第二章 邂逅
2-1
太陽が盛況さを増し始める十二時を回る頃。
ノルドヴァから少し離れた平地に邸宅を構える、ローゼンバート家の自室にて。
「今日は少し外出るから、帰りは遅くなるかもしれない」
クローゼットの前で、黒いジャケットの袖に腕を通しながらアッシュは言った。
背後で佇んでいる女給の息遣いが、少しだけ戸惑いを感じたように乱れたことに気づく。
「マスター、任務……ですか?」
声のトーンが沈んでいる。
昔からの付き合いだ。こういう時、彼女がどんな顔をしているのか見なくても分かる。
クローゼットの扉をぱたと閉め、アッシュはイレーヌに振り返った。
恭しく壁際に立つ彼女は、想像通りの顔をしていた。眉をハの字に下げ、不安を眉間に皺として深く刻んでいる。
「心配しなくても大丈夫だよ。ただ、教会見て回るだけだからさ」
心配性の女給に、これ以上の余計な気苦労をかけたくはない。クロードを見習い、アッシュは本当になんでもないといった気楽さで断った。
「でも、町には執行者がいるかもしれません」
いつもは冷静でしっかり者のイレーヌからは想像がつかないほど、あわあわと狼狽えている。
自分がもし同じ立場であったとしても、そこまで不安がったりはしないかもしれない。
家を守るべき主人であるから、というだけでは決してないだろう。弟として接した時間はたとえ短くても、イレーヌにとっては確かに存在した姉弟関係。
きっと家族としても心配してくれているのだ。
「自分の力が劣っていることくらい自分で解ってる。だから無茶なことはしない」
アッシュは女給に歩み寄り、その肩に優しく手を添えた。
「それに、混血は擬態しなくてもほぼ人間と変わらないからさ。血の匂いが嗅ぎ分けられない奴らには、そうそうバレないよ」
「でも――」
「約束する。無理も無茶もしない。必ず帰ってくるから、夕飯の支度して待っててよ」
まだ姉弟の関係だった昔のように、アッシュはにこりと笑ってみせた。
屈託のない、弟としての顔で。
「アッシュ……」
きゅっと胸元で小さく手を握り、ややあってから、イレーヌは了解を首肯で示す。
それに頷き返し、肩からそっと手を下ろすと、
「じゃあ、行ってきます」
言い置いて、女給の横をすり抜けてアッシュは部屋を出た。
拭いきれていない不安を顔に浮かべた、イレーヌの視線を背中に感じながら館を後にする。
木造のシンプルな外観の館を出て、目と鼻の先。玄関から二十メートルとない門扉へ向かう。
潅木や草花が彩を添える庭を、見渡す間もなく門までやってくると――門扉の陰からひょっこりと顔を覗かせる人物がいた。
「よっ! アッシュ」
「クロード? なん――」でこんなところに? と問おうとするも、
「なんでここにいるのかって言うのはなしだぜ?」
間髪いれずに、彼は食い気味で断りを入れてきた。
言いたいことを先に言われ、お役御免となった口が幕引きみたいに静かに閉じる。
それを見て、クロードは呆れた顔をして溜息をついた。
「いくら貴族だからって、そうそう忙しいってわけでもないのさ。あのちびっ子ならいざ知れずね」
「ちびっ子? って、シャノン卿のことか?」
確認するように訊ねると、彼は思い出したように、
「あー、そうか。アッシュは知らないんだったね。僕たちは血を摂取しないと力の維持、および経年劣化を免れないだろ? だから年の功であるシャノンちゃんが、トランシルヴァニアの外に出て人間掻っ攫ってきてくれるおかげで、僕たちは永らえてるってもんなんだよ。アッシュも飲んでるんだろ? 血液入りのジュース」
その点だけは感謝しなきゃね、なんていつもみたいに気軽く言うクロード。
アッシュは彼の言葉を頭の中で反芻し、呆けた顔をして衝撃を受けていた。
「……シャノン卿って、外に出られるのか?」
理由はそれだった。
トランシルヴァニアを囲う巨大な壁には魔術式の銀糸網が張られている。魔族の血を有する者は外へ出られないはずなのだが。
「長く生きてるとそれなりに知恵が身につくもんなのかねー。いわゆる魔術ってやつで自身の波長を銀糸網の術式に合わせて体を霧化させて、劣化した緩い部分を素通りするとかなんとか聞いたけど。おチビちゃんながら凄いよな。少なくとも足を向けては寝られないよ」
頭の後ろで手を組み、まるで口笛でも吹くかのような気楽さで彼は嘯いた。
銀糸網は旧式だと聞いたことがある。一部はより強固にするため、聖霊銀に挿げ替えられているらしいが。その精製法から稀少なために、全てを聖霊銀で賄えるほど範囲が広くないそうだ。その甘い部分を掻い潜るということだろう。
実家に置かれているボトルの中身に、一〇パーセントほど血液が混じっていることは味で分かっていたが。それを元老院自らが調達しているとは知らなかった。
しかし納得できる部分もある。トランシルヴァニア内で人が消え続ければ、いずれは自分たちの存在が浮き彫りになり、結果として首を絞めることになるだろう。その点、壁の外から攫うのであれば、特区内の人口が減少することはないのだから。
「……俺が知らないことって、やっぱりたくさんあるんだろうな」
ぼそりと呟いた言葉は、誰に聞かせるつもりで言い放ったものではなかったが。
それを目の前で聞いていたクロードは肩をすくめると、急に表情を明るくした。
「知ってるかい? シャノンちゃんって見た目はああでも、かなり腹黒いんだ。容姿があんなだろ、だから『ちょっと泣く真似すれば馬鹿がほいほい引っかかる』って、人間攫う常套手段にしてるらしいよ」
性質悪いよね、そう言って笑うクロードは嬉々として楽しそうだ。
「言動なんか聞いてれば、特に意外性はないけどな」
にべもなく口にするアッシュ。
うぐっと息を呑み、「それもそうか」と六名家会議を思い出したのか、蒼い髪の少年は誤魔化すように頬を掻いた。
「ところで、クロードは俺に何か用なのか?」
このまま門扉の前で突っ立っていてもなにも始まらない。アッシュは先を促すことにした。
「アッシュはどこ行くつもりなんだい?」
自分が聞いたのに逆に尋ね返され、少し苦い顔をする。
「俺は自分に与えられた任務をするだけだよ。教会の見回りだ。表向きには、俺に仇を討たせたいってことになってるんだろ?」
別に皮肉を言うつもりはなかったが。クロードも五名家の一人であるという事実を鑑みると、結果としてそう聞こえてしまう。
「あり、知ってるのか。そうか、ベリア様が話したんだね」けれど、それを意にも介さず、彼はなにか納得するみたいにうんうんと唸り、「なら話は早い。僕も君に同行するよ」
その言葉を耳にして、ぽかんと、閉じた口が再び開く。
「……なんできょとんとしてるんだい?」
「俺を手伝うって?」
「そうさ」
なんの躊躇いもなく頷く、群青の髪の少年。
その軽薄そうな表情からは、嘘か真か判断しにくい。
「お前、五名家だろ? ベリアさんが言ってたんだ。五名家の意向も変わらないって」
「五名家である前に、僕はアッシュの友達さ」
そう言う彼の瞳は一転、いつにも増して真剣そのものだった。
「他の連中がなんて言おうが気にすんなって。君は君だろ?」
昔からそうだった。自分は自分なんだから気にする必要はないと、そう言ってくれるクロードの気持ちは十分に嬉しい。
でも――
「クロードは、なんで俺と普通に接してくれるんだ。純血種はみんな俺のことを忌避してる。半分人間だからと餌にしようともしてきた。どうしてお前はそう思わないんだ? 俺の側にいれば、お前まで変に勘ぐられるかもしれないのに――」
感じていた不安を打ち明けると、彼は小さく首を左右に振り、
「前にも言ったろ? 友達の家にいるのに理由なんていらない。それと同じさ。友達だから側にいる。僕が貴族で、君が混血種で。そんなことは関係ない。血筋がどうした、純血種だからなんだ。僕は僕の意思で君の側にいるんだッ」
クロードは眉根を寄せて静かにそう吐き捨てる。
まるで自分に言い聞かせているみたいで、それはどこか呪いにも聞こえた――。
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