3-2
「あの子の様子はどう?」
アッシュと別れた後、クロードはベリアの部屋に呼ばれた。
ソーサーを片手に、けれど優雅なティータイムをとはいかない。象嵌の際立つサイドボード上の壁に飾られた、絵画の薔薇園を見上げながら応答する。
「今のところ、まだ大丈夫そうですけど……」
「歯切れが悪いわね。なにか気になることでもあるの?」
ベリアはティーカップを傾け、紅茶を一口含む。
少年へ目を向けると、俯いていることに気づいた。
「どうしたの、クロード」
女王の問いかけに、少年はわずかに手を震わせた。ソーサーの上のカップが揺れカチャッと小さく音を立てる。液面に目を落とし、躊躇いがちに口を開いた。
「最近、因子の力が強くなってる気がするんです。執行者の中に、ヘルシングの孫がいて。その時も、感情の昂ぶりで呪いの力が発現しそうになってましたし」
「ジェラールの施した戒めが、緩くなってると?」
「……恐らく」
そう呟いて、クロードはベリアを見返した。
彼女は、まるで母が子を心配するような不安な表情を浮かべている。愛した二人の遺児。我が子のように可愛がってきたアッシュのことだ、仕方がない。
「成長とともにヤドリギも育っていくから心配ない。ジェラールはそう言っていたわ」
「確かに。普通に過ごし生きていく分には、それで問題なかったんだと思います。でも――」
口を濁す少年の言いたいことを察したのか、
「アッシュの憎悪が、強すぎた?」
ベリアは引き継ぐように言葉を繋ぐ。
クロードは押し黙り、静かに目を伏せた。
沈黙を肯定と受け取ったベリアは、ティーカップをテーブルに戻しながら息をつく。
アッシュの霊体に埋め込まれた聖木の種。それは呪いを吸い上げさせて因子の発現を封じるための措置として、ジェラールが施したものだった。
「そう。やっぱり、始祖の力を抑えることは難しいのかしら――」
口惜しそうに人差し指をはむ、ベリアの紫瞳が揺れている。
彼女の脳裏を一瞬掠めたのは、亡き父、前吸血鬼王がしようとしていたことだった。
と、
「――僕が、……僕がアッシュの力をなんとしてでも抑えますから!」
突然、少年が声を張り上げた。
いきなりのことで、ベリアは目を丸くする。
「クロード?」
「あいつは僕の友達です。ナイトブリングだからってわけじゃなく。僕は僕の意思で、アッシュを救ってみせる」
そこには、いつもの軽薄な彼の姿はない。ただ心の底から親友を思う、一人の男の真剣な面持ちがあった。
「最悪は、起こらないかしら」
「起こさせません、絶対に」
断言するクロードの赤瞳を、ベリアはまっすぐに見つめ返す。交錯する視線。
目を瞬かせ、ややあってから女王はくすりと鼻を鳴らした。
種の未来を担う少年たちを信じるのも、吸血鬼王である者の務めであると。
「……分かったわ。あなたに任せる」
「ベリア様」
「そうでなくっちゃ、殺した意味がないものね。頼んだわよ、クロード」
友達を任されたことに、少年は嬉しそうに表情をほころばせる。
「はい!」気持ちよく返事し、退室を告げると、クロードは部屋から慌しく出ていった。
「ふふ、元気ね――」柔和な笑みを浮かべ、冷めた紅茶を啜り、「ところで、あなたは行かなくていいの?」
先ほどから感じていた背後の気配に、ベリアは優しく問いかける。
すると黒いカーテンが波打ち、そこから一人の少女が現れた。
薄桃色のミディアムショートに、大きな翠瞳。綺麗な鼻筋の下には、不機嫌そうに歪められた口がある。どことなくベリアに面立ちが似ているが、スタイルまではそう言い切れないのが悲しい。
しかし小柄ながら、女王の前で偉そうに腕を組む堂々とした風貌は、ある種の威厳さえ感じさせる。愛想を振り撒いていたのなら、十中八九、熱いため息を漏らすであろう美少女だ。
「ママ……」
ベリアをそう呼ぶ少女は、面白くなさそうに眉根を寄せた。
「リゼ、あなたいつまでヘソを曲げてるの?」
「ヘソなんて、曲がんないもん」
ツンとそっぽを向くリゼに、女王はため息混じり、
「マリアが死んだのは、アッシュが弱いからじゃないことくらい、あなたも解ってるでしょう?」
母親として諭してみるも、少女は「う~」と唸るだけで返事をしない。
「はぁ~。昔はあーんなにアッシュのこと好きだったのに……」
ぽつりと呟いたその一言に、「んなっ――」ボンッと音がしそうなほど、リゼは瞬間的に顔を赤く染め、「ななな、なに言ってるの!」
「だって、お兄ぃお兄ぃって、後ろを付いて離れなかったじゃない」
「いつの話してるのッ! そんな昔のこと持ち出さないで!」
可愛らしくむくれ、母に抗議する少女。黒いキャミソールをぎゅっと握り、必死に羞恥心を紛らわせているようだ。
ようやくらしくなってきたなと、ベリアはクスッと微笑む。しかし、
「からかって悪かったわ。でもね、」眉を垂れると、女王はリゼの瞳に訴えるように「――あの子はもっと、辛いのよ?」そう切なく告げた。
少女も頭では理解しているつもりだ。もう一人の母と慕った女性の死が、これほどの悲しみを自身に与えた。それが実の母を失ったアッシュなら、その辛さは察するに余りある。
リゼは本当の母の顔なんて覚えていないが。ベリアを失ったと想像するだけで、幼い頃は涙したものだ。その度に、マリアが慰めてくれた。『大丈夫だよ』と優しく頭を撫でてくれた。
思い出しただけで、いまでも泣きそうになってくる。
けれどそこをグッとこらえ、いつも通りの自分を繕いリゼは笑顔を見せた。
「ママも悲しかった? ジェラールおじさんも亡くなって」
「……そうね」
ティーカップの縁を指でなぞりながら、ベリアは物憂げに目を細める。
「好きだったんでしょ?」
娘の一言に、女王の指がピタリと止まる。
「あなた、どうしてそれを知ってるの?」
「見てれば分かるよ。だってママ、おじさんの昔話する時楽しそうなんだもん」
きゃっきゃと、母の恋愛話に興味ありげにせっつく年頃の娘。
まさか看破されているとは思いもせず、思春期の少女のように女王は頬を赤らめた。
「あっ、赤くなった」
「あんまり大人をからかうんじゃないの」
「ねえねえ、いつから好きだったの?」
「っ…………小さな頃からよ」
「おじさんがマリアさんと結婚した時、寂しかった?」
「んーー、まあ、最初はね――」
懐かしい記憶に遠い目をして、ベリアは過去を回想していた。
いつも競い合うように力比べをしていた二人。いわゆる喧嘩仲間だ。
ジェラールは、真祖であるベリアを超えることを目標としていた。敵うはずもないのに、ただ純粋に。
力を得るために人間の血が必要だと、いつ頃か旅に出た先でマリアと出会ったそうだ。
吸血鬼を前にして、恐れることもなかったマリア。それどころか、慈悲をもって接してきたことに興味を抱いたと、ジェラールは言っていた。
人間と交わることを父である吸血鬼王は禁じていた。だが、禁忌を破って二人は結ばれた。
――自分の知らないところで……。
ベリアは心の底から嫉妬した。
突然現れて横から彼を奪った彼女を、殺したいとも思っていた。でも――
「あの子、憎まれてるのを知ってなお、私に優しかったのよ」
いつだったか、病に臥したことがある。
誰にも会いたくなかったのに、マリアは会いにきた。面会謝絶だと断っても、帰らなかった。
しぶしぶ部屋の扉を開けると。目の前に、母を見失った幼子みたいな泣き腫らした顔で、ユリの花束を抱える彼女がいた。
ただの風邪なのに、『ベルちゃんが死んじゃったらどうしよう』なんて言われて泣き付かれた。
「なんだか、怒ってるのが馬鹿らしくなってきてね。だって、いじらしいじゃない」
王の娘である自分をちゃん付けで呼んだのは、呼ばせたのは、後にも先にもマリアただ一人だけ。
こんなにも普通に接し愛してくれた人を、その時まで知らなかった。愛されることの幸せを、マリアのおかげで知ることが出来たと思う。
いつしかベリアは彼女に心を開き、いっそのこと二人を愛そうと誓ったのだ。
楽しかった思い出のフィルム。決して色褪せることのない記憶に、自然と口元がほころぶ。
「本当に、あの子は可愛かった。聖女という言葉は、マリアにこそ相応しいわ」
いつの間にやら椅子を寄せ、傍らで話を聞いていたリゼの頭をそっと撫でる。
少女はうんうんと頷くと、「あんな素敵な女性からアッシュみたいなのが生まれるなんて、いまでも信じらんないけど」悪戯そうにからからと笑う。
「リゼ、」
「ん?」
「私は、アッシュを死なせたくない。……あなたは?」
「わたしは……ッ」
見返した母の瞳が、薄っすらと涙で潤んでいた。
娘の前では決して涙を見せたことがなかったベリア。いつか、人知れず泣いているのをリゼは部屋の外で聞いたことがあったが。部屋に入ると、決まって誤魔化していたのに。
母の悲痛な表情に、リゼは心苦しそうに目を背ける。
ベリアがどれほど二人を想っていたかを知っている。それを思えばこそ、母の言いたいことは十二分に理解出来るつもりだ。――自分は特別なのだから。
不意に、リゼは何かに気づいたように膝を見た。そこには、母の手が優しく添えられている。
それが後押しになったのか。少女は仕方がなさそうにため息をついた。
今度は目をそらさず、真っ直ぐに母の瞳を見つめる。そうして、微笑を浮かべて頷くのだった――。
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