2-3

 あれから数時間。二人は方々探し回り、計五ヶ所の教会をあたった。

 なぜか移動手段は徒歩。貴族のくせにクロードには妙な拘りがあるようで……。足で稼ぐことに執着したせいで、無駄に疲れることになった。

 アッシュは混血だ。純血種であるクロードよりも体力ですら遥かに劣る。それを少しは考慮してほしかった。


「あれ、どうしたんだいアッシュ? 疲れたような顔してさ」

「お前なぁ……」


 涼しい顔で言われ、ありったけの不満を表情に込めて睨み返した。


「ははは、嫌だなー。そんな顔をしたって消耗した体力が戻ってくるわけでもなし。ここは気を取り直して、さくさく欠片を集めようじゃないか!」


 いつも通りの軽さとはいえ、この時ばかりは少しイラついた。

 途中、何度か執行者に先回りされていたこともあり、訪れた場所は実際にはもう少し多い。見つからないよう身を隠しながらの移動となると、余計に気疲れもする。

 収穫があったのなら疲労も報われるのだろうが。結局、北西部に点在している教会には、聖槍の欠片はなさそうだった。

「はぁ」アッシュは重く息を吐き、天を仰ぐ。

 すでに夜の帳が下りている。虫も鳴かない、静かで穏やかな夜だ。

 けれど生憎の曇天で、十三夜の月は分厚い雲に覆われ、その姿を拝むことはできない。

 イレーヌに夕食の支度を頼んである。あんまり遅くなると不味い。

 彼女はいつまでだって自分の帰りを待ち、料理に手をつけない。先に食べていていいと断っても、律儀に待ち続けるのだ。心配をかけさせないためにも、出来れば早く帰りたい。

「これでラストだからさ」、クロードの言を信じるなら、今日は次で最後だ。

 憂鬱に溜息は重なる一方だが、執行者に聖槍の欠片を渡すわけにはいかないのも、また事実。


「なら、さっさと終わらせるか」


 疲れた足に喝を入れ、北西部の外れにある村へ足を踏み入れた、その時だった。


「――キャアアアアアー!」


 突然響いた女性の悲鳴。断末魔のような金切り声だ。

 残響音は静かな夜に長く余韻を残すことなく、途中でくぐもるようにして掻き消えた。


「アッシュ」

「ああ!」


 二人は弾かれるように声のした方へ向かって駆け出す。

 場所は村の外れ。拓けた場所に、キドニアで見たような木造の教会がひっそりと建っていた。幸いなことに、執行者の姿は見当たらない。

 が、教会前にいくつかの影が確認できる。不揃いな太さの木柵の内側。共同墓地の一箇所に固まり、何かに群がっているようだ。

 ばりぼりと硬質なものを噛み砕く音と、くちゃくちゃと租借する音が複雑に絡んで聞こえてくる。悲鳴の直後の出来事だ。おおよその想像はついた。

 不意に風が吹き、微風に乗って薫ったのは濃厚な血の香り。今しがた流れたばかりの、新鮮そのものの甘い匂いだ。

 ざりっ。群がるモノたちの注意を引くようにして、わざとらしく砂利を踏み鳴らす。

 粘着質な水音がぴたりと止み、そいつらは一斉にこちらを向いた。

 赤錆色をした眼が計六つ。


「屍食鬼だとッ!」


 アッシュは吃驚の声を上げる。

 それに感応するように、二メートルを超す黒い巨躯を重たげに起こすと、『グルオォオオオオオオオ!』三体の獣それぞれがけたたましい咆哮を上げた。


「なんでこんなところに……いったい誰の下僕なんだ」


 問うたところで、答えなど出ようはずもない。

 屍食鬼は、吸血鬼の食べかすのような存在だ。血を吸い尽くすと人間は死ぬ。だが致死量未満で吸血を止めると、人間は吸血病を発症するのだ。

 段階的に症状が進行して、やがて人体は変異し理性も知性も崩壊する。そうしてめでたく、吸血鬼に忠実な下僕と成り果てる。


「近くに主人がいるのか…………いや、気配は感じない」


 感覚を研ぎ澄ませ、辺りを熱探知してみる。周囲に感じるのは、やはり自分とクロード、そして三体の屍食鬼だけ。


「――アッシュ、くるよッ!」


 クロードの叫び声に慌てて視線を戻す。

 一体が地鳴りのような足音を響かせ、墓石をなぎ倒し柵を破壊して、こちらへむかって猛突進してきていた。

 振りかぶられる丸太のような右腕。膂力に任せた大振りは、しかし物凄い速さで――


「くっ!」


 避けられそうにないと判断したアッシュは、咄嗟に顔の前で腕をクロスさせる。

 けれどそれすらも若干遅れていたようで。ガード途中に振り抜かれた拳が腕にめり込み、めきゃっと骨を軋ませる音と同時に十数メートル吹っ飛ばされた。


「アッシュ!」


 地面を数回バウンドし、背で地面を滑りながらもなんとか静止する。背中を強く打ちつけたことによる肺へのダメージが著しい。

 苦悶の表情を浮かべながらむせ込んだ。


「クソッ、なんて馬鹿力だ。あいつ本当に屍食鬼か……?」


 ジャケットの袖はぼろぼろに破れ、突き抜けた衝撃により左右の前腕は酷く鈍痛に疼く。


「大丈夫かい?」


 言いながら、クロードは自分の前に立って盾となる。


「俺なら大丈夫だ。それよりクロード、気をつけろよ。こいつらとんでもない力持ってるぞ」

「忘れてもらっちゃ困るね。僕だってこう見えて血統付きの爵位持ちだよ。どこの雑魚が飼ってるのかは知らないけど、おいたをする下僕の躾は――僕が代わりにやってあげなくちゃね」


 矜持からくる余裕だろうか。肩を上下させて笑いながら歩み出るクロード。彼の前には二体の屍食鬼が立ち塞がっていた。

 こいつらは何かが違う。攻撃を受けてみてそう感じた。何が違うのか、漠然としていて自分でも説明が出来ない。だが、本能的にそう感じ取った。


「理性も知性もないただの獣の分際で、最上位の吸血種に楯突くとはね。身の程を思い知らせてあげる、よッ!」


 言い終えると同時。地面を踏み砕くと、彼はその跳躍だけで十メートルの距離を一瞬にして詰める。肉体操作で爪を硬化し鋭く尖らせると、五指を揃え鉄塊すらバターのように切り裂く手刀を、速度に乗せて屍食鬼の腹部に突き入れた。

 ガギィンと、金属に弾かれるような甲高い音が夜空に響き渡る。

「なっ!」クロードは驚愕の声を上げた。

 弾かれた反動で体勢を崩しているところへ、屍食鬼の力任せな右腕が振り下ろされる。彼は瞬時に地を蹴り、右へ飛んで交わす。

 空振りに終わった拳はそのまま大地を抉り、爆発のような轟音とともに、直径五メートルほどのクレーターを作り出した。破砕された地面から巻き上がる夥しい砂塵と破片が、クロードの視界を埋め尽くす。

 ――と、そこへ二体目の追撃が。

 援護するため、アッシュは反射的に飛び出した。

 両手を組み合わせ、まるでハンマーのように打ち下ろされる屍食鬼の両拳。

 その足元に滑り込み――接触間際ぎりぎりのところで手首を蹴り抜き、攻撃の軌道を逸らす。

 間一髪、屍食鬼の両拳はクロードの顔面すれすれで空を切り、事なきを得た。

 二人は揃って離脱し、態勢を整える。


「助かったよ。しかしなんて硬さだ、僕の手刀が弾かれるなんて……」


 歯が立たなかった自身の右手を見つめ、クロードは目を剥いた。その指先では爪がぼろぼろに欠けている。


「こいつら普通じゃないな。屍食鬼のくせに硬すぎるし統制がとれてる」


 仲間意識などこいつらには微塵もない。ただ忠実な傀儡として主人に仕えるのみだ。連携などとれるような知能もないはずである。

 しかし、まるで作戦でも練っているかのような協調性。

 漠然としていた疑問は、曖昧なままさらに泥沼のごとく思考へ埋没していく。

 ――その時、パァンと乾いた破裂音が空に響いた。

 立ち込める砂煙を一条の空気の流れが貫いて、屍食鬼の間を、そしてアッシュの顔の真横を通り過ぎる。追随する風切り音と酸化臭。

 刹那。背中側から、熱した鉄板に水滴を垂らすような音が一瞬だけして、次いで重たげな物が崩れたみたいに地面が揺れた。

 背後に目をやると、いつの間に後ろにいたのか。屍食鬼が一体、心臓から血を流して倒れている。

 屍食鬼といえど吸血種。変異した鋼の肉体は、通常の武器では歯が立たないはず。


「――まさかッ」


 アッシュは最悪の事態に陥ったと、苦々しく歯噛みする。吸血種を致死させ得る武器を持った人間。そんなものは、奴らしか思い浮かばなかった。

 物体の飛んできた方に目を凝らす。

 一陣の風によって砂埃が払われ、屍食鬼を殺した主が姿を現した。


「……ノエル」

「アッシュ? どうしてこんなところに――」


 足を止め、丸く目を見開く金髪少女。

 タイミングの悪いことに、鉢合わせてしまった。任務の目標を同じくする以上、いつ出くわしてもおかしくはないのだが。そうならないために、日中随分と骨を折ったというのに。

 彼女の右手には、今しがた発砲したばかりの拳銃が握られている。屍食鬼を倒したことから、弾倉に込められている銃弾は間違いなく『聖霊銀』だ。

 ぐっと息を呑む。危機的状況に、頬を冷たい汗が伝う。

 ノエルの出方が分からない以上、下手に動くのは危険だ。悪戯を咎められた子供のように身を縮め、アッシュは相手の反応を窺う。

 すると、ノエルの視線がついと転じた。自分の隣を見ているようだ。


「その瞳は、吸血鬼ッ!」少女はクロードを視認し、驚愕に瞠目した。「アッシュ、早く離れて!」


 怒気を孕んだ視線で彼を睨みつけたまま、烈しい声音で急かしてくる。

 敵愾心を露に銃を構えるノエルの瞳は、静かな青い炎を燃やしていた。

 殺意に満ち満ちた、峻烈な眼差し。


「どうしたのアッシュ、早く!」


 なおもせっつく少女。その焦りを含んだ音声からは、本当に自分を助けたい一心で発しているのだと感じられた。

 ――俺が混血であるとも知らずに。

 カチリと、撃鉄を起こす音が無情にも響いた。

「はぁ」クロードは肩をすくめ疲れたように嘆息する。「これはまいったね。まさか執行者が現れるなんてさ。まさに想定外だよ」


 さして緊迫した様子のない、いつも通りの彼だった。


「吸血鬼! ようやく見つけたわ。屍食鬼をけしかけて何がしたいのか知らないけど、ここで私に会ったのが運の尽きよ。お前たちは許さない、絶対にッ」

「私怨があるみたいだけどさ、一つ断っておくよ。この屍食鬼たちは僕らになんの係わり合いもない。まあ、言っても信じないだろうけどね」

「戯言を!」


 言い捨てると同時。問答無用で引金がひかれ、火薬の爆発音が鳴り響いた。マズルフラッシュが夜闇に弾ける。

 ノエルが照準していたのはクロードの心臓だ。銃弾は一切ぶれることなく軌道を進み、それは彼に当たるかのように思われた。

 しかしクロードは弾が発射されるほんの僅かな瞬間に、倒れていた屍食鬼をむんずと掴んでそれを盾にしていた。被弾は免れたものの、黒い異形を貫通した銃弾は、彼の脇腹すれすれを掠めていく。

 ぼたたと、壊れた水道みたいに、屍食鬼から赤黒い血液が大地に噴きこぼれた。

 ひゅーっと、クロードは肝をつぶしたように息を吐く。


「やれやれ、聞く耳持たず、か。仕方がないこととはいえ、どうするアッシュ?」


 物言わぬ屍となった屍食鬼を投げ捨てながら、彼は訊ねてきた。


「……アッシュ……?」


 ノエルの瞳が瞬き、まさかと言うようにはっと息を呑む。

 それもそのはず。アッシュは隠すことなく感情を表し、自身の吸血鬼である証、真紅の瞳と牙を敵対者に晒したのだ。しかしすぐさま、虹彩を元へ戻す。

 執行者は敵だ。しかし自分の仇はヘルシングのみ。そいつさえ殺せればどうでもいい。こんなところで無駄に争う理由もなかった。


「帰ろう、クロード――」


 警戒しつつ後退りしようとしたところで、くすりと少女が鼻を鳴らす。


「そう、あなたも吸血鬼だったの。助けようと思った私は馬鹿だったってわけね」


 自嘲的な笑みを浮かべるノエル。同情を敵に向けていたことを恥じているようだった。


「それにその特徴、あなた混血でしょ? 聞いたことがあるわ。混血は擬態せずとも人間と変わりない容姿をしてるって。昼はさぞ愉快だったでしょうね。楽しかった?」


 力なく問うてくる彼女に、アッシュは何も返さない。


「――半分は人間なんだろうけど、そんなことは関係ない! 吸血鬼の血が混じってる時点で、あなたも敵だわッ」


 敵意を吐き捨てると、神をも射殺すような殺意の眼差しが、双眸を真っ直ぐに貫いてきた。


「……また、それか」


 アッシュは心底うんざりしたように、重く淀んだ息を吐きだした。

 混血と知れればいつもそうだ。吸血鬼にもなれず、人間にもなりきれない。同属には人の血が狙われ、人間には吸血鬼の血が。

 ――もういい加減飽き飽きだ!

 胸の奥から怒りが湧き上がってくる。血が滲むくらい固く拳を握った。このまま溢れ出る激情に身を任せてしまえればどれほど楽だろう。

 しかしアッシュは、努めて冷静に口を開いた。


「俺は別に、お前と戦う気はないんだ。だから見逃してくれ――っていっても無理そうだな」


 いつの間にか銃口が自分に向いていた。角度から推測するに狙いは頭だろう。

 頭蓋骨の丸みで弾丸が滑りやすいといっても、あの銃に込められているのは聖霊銀。掠っただけでも、吸血鬼の再生能力が鈍らされる。ただでさえ混血でその能力すら低い。当たれば間違いなく致命傷は免れない。


「吸血鬼は両親の仇! 存在を見逃すわけにはいかないわ。いまここで、あなたたちを殺すッ」


 怨嗟のごとく唾棄するノエルに、沸々と怒りが再燃した。


「……自分だけが、不幸背負ってるなんて思うなよッ」


 腹の底から出た声はくぐもり、けれどドスの利いた音で響いた。

 ぎりっと砕けんばかりの強さで歯を噛み締める。怒気をありったけ込めてノエルを睨み返すと、一瞬少女がたじろいだように見えた。


「お前の過去に何があったかなんて知らない。仇だって言うんだからそうなんだろう。けどな――」アッシュは自身の胸倉をぎゅっと掴み、「俺にだって、殺したい奴はいるんだッ」心苦しげに呻く。


 この世の全てを怨み尽くす呪詛のような想いだった。瞳は再び熱を帯び、青に真紅の輝きが差す。脳内を侵食していく怒りに、思考が塗り潰されていくようだった。


「アッシュ、その辺で止めときなよ」


 クロードがぽんと肩を叩いてきた。熱くなりかけた感情に水を差され、おかげで頭が冷える。


「……別に一戦交えようってわけじゃない。あっちの出方次第だけどな」


 交錯する赤と青の視線。ノエルが構える銃口にわずかなブレが生じているのを、アッシュは見逃さなかった。

 ――と、標的をどちらに据えるか悩むように、右往左往していた屍食鬼が二体。

 突然嘶くように吼えると、それぞれがアッシュとノエルの方へ向いた。赤錆色の瞳が、獲物を狙う捕食者のように細められる。


「とにもかくにも、アレをまずどうにかしなくちゃね」


 半ば疲れたように言って、クロードは肩をすくめた。


「ああ。たかが屍食鬼にいいように遊ばれるなんてのは、俺もまっぴらごめんだな」


 自身の吸血鬼としてのプライドがそれを許さない。

 屍食鬼は下僕だ。混血の上にあってはならない。自らを鼓舞するように、強い殺意をもって獣を睨み付ける。

 ドン、と踏み込みの音が響いたのは同時だった。

 アッシュ、そしてクロードは共に地を蹴り、屍食鬼の前後を挟むように攻撃を仕掛ける。

 まずアッシュが囮役を務め、真正面から突っ込んだ。

 馬鹿正直に、釣られるように振りかぶられる獣の上肢。

 すかさず、横殴りに風を切るそれを上へ飛んでかわす。前宙しながら、屍食鬼の眉間に遠心力を加えた一撃を力一杯叩き込んだ。

 ドゴォ! とまるで城壁に打ち込まれた砲弾のような重たい音が響く。ビリビリとした衝撃が肘を突き抜ける。

 ――――やはり硬い。

 しかし、


「グゥオオオオオオオオ!」


 と屍食鬼が突然、苦しそうに呻き声を上げた。


「クロード! こいつら頭が弱点だッ」

「OK、任せなよ!」


 離脱したアッシュを見届けると、彼は好戦的な笑みを口端に浮かべる。

 まるで爪をぼろぼろにされた鬱憤を晴らすかのように、高く跳躍しながら八つ当たりじみた渾身の一撃を頭蓋に叩きつけた。

 ぐちゅりと、潰れた骨が肉に食い込むような、聞くに堪えない鈍い水音が響く。

 その衝撃は頭から爪先まで突き抜け、屍食鬼の足が大地にめり込むほどだ。

 しばらく喉を鳴らしていた屍食鬼だったが、眼から血の涙を流すや、白目を剥いてぶっ倒れた。その屍骸の頭からは、椀を傾けたように赤黒い脳漿がこぼれる。


「やったな、クロード」

「まあね。僕も久しぶりにイラッときたからさ、ついカッとなってやっちゃったよ」


 彼は胸ポケットからハンカチを取り出すと、血塗れになった右手を拭う。

 もう一体はどうなったのか……。先の一体が聖霊銀の一撃で絶命したことを鑑みるに、そんなことは確認するまでもないと思うが――アッシュは目を向ける。

 するとノエルは、腰に下げていた剣で屍食鬼の攻撃を受け止めている最中だった。どう見ても押され気味で、劣勢に立たされている。


「なんであいつ、銃で攻撃しないんだ……」

「しないんじゃなくて、したくない。のかもね」

「どういうことだ?」


 問うと、クロードは血みどろのハンカチを捨てながら言う。


「聖霊銀が希少だって話は知ってるだろう? あれには聖別された純血種の遺灰が混ざってるからさ。使ってればいずれは底をつくからね」


 つまり、目の前に吸血鬼がいるのに、屍食鬼なんかに無駄撃ちしたくないということか。


「でもあれじゃあ――」


 かろうじて剣で凌いでいるものの、あの状況が長く続けば、ノエルが不利なのは目に見えている。彼女の細腕で防ぎ切るには、奴らの腕力は荷が重過ぎる。

 思わず一歩踏み出したところで、クロードに腕を引かれた。


「何するつもりだい、アッシュ?」

「何って、」


 助け、に……。そこまで思考し、アッシュは強く頭を振った。

 相手はあの執行者だ、自分たちの敵だ。奴らの頭のヘルシングは、両親の仇だ、殺すべき仇敵だ。

 けれど、自分の中には人間の血も混じっている。吸血鬼の敵だからと、簡単には割り切れない。相反する二つの感情が渦を巻き、心を内側から削っていくようだ。

 胸が痛い。

 逡巡している間にも、屍食鬼の爪が少しずつノエルの眉間に迫っている。

 考えている時間は、ない。


「ッ――悪い、クロード」


 掴まれた腕を振りほどき、アッシュは救出に向かおうと地を蹴りだす。

 その時、自身を取り巻く空気に予期せぬ揺らぎが生じたのを感じとった。自然、足は数歩進んだだけで止まる。


「こ、この感じ――」


 纏わりつくようなプレッシャー。

 身に覚えのある嫌な気配に気づいた時には、すでにそれは起こった後だった。

 ノエルを襲っていた屍食鬼が、側頭部、背部、腹部の三箇所から突然血を噴出した。三つの小さな風穴をあけられ、ドッと仰向けに倒れこむ。

 急所を狂いなく射抜く技術、屍食鬼を殺せる武器。そして細い弓矢痕。


「まさか……」


 ギギギと、ブリキのおもちゃみたくぎこちない動きでそちらを向く。

 教会の裏の方から、砂利をゆっくりと踏みしめて歩いてくる一つの影。はためくロングコートの裾。立ち止まるシルエットは、独特な形状のクロスボウを右手に提げていた。


「ヴィンセントさん!」


 ノエルが声を上げ、男に駆け寄っていく。


「なに雑魚に手こずってるんだ、ノエル。お前らしくもない」

「吸血鬼が……」


 少女は静かに銃口をこちらへ向けた。対象はここだと言わんばかりに、銀の拳銃が夜陰に紛れ鈍くその存在を主張している。

 ヴィンセントの鋭い視線が射線上をなぞり、アッシュ、そしてクロードを捉えた。


「よお、また会ったな」


 犬歯をチラリと覗かせ、狩る側としての余裕からか不敵に笑む男。

 瞬間、ぞくりと悪寒が背筋を這い、一気に緊張感が高まる。二人は油断なく身構えた。

 状況としては二対二。

 だが、奴らには自分たちを死に至らしめる武器がある。掠ることさえも危うい。それに、場数は間違いなく向こうが上だ。一ミリの隙が命取りになる。

 一触即発の空気の中、相手の出方を伺いつつ、仕掛けるか逃げるかを思案していると――。

 不精髭の男はおもむろに得物を肩へ担いだ。


「ヴィンセント、さん?」


 敵を前にして武器を収める彼へ、どうしてか問うような瞳で少女が見上げる。

 懇願にも似た視線から目を逸らし背を向けると、男は厳然と告げた。


「ノエル、俺たちの優先すべき任務を忘れるな。行くぞ――」

「待ってください! 吸血鬼が、仇がここにいるのにッ」

「こいつらがここに居る理由を考えてみろ。またいずれチャンスはある。それに、こいつらをあまり甘く見ないほうがいい。片方は純血種だ。聖霊銀を無駄撃ちする気か?」


 男の口調は穏やかだが、その眼は自分たちに向けられたまま外れることはない。隙あらば攻撃するつもりなのか。語る内容を鵜呑みにするのは愚の骨頂だ。


「私は吸血鬼を根絶やしにすると誓ったんです! 敵を前にして見過ごすなんて」


 なおも噛み付かんばかりの勢いで食い下がるノエル。

 見かねたヴィンセントはため息を一つ。


「――ヘルシング卿から召集がかかった」

「おじい様から?」


 ヘルシングの名が出た瞬間、少女は息を呑み閉口する。

 アッシュの脳内で、パチッと火花のようなものが弾けた。緊張から忘れかけていた名前。そして、その導線に火を点けた少女の一言。

 ……………………おじい、さま?

 聞き間違いだろうか。ヘルシング卿という言葉に対して、ノエルは今なんて言った?

 おじいさま。オジイサマ。


「……分かりました。不本意ですけど、いまは銃を収めます」


 少女は悔しそうにぐっと奥歯をかみ締め、腰のホルスターへと拳銃をしまう。そして、キッときつくこちらを睨み付けてきた。


「アッシュ、今回は見逃してあげるわ。でも、次に会った時は……全力で殺すから」


 強く言い置いて、ノエルは背を向けた。

 彼女の青い瞳は、憎悪の炎に塗れていた。相当な怨恨がなければ、この歳でそんな目は出来ないだろう。


「一つだけ、――一つだけいいか……」


 歩き去ろうとしていた少女を、アッシュは思わず呼び止めた。声をかけずにはいられなかった。

 ノエルの足が緩やかに歩みを止める。

 しかし、振り返ることはなく、


「なに?」


 背中越しに、冷え切った白刃みたいな声だけが返ってきた。

 次に発する言葉は喉元で詰まり、声は躊躇いからか上手く出てこなかった。


「っ、ヘルシングは、お前のなんだ?」


 問いかけた声が震える。執行者の前でその名を口にするのも忌々しい。握り込んだ拳が今にも血を噴出しそうだ。

 頭では半ば理解しかけていた。だが、そうでなければ良いという思いもあった。

 そんな想いとは裏腹に。煩わしそうに、ノエルは小さく息を吐く。

 数瞬の後、


「……ヴァン・ヘルシングは――私の祖父よ」


 力強く、はっきりとそう口にした。

 刹那、アッシュの脳内で火薬に火がついた。


「――ぐぅおおおおぉおおおおッ!! 」


 爆発的に燃焼していく復讐心。アッシュは牙を剥き出しにし、強く地を蹴りだす。

 驚くほどの瞬発力でノエルに飛び掛ろうとし――突然、脇からクロードに抱きつかれ錐揉みしながら地を転げた。

 寸秒遅れて、カッと木に何か刺さる音がする。

 視線を転ずると、一本のボルトが幹に突き立っていた。コンマでも遅れていたら、いま頃……。

 ヴィンセントへ憎悪の目を向けると、男は視線をいなしてクロスボウを担ぎなおす。


「貴様ぁああ――ッ」

「アッシュ、落ち着け!」

「放せ、クロードッ!」


 制止を振り解こうにも、骨が軋むほどがっしりと組み付かれて身動きが取れない。

 もがきながらも、まるで動じない少女の背中へ、血刀のような真紅の眼差しを突きつける。


「ヘルシングにも伝えろ! お前は俺が、必ず殺してやるとッ!」


 自分でも驚くほどにドスの利いた声が、曇天の夜空に重く響く。

 しかしそれでも少女は振り返ることはなく、わずかに首を動かして射殺すような眼光だけを飛ばしてきた。


「――分かったわ。でも、おじい様は殺らせない。あなたたちを殺すのは、私だから」


 冷酷に告げ、今度こそノエルはヴィンセントとともに去っていった。

 取り残された二人は、しばらくその場から動くことはなく。言葉を交わすこともなかった。

 ただ、握った拳からこぼれる血が、悲願への覚悟を謳うように、大地を赫く染めていた――。

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