開けた。

 カウベルがカランと音を立てると、「いらっしゃい!」威勢のいい溌剌な声が響く。

 辺鄙な立地でありながら、意外にも客席はほぼ満席に近い。もしかしたら、最近オープンしたばかりの有名チェーンだろうか。

 そんな賑やかな店内。六つあるテーブル席を、オーダーを聞きながら忙しなく回る一人の女性がいた。

 歳は二十代前半だろうか。バーテンの制服に包まれた体はしなやかで、程よく肉付きのいい肢体をしている。軽く前へ屈むたび、ぴったりと張り付くミニスカートが、彼女の形のいい魅惑的な尻を浮き立たせていた。長く艶やかな黒髪が踊るたび、客のため息を誘っている。

 なるほど、どおりで男性客が多いわけだ。


「あ、二名様ね。奥のカウンター席へどうぞ!」


 明け透けなまでに快活な女性に促され、L字型のカウンターの端っこに二人は腰掛ける。

 カウンター内に設置された棚には、古今東西の様々なボトルが置かれていた。ふと見たメニュー表のカクテルの多さに納得する。

 なんとはなしに店内を見渡してみる。アンティークの調度品の数々は、トランシルヴァニアではあまり見られないものだ。東欧のものではなく西欧のものだろうか。

 バーテン姿の女性以外、ほかに店員らしき姿は見当たらない。

 なかなかこじゃれた店内を興味深く見物していると、ふとバーテンと目が合った。

 にこりと微笑を返され、彼女は銀のトレーを抱いてこちらへ向き直る。

 その時、彼女の後ろに座っていた大柄の男の左手が、それを待っていたかのようにぬっと尻へ伸ばされた。触れるか触れないかの瞬間――


「――ッ!」


 瞬時に身を翻した女性は、刹那的な速さで男の手首を掴む。その手を捻じ切らん勢いで捻り上げると背後に腕を回し、テーブルに置かれていたナイフを手に取って頚動脈に突きつけた。

 カン! と高い音を立てて、いまさらのようにトレーが床に落ちる。

「ヒィイ!」男は情けない声を出し、「こ、殺さないでくれ」と右手を上げた。

 殺人を躊躇わないような暗い瞳をしていた女性は、はっとして顔を上げる。


「あっ……」静まり返る店内の注目を一身に受けていることに気づいたのか、「あっははは、これはそのー、余興なんで、気にしないでくださーい」


 パッと男の拘束を解き、苦し紛れに体面を繕う。

 数瞬の沈黙の後――、祭りのようにドッと歓声がわいた。

 椅子に背中を預け放心する男に冷徹な一瞥を向けて、彼女は右へ左へと謙遜を振り撒きながらこちらへ歩いてくる。

「アッシュ」クロードは耳元へ口を寄せ、「彼女、ただ者じゃなさそうだよ」小声で注意を促してきた。


「いやーおまたせ。ご注文は、な、なんにする?」


 ひくひくと引き攣った接客スマイルが、見ていて気の毒だ。

 しかし先ほどの身のこなし。ただ者でないことは一目瞭然。もしかして執行者なのか、そんな不信感が鎌首をもたげてくる。

 懐疑的な眼差しを向けていると、


「……あのー、ご注文――」女性は困った顔をし、ふとぱちくりと目を瞬かせた。「って、あんたたち、もしかして未成年?」


 ジトッとした目で睨まれる。


「いや、一応十八だけど。別に酒を飲みにきたわけじゃないんだ」

「そうなの? ジュースならいろいろ取り揃えてるけど……」

「アッシュ、せっかくだからなにか貰おうよ。喉乾いちゃったしさ」


 喉を潤しに来たわけではないのだが。

 しかし話を聞こうというのに、情報量を払わないというのも少し気が引けるか。


「そうだな」


 同意し、クロードはカシス、アッシュはラズベリーを注文した。

 洒落たグラスに注がれたドリンクを半分ほど飲み下し、さっそく切り出す。


「この付近で吸血鬼の目撃情報があるらしいんだけど、知ってることを聞かせてほしいんだ」

「吸血鬼? あー、それなら知ってるよ。確か南東の森にボロい教会があって、なんでもそこに吸血鬼が住み着いてるーとかなんとか」

「出だしからビンゴだね」


 ポンと肩を叩いてきたクロードに頷き返す。


「なに? そんなこと聞くってことは、もしかしてあんたたち、」


 疑念に満ちた目で見られ、自分たちの正体がバレたのかと心臓が跳ねる。

 次に繰り出される言葉次第では、最悪消すことも止むを得ない。

 緊張を押し殺し、静かに唾を嚥下する。


「――執行者?」


 心配して損をした。強張った肩の力を抜く。しかし、


「まあ、そんなところだよ。新人でさ。ね、アッシュ?」


 安堵したのも束の間。クロードはまったくもって適当なことを言い出した。

 何言ってるんだ? と視線で訴えるも、何処吹く風で彼は続ける。


「ところでお姉さんさ、さっきの凄かったね。お姉さんも執行者なのかな?」


 その可能性もなくはないのに、まるで臆面もなく訊ねた。

 もしもそうだったなら、そんな万一のことは微塵も考えてなさそうなお気楽さだ。

 問われた女性は鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くする。

 このままじゃ自分たちの首を締めかねないかも。情報は聞けたのだから長居は無用だ。これ以上相棒が余計なことを口走らない内に店を出なければ。

 アッシュはグラスの中身を飲み干して、二人分の代金をカウンターへ置き席を立とうとした。

 その時、「あはは!」と愉快げに笑う声が響く。


「そう思う? でも残念。あたしはただのバーテンだよ」

「でもさっきの体捌き――」

「あれは痴漢対策だよ。ああいった客は後を絶たないんでねー」


 困ったもんだよと、女性はぼやく。

 訝るクロードの視線に一切表情を曇らせることなく、グラスを拭こうとカウンターに備え付けられているハンガーへ手を伸ばした。


「ふーん」


 自分から聞いておいて、彼は興味なさそうに空返事。

 さすがにそれは失礼だろうとアッシュは思う。


「まあ、期待した答えじゃなくて悪かったわね。廃教会に行くんなら、気をつけて行きな」


 不快な顔一つ見せず、快活な笑顔でそう気づかってくれる。

 テーブルの一つからオーダーが入ると彼女はグラスを置き、ひらひらとこちらへ手を振ってカウンターを離れていった。

 もう話すことはなにもないよ。そう物語っているような背中は泰然自若としていて、嘘を言っているようには見えなかった。


「俺たちもそろそろ行くか?」

「……そうだね」


 カシスジュースに目を落とすクロードは、何か気がかりでもあるように眉間に皺を刻んでいる。そのグラスの中身はまったく減っていなかった。

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