1-5

「話があるの。あとで私のところに来なさい」


 会議が終わってすぐ、流し目のベリアから涼やかにそう誘われた。

 そうして今。

 燭台に灯された暗く長ったらしい回廊をひた歩き階段を上って、アッシュは言われたとおり、城の三階にある彼女の部屋の前で直立している。

 出来ることなら踵を返し、今すぐにでもクロードと一緒に帰りたかった。

 扉を叩こうとする手が躊躇いに震えている。けれど女王からの呼び出しだ、断るわけにはいかない。そもそも立場上、断りきれるものでもないのだが……。

 意を決し、アッシュは扉をノックした。「ッ――失礼します」

 …………けれど返事はない。

 またか、と呆れ顔をしながら勝手に扉を開ける。そして中へ入った。

 まず香ったのは芳しい薔薇の香り。

 ノワールを冠しているだけあり、部屋の中も黒を基調としてまとまっている。家具は全て最高級の黒檀。高そうな調度品の数々は、けれど嫌味なく個々がその存在を引き立て合い調和が取れていた。敷かれた絨毯は唯一ワインレッドのゴブラン織りだ。

 部屋の奥にある天蓋付きのベッドは、黒いレース織りのカーテンから中が透けて見えた。

 案の定、ベリアの姿はそこにある。

 脇には乱雑に脱ぎ捨てられた黒いドレス。と、何故かくしゃくしゃに丸められた紙がほかってあった。

 それを見て、アッシュは安堵の息を漏らす。やはりこの人はこうでなくては、ふとそんなことを思った。

 遠慮することなく、不躾にも足音を立てながら進み入る。起こしてやろうという魂胆からだ。

 するといつもの如く、もぞりとベッドで動きがあった。


「んん~~、アッシュ~……アッシュ~」と寝言染みた猫なで声。「眠いー、だるいのぉ~」


 薄い黒のネグリジェから伸びる艶かしい生脚をすり合わせ、怠惰極まりなくごろごろする女王。借りてきた猫だってもう少しシャンとしていると思う。

 が、これがベリアという人物の本性だ。

 呼ばれる時は毎度のことだから、いまさら驚きはしない。


「なんでさっきの今で、そんなにだらけてるんですか。ベリアさん」


 大きな枕を股に挟んで抱き、彼女は横になりながらため息をつく。

 少しだけむっと眉根を寄せると気持ち睨んできた。


「その言い草、なんかジェラールにそっくりよ? ちょっとムカツクわね」


 顔にかかる髪の隙間からジト目を覗かせ、唇を尖らせて膨れる女王。

 アッシュは肩を落とし、ふぅと、嘆息を漏らす。

 ――人前では格好良いのに、部屋に戻るといつもこれだ。

 ベッドに視線を戻すと。そこにベリアの姿はなかった。

 刹那、不意に背後から気配。殺気じみた空気の揺らぎに、ぞくりと、背筋を悪寒が撫で上げる。

 それに気づいた時には、振り返る間もなく、すでに背中から腕を回されていた。

 一瞬だ。瞬きほどの刹那に、二十メートルほどの距離を詰められ、背後まで取られていた。

 大きくて柔らかな二つの双丘が背に押し付けられ、蠱惑な吐息が耳をくすぐる。思わず生唾を飲み込み、どぎまぎしてしまう。


「でも、」くすりと笑み、「こういう反応をあいつはしなかったわね」ベリアは満足そうな顔をして、真っ赤になった耳を撫でてくる。

「あの、ちょ――からかわないでくださいッ」器用に腕をすり抜けて、アッシュは振り返りざまに言った。「それで、俺に用ってなんなんですか?」


 すると女王は、急に仕事の話を持ち出された恋人みたいに、つまらなそうに口を尖らせる。


「もう、つれないわね。ホント、そういう所ばっかり父親に似て」


 はぁ、と諦めたように大きく息を吐く。


「まあ、親子ですから」

「んもう! ナマイキよ」ぷんすか怒り出したかと思ったら、影のように忍び寄ってきて――まだ熱の覚めやらぬ頬に手を添えてきた。「でも、許してあげるわ。……あの子の瞳に免じて、ね」


 物悲しそうに眉を垂れ、じっと瞳を覗き込んでくるベリア。

 その眼差しの意味を、アッシュは知っていた。


「私ね、あなたの瞳を見てるといつも思うの。マリアはいないはずなのに、目の前に居る気がして……ついそんな錯覚を覚えるわ。本当はどこかで生きてるんじゃないかって。そんなこと、あるわけないのにね。馬鹿みたいよね」


 自嘲気味に薄く笑う彼女の瞳が、少し涙で濡れていた。



 ――十一年前、アッシュが七歳の時だ。

 ベリアの誕生日に、プレゼントのユリの花を森へ摘みに出かけた先で、母マリアは執行者に捕まった。現代では珍しい『不死者』であったことから、それを面白がったヘルシングは狡猾な策を講じる。

 不死者とは、吸血鬼によって血分けされ、それに適応した人間のことをいう。

 噛まれて成る屍食鬼と違い、容姿の変化も理性の崩壊もなく、儀式によって吸血種へと生まれ変わる。

 ともすれば、血を分けた純血種が付近に生息しているはずだ。と、ヘルシングはマリアを餌として、主人をおびき寄せることにした。

 結果としてそれは成功だった。

 ジェラールは母を助けに向かった先で、ヘルシングの手によって母もろとも殺された。

 父が放った蝙蝠から、「助けられそうにない」という伝言を聞き、アッシュは訃報を知った。出かけ際に「強く生きろ」と父に言われたのに、声を上げて泣いた。

 葬儀は父が親しかった者たちによる密葬。クロードや、ヴォルテール卿も参列した。

 そこには、ベリアの姿もあった。

 クロード以外誰一人として、母の死を悼んだものはいなかったが、彼女だけは違っていた。

 王の娘であるにもかかわらず、人間の女のために涙を流した。人目も憚らずに泣いたのだ。

 アッシュはそれが嬉しかった。

 捕食対象として同属にすら命を狙われ続けてきた母。そんな母を差別することなく、仲間として認め、悲しんでくれたことがたまらなく嬉しかったのだ。


「――あ、ごめんなさい。つい感傷的になっちゃって」ベリアはひとしずく零れた涙を拭い、「ダメね、あの子のことになると、どうしても涙腺が緩くなっちゃうのよ。あなたの方が、よっぽど辛いのにね」


 それでもなお、気遣う言葉をかけてくれる。


「ベリアさん……ありがとう」


 それは心からの礼だった。

 ふるふると力なく首を振ると、パンッ! 気を取り直すように手を叩き、


「そうだったわ。大事な話があったのよね!」


 と、いまさら気づいたように女王は声を上げた。



 黒檀のテーブルに着き、二人は対面に座した。

 カップに注がれたローズティーが優雅に香り漂ってくる。

 アッシュはカップを手にすると一口すすり、訊ねた。


「大事な話って、なんですか?」


 ベリアも軽く口を湿らすと一息つき、神妙な顔をして切り出す。


「アッシュ、気を悪くしないでほしいのだけど――」


 開口一番、なんとも歯切れの悪い言葉だった。


「槍の欠片集めを阻止するために動く。そう言った手前、私が動くのが筋だとは思うの。けど、私たちはこの件に、一切手を出さないわ」


 予想外の言動に、「えっ?」とアッシュは目を丸くする。


「少なくとも、私とドラクロア卿は教皇庁の吸血鬼目録に載っちゃってるから、公には動けないのよ。知ってのとおり、真祖は昼間ろくに活動できないっていうのもあるけれど」


 真祖は陽の光に特別弱い。

 大昔の吸血鬼と違い日光を克服しているため、灰になることはないものの。個人差はあれど極度の倦怠感に苛まれるそうだ。


「じゃあ五名家の人たちは……?」

「彼らの意向も変わらないわ。この件は、アッシュに一任するそうよ」

「俺に?」


 ベリアは小さく首肯する。


「ヴァン・ヘルシングが生きている以上、奴に行き当たる可能性は高い。あなたに両親の仇を討たせたい、そんなところかしらね」


 なぜか彼女はバツが悪そうに視線をそらした。その先を目で追ってみると、ベッドの上の丸められた紙に行き当たる。

 そこでアッシュは先の言葉を思い出す。「気を悪くしないでほしい」それは、いままでの言動が建前であることを示唆してのものだったのだ。


「本音は、別のところにあるんですね」


 質す言葉に、ベリアはなにも答えてくれなかった。言うべきか言わないべきか、迷うように視線が宙を彷徨っている。

 ややあって、申し訳なさそうに眉をひそめてこちらを向いた。


「あなたには辛く聞こえるかもしれない。けど、私は女王として伝えなければならない」負い目ごと飲み込むように息を飲み下し、「ドラクロア卿は、聖槍の欠片を集めさせる過程で、あなたが執行者の手にかかって死ぬことを望んでいるわ。それは、元老院も同じ」


 不思議と、驚愕はなかった。

 それどころか、「ああ……」と、割とすんなり腑に落ちてしまった自分がいる。


「それはやっぱり、俺の出自と関係があるんですよね?」


 返事を拒むように、ベリアは静かに目を伏せた。

 アッシュはかまわず続ける。


「昔、聞いたことがあるんです。俺の中には、混血にしか発現しない『カインの因子』が眠ってるって。だから禁忌を破った呪われた子なんだって」


 それは心ない罵倒だった。

 両親が死んだばかりの頃。

 ――寂しさを紛らわせるために、一人町を彷徨い歩いていた時に聞こえてきた、同属の話し声。

 その頃は、今ほど吸血鬼は数を減らしていなかった。

 禁句とされているみたいに、すぐにその話は切り上げられたが。確かに彼ら彼女らはそう言っていた。突き刺さるような、冷え冷えとした侮蔑の眼差しで。


「ロンギヌスの槍、そしてカイン。……ドラクロア卿の言いたいことが解る気がします」


 呟き、アッシュはお茶の入ったカップへ目を落とす。

 揺れる紅い液面から、寂しげな苦笑を浮かべた顔が見返してくる。なんのことはない、見慣れた自分の顔だった。

 やっぱり自分は、どこまで行っても忌み嫌われる存在なのだ。あわよくば、呪いの血を発現する前に消えることを、大抵の吸血鬼が望んでいる。

 ――『真祖殺し』と呼ばれる、始祖返りの異能の力を。

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