3-3

 聖櫃教会宿舎一階、執務室。

 荘厳な大聖堂を望む窓を背に、ノエルは机に向かい事務仕事に追われていた。

 焦燥感からだろうか、見下ろしてくる書棚に並んだファイルのラベルに、もの言わぬ威圧を感じる。


「――こんなに書類が溜まってるなんてッ」


 机に積み上げられた書類は、優に七百枚は超えている。時折時計に目をやりながら、もどかしさに歯噛みする。自然、紙面にサインをする万年筆にも力が入るというものだ。


「ノエル、あんまり力むと紙が破れるぞ? バチカンに送る大事な書類もあるんだろ」

「そんなこと言うんだったら、少しくらい手伝ってくれてもいいじゃないですかッ」


 毎度のごとく、壁に背を預けては傍観するだけの同僚に、少女は不平不満の眼差しで抗議する。

 男は山積みにされた書類をチラと見やると、辟易するように顔をしかめた。


「俺がサインしたら筆跡ですぐにバレるだろう」

「角度から長さから、完全にコピーすればいいじゃないですか」

「無茶言うな」


 ヘルシング卿じゃあるまいしと、ヴィンセントは呆れるように肩をすくめた。

 そんな仕草一つにも、いまは苛立ちしか起きない。


「こんなところで手間取られてる場合じゃないんです! 私には、やるべきことが――」

「書類へのサインも、お前の大事な仕事だ。もう少しくらい、頭としての自覚を持ったらどうだ」


 もっとも過ぎる彼の言い分に、ノエルはぐうの音も出なかった。

 祖父が引退し、自分が執行者の頭領を任されたからには、ヘルシングの名を汚さないようにしなければならない。

 それは常に念頭に置いているつもりではいる。けれど、


「頭である前に、私は一人の人間です」


『衝動で動くのはヤツらと同じだ』昔、祖父に言われた言葉だった。

 しかし、のっぴきならない理由がある。いまここでこうしている間にも、吸血鬼はよからぬ謀をし、暗躍しているかもしれないのだ。

 両親の仇を討ちたい。ただその思いだけに突き動かされ、いままでやってきた。その仇敵らを殺せる機会が、手を伸ばせば届く位置まで迫ってきている。

 落ち着け、機が熟すまで待て、頭らしくしろ。そんなことを言われても、駆け出す気持ちはどうにもならない。

 ノエルの様子を横目で窺っていたヴィンセントは、何を思ったか壁から背を離す。そして、どっかりと応接ソファーに腰を落とした。

 ノエルが目をやると、担いでいたクロスボウをテーブルに置く。ガシャリと重そうな音を立てて横たえられた専用武器。彼は誤射せぬよう、連射機構のシリンダーを外す。

 もしかして手伝ってくれるのかと、少女は淡い期待を抱くも……。どうやらそうではないらしい。

 無精髭はこれ見よがしにハンカチを取り出した。そして、近接戦闘用に刃を付けた弓部と、弓床から一本だけ突き出た、鉤爪を逆さに取り付けたような先端部を拭き始める。


「ん? なんで残念そうな顔してるんだ?」

「別に、なんでもないです――」


 唇を噛み視線を流す。

 大方、自分だけなにもしていないことに居心地の悪さでも感じたのだろう。手持ち無沙汰を誤魔化すためにメンテナンスのフリをしているのだ。

 いつもと違う行動をしたからと、一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。


「聖霊銀のお手入れに余念がないですね」


 ため息混じりに皮肉を込める。


「まあな。お前も武器の手入れくらいはしておけよ」


 まるで沼に杭だった。

 これ以上の問答は時間の無駄だろう。ぱっぱと仕事を終わらせて任務に出なければ。

 逸る気持ちは筆を雑に走らせた。


「ノエル――」


 集中しようとしていた矢先、ヴィンセントから声がかかる。

 おかげで筆圧が狂い、おかしなところで色が濃くなってしまった。


「なんですか?」


 ピリッとしながらも、紙面に目を落としたままで訊き返す。

 次の書類と入れ替え、名前をサインしようとし、


「そういえば言い忘れていたが、ブラショフ近郊に欠片の情報が入っている」


 彼の言葉に、ピタリと万年筆を握る手が止まる。緩やかに目線を上げると、少女はなんで早く言わないのかと視線で責めた。


「考え事してて忘れてたんだ、そんな目をするな」ヴィンセントは特に悪びれることもなく、「――確かめてみたらどうだ」淡々とそう告げた。

「えっ、何をですか?」


 言葉の意味を測りかねて訊ねてみるも……。

 手入れを再開したヴィンセントが、それ以上口を開くことはなかった。

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