2-4

 ――ヘルシング卿から召集がかかった。

 ヴィンセントの言葉に従いあの場から立ち去ったはいいが、果たしてこれで本当によかったのだろうか。

 夜のイルヴェキアを歩くノエルの胸中には、複雑な思いが渦を巻いていた。

 一つは吸血鬼を殺せる場にいて、敵前逃亡にも等しい真似をしてしまったこと。

 首領から退いたとはいえ、未だ組織内で強い力を持つ祖父の命令は絶対だ。

 従わざるを得ないとはいえ、執行者としての職務を放棄したことになりはしないだろうか。

 命令は順守すべきだが、吸血鬼を駆逐する任に就いているのならそれを執行するのが、現首領である自分の役目であるというのに……。

 組織の一員としては理解出来る。しかし、ヴァン・ヘルシングの孫としては理解に苦しむところだった。

 通り雨が降ったのだろう。コートを着ていても少し肌寒く感じる腕を抱き、網目のような地面に目を落とす。

 夜霧にぼやけた街灯に照らされ、艶めく石畳の道路をなんとはなしに目でなぞっていると、


「どうした、ノエル?」


 隣を歩くヴィンセントから声がかかった。

 心配しているように聞こえるが、至って普段通りの口調だ。

 ――逆に訊きやすい。

 視線は下げたままで小さく吐息をつき、「なぜあの時止めたんですか?」横目にしてノエルは問う。

 彼は嘆息すると、「さっきも言っただろ――」といって続けた。


「ヘルシング卿からの召集だ。命令は絶対。首領のお前が規律を破るわけにはいかないだろ」

「吸血鬼を殺すことよりも、おじい様の命令の方が大事なんですか。目の前に二人もいたのに……」

「そいつはヘルシング卿に訊くべきだな。その文句に俺が答えられることは何もない。だが、無法無秩序な組織など大して奴らと変わらない。それだけは言っておく」

「おじい様みたいなことを言うんですね」

「師事していたからうつったんだろ」


 ヴィンセントは肩をすくめクロスボウを担ぎなおすと、「ただ、」そう前置いた。


「あの時のお前は、どこか躊躇があるように見えた。言葉だけは烈しかったけどな。屍食鬼を殺る時のいつもの無慈悲冷酷さが感じられなかった。そんな動揺した状態で、本当に戦えたのか?」


 長年付き合いがあると、そうした機微も見破られるものなんだな。ノエルは苦虫を噛み潰す。

 そう。複雑な思い、その半分がアッシュの存在だった。自分にも近しいほどの憎悪。彼の言った『殺したい奴がいる』それが祖父だった事実。アッシュの過去にも何かがあった。その何かに祖父が関わっている。

 今までは、自分の仇の為だけに吸血鬼を根絶やしにしようとして生きてきた。けれど、そうした似た想いで生きるアッシュの存在を知り、わずかとはいえ吸血鬼という存在を前にしても決心が揺らいだことは認めざるを得ない事実だ。

 ――それも自分の弱さ、か……。

 ノエルは諦めたように吐息をつき、視線を大通りのショーウィンドウへ投げる。

 薄ぼんやりと鏡のように反射した自身の向こうに、背の高いヴィンセントの姿があった。一歩前を行くその左腕には執行者の腕章が在る。

 自分と同じ、けれど違う。考え方の相違など今まで何度も交わしてきた。口喧嘩になることも、互いに口を利かなくなることさえ幾度かあった。

 けれどこうして行動を共にし、組織として吸血鬼狩りの任務に就いている。

 ――だけど、私の想いなんて理解されない。両親を殺された私の気持ちなんて……。

 悔しさに涙が滲みかけるも、ガラスに映る自分の眼を気丈に睨み返し、心の中で叱咤する。

 涙はもう流さない、あの夜に散々泣いたでしょ、と。

 その時。隣を歩くヴィンセントの視線が不意にショーウィンドウ越しにこちらを向いた。ツンとする鼻をすすってノエルは慌てて前を向く。


「ヴィンセントさん、急ぎましょう。おじい様から小言をくらわない内に」


 早足で彼を追い越し、背後を振り返ることなく毅然として告げる。

 こんなことで小さな機微も見逃さない相棒を誤魔化せたりはしないだろう。

 しかし、背中越しに感じる気配は何も訊ねてくることはなく。代わりにどこか仕方なさそうに息をつくと、スッと隣に並び歩いた。


「……そうだな。あんまり夜更かしさせるのも不味い」

「老人扱いすると怒られますよ。『まだそんな年じゃない』って」

「内緒にしておけ。この年にもなって叱られるのはごめんだからな」


 そう言って懲り懲りだと肩を竦めるひょうきんな彼がおかしくて、ノエルは思わず笑みをこぼした。

 いまはこの距離感が心地いい。

 不意に訪れた一瞬に楽しさと安らぎを感じつつも、二人は宿舎へと足早に急いだのだ。



 祖父からの召集は、以前回収した牙痕のない屍食鬼に関するものだった。

 渡されたファイルによると、解剖結果からは後天的な吸血病によるものではないことが記されていた。かといって先天性の遺伝子の異常だとか断言できるほどの結論には至っていないという。

 詳細を知るにはまだまだ検体が必要だという旨を聞き、その場は解散となった。


 白レンガ造りの宿舎三階。総勢二〇〇名の聖櫃教会関係者が暮らす建物、そのノエルの自室にて。

 ダークブラウンを基調とした家具で揃えられた、落ち着いた雰囲気の1LDKの部屋で一人。ノエルはアンティークの卓上ランプに照らされた、仄暗い机上に目を落としていた。

 開かれたファイルをぼうと眺め、大した収穫がなかった召集にある種の落胆を感じていたのだ。

 研究者といっても総てを識っているわけではない。それは理解しているつもりだけれど、こんな小さな報告だけで呼び戻されたのだと思うと、あの時仕留めきれなかったことに後悔の念も湧いてくる。

 いつになく厳しい顔をしていた祖父に、命令を順守することは吸血鬼を駆逐することよりも大切なことなのかを聞けなかったどころか、アッシュが殺すと口にしていたことすら言えず仕舞いだった。

 やり場のないもやっとした感情に気鬱になり、紙面上の『吸血鬼』『屍食鬼』という単語をただ睨むことしか出来ない。

 その時、不意に曇天の空が稲光り、遠雷の音が聞こえた。

 ――願わくば、怒れる神の雷が吸血鬼たちを焼き尽くさんことを……。

 そんなことをつい願ってしまいたくなる。

 たかれるフラッシュのように断続的に雷光が室内を照らす中、ノエルは等身大の姿見の前に立った。

 真白いロングのネグリジェに身を包み、こちらを見返してくる青い瞳は苛立ちに怒っている。復讐心と焦燥……そして躊躇ったことに。

 弱く脆い感情に揺らいだ自分自身を責めているような、そんな気さえした。

 ――そうよね……

 ノエルは呟く。


「復讐は私の成すべきことなんだから。躊躇や遠慮なんていらないよね。アッシュだって、そうでしょ?」


 鏡の中の自分に問うてみたところで、誰の答えも返ってはこない。

 しかしノエルは、もう二度と揺らぐことのないよう心に刻むために続けた。

 正対する自身に、別れ際に『殺す』と吐き捨てたアッシュの虚像を重ねて。


「……次こそ殺すわ。アッシュも、吸血鬼の存在そのものも。私は執行者である以前に、復讐者なんだからッ」


 アッシュの姿が霧消し、代わりに自分が浮き上がってきても、その瞳は怒りに細められたままだった。

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