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吸血鬼の始祖カインとの長きに亘る戦いの末、それに終止符を打った人類は、その日を境に教会暦を読み始めた。
世界の脅威でもあった始祖を倒したことにより、第一世代の眷属は死に絶えた。その功績により、聖十字教は世界に多大な影響力を及ぼす一大宗教となる。
二十世紀半ば。バチカンの教皇庁から新たに勅令指定された厳戒特区、トランシルヴァニア。
始祖を葬ったといっても、依然として吸血鬼の脅威に晒されていた人類。そんな中、ある異変に気づいた信徒たちが、教皇庁へとそれを打診した為だった。
異変とは。始祖の死とともに散り散りになっていた、第二世代の『純血種』と呼ばれる吸血鬼たちが、ルーマニアへ集結し始めているというもの。
分布や被害場所、目撃情報を照らし合わせると、それはとある目的に則って行動していると推測された。
教皇庁の指示のもと、速やかに県は取り払われ、トランシルヴァニアを囲うように高い外壁が突貫工事で建造された。その内部には、吸血鬼等の魔物を外へと出さないための、魔術式を編みこんで作られた銀糸網が張り巡らされている。
そうしてトランシルヴァニアは、歴史的に類を見ない吸血鬼の巨大牢獄と化したのだ。
西暦一九九九年――教会暦一三三三年。
トランシルヴァニア中部。
旧クルジュ県とムレシュ県を跨ぐ地で栄える街、イルヴェキア。聖ヴァレリア大聖堂を抱く、トランシルヴァニアの中央に位置する最大の街である。
灰色の屋根瓦がひしめくモノトーンの木組みの街並は美しく、栄華を謳うように陽に煌いている。
吸血鬼とはまるで無縁そうに見える明るい街で、人々の笑顔も絶えず往来も盛んだ。執行者のお膝元であるため、皆一様に安心しているのだろう。
街の中央広場。
白亜に塗り固められた、煌びやかな大聖堂の目と鼻の先にある宿舎一階。整然と立ち並ぶ書棚に囲まれた、さほど広くない執務室にて。
金色の長髪に髭を生やした中年男性が、革張りの椅子に背もたれていた。ごつごつとした手で黒檀のパイプを燻らせながら、一人大聖堂を眺めている。
柔和な笑みを口元に湛えてはいるが、その瞳の奥は笑っていない。猛禽類のような鋭ささえ宿す青い眼光。聖堂を見る目としてはいささか不相応だ。
年齢の割に筋肉質な体を包むのは、よれた白いシャツに黒いジレ、そして革のパンツ。椅子にかけられた漆黒のレザーコートの背には、白抜きで十字が描かれていた。
煙を大きく吸い、吐き出すと。部屋の外から俄かに、廊下を慌しく駆けてくる足音がし――少しもしない内に扉が開かれる。
「おじい様!」
嬉々として入ってきたのは、金髪碧眼の少女だった。
歳は十七。白磁の肌に氷のように透き通る青い瞳。背中まで伸びる艶やかな金髪は、濃紺のリボンでポニーテールに結われている。
膝下丈の白いサンドレスと胴に巻いた黒いコルセットは、少女の美しいボディラインを浮き立たせていた。腰ベルトに佩くのは銀色の回転式拳銃と、黒塗りの鞘に収められた長剣。
まるで神が削りだし水で磨き上げた彫刻かと見紛うくらい、瑞々しく可憐な女の子だ。
男はパイプを机に置くと、笑いジワを深めて少女に振り返った。
「おお、ノエル。帰ったか」艶のある中低音で安堵を口にする。
「ただいま戻りました!」
会えるのを待ち侘びていたように帰還を告げ、少女――ノエルは頬を染めながら男の胸板に飛び込んだ。
「ははは、わしは煙草くさいぞ?」
なんて笑いながら、男は武骨な手で彼女の頭をなでる。まるで壊れ物を扱うような、繊細な手つきだった。
ノエルはくすぐったそうに首をすくめる。
「――ヘルシング卿」
遅れて聞こえた落ち着いた声。
執務室の入口には、不精髭の壮年男性が立っていた。
「ヴィンセント、任務ご苦労だったな」
少女から茶髪の男へ視線を転じ、ヘルシング卿と呼ばれた中年男性は労いの言葉をかける。
ヴァン・ヘルシング。
聖十字教の信徒なら知らぬ者はいないほど、教皇クレメンス、枢機卿イシュトヴァーンと並ぶ有名な名前だった。
イングランド出身の伝説的な吸血鬼ハンターで、同時に吸血鬼の研究者でもある彼。『聖霊銀』を作り出したことの功績が称えられ、本国の女王陛下より一等地を受勲。男爵位を得た。
そしてノエルを育てた実の祖父でもある。
第一線を退いたものの、彼女の留守中にはこうして執務室に忍び込み、昔と変わらぬ業務をこなして孫娘を手伝う、優しいお祖父ちゃんだ。
「……いえ。仕事なんで」素っ気なく言いながら、ヴィンセントは壁にもたれ掛かった。そして、「ノエル、まず報告が先だろう」と呆れ気味に息をつきながら彼女に促す。
「あ、そうでした――」
少女は思い出したように声を上げ、それとなく祖父から離れると机の真正面に立つ。
緩んでいた表情を精悍に引き締めると、執行者としての仕事の貌に戻す。
「ヘルシング卿。べスラナの教会にあった聖槍の欠片は、やはりフェイクでした」
「そうか」
あご髭をいじりながら、少し残念そうにヘルシングは頷く。
「それと、もうすでにご存知かと思いますが。昨夜、噛み跡のない屍食鬼に遭遇しました。念のため回収班に連絡し、夜の内に何体か回収させましたが」
「ああ、わしの元へも報告は届いている。噛み跡がないとはまた不可解なブツだな」
「吸血鬼に噛まれなかったら、吸血病を発症しないんですよね? なのになぜ屍食鬼に――」
ノエルの瞳が答えを求めてヘルシングを彷徨う。
自分にも分からない。そんな様子で首を横に振り、
「それは死骸を調べてみんことにはなんとも言えん。ほかに吸血病への感染源があるのかもしれんしな」
彼は溜息混じりに呟いた。
いくら吸血鬼専門の研究者であったとしても、一から十まで知り尽くしている訳ではない。吸血鬼の歴史は紀元よりも遥か以前から続いているのだ。まだまだ解明されていないことも多い。
黒いパイプに手を伸ばしかけ、ヘルシングははたと気づいたように動きを止める。孫娘の前であるということを失念していた。
手持無沙汰になった手であご髭をひと撫ですると、
「まあ、屍食鬼の件はわしに任せておけ。久しぶりに謎解き気分で出来る案件だ。腕が鳴る」
言いながら、彼はひょうきんに笑ってグッと力こぶを作ってみせた。
「わかりました。おじい様、なにか解ったらすぐに教えてくださいね」
「愛する孫娘に頼まれたとあっては、成果を挙げないわけにはいかんな」ヘルシングはカッカと軽快に笑いながらも、「だがノエル。あんまり一人で気負うんじゃないぞ。両親の仇をとりたい気持ちは痛いほど分かる。しかし、わしの全てをお前に叩き込んだのは、何もお前に無理をさせたいからじゃない。時には待つことも肝要だ。狩猟者なら、なお更な」
急いては事を仕損じると、釘を刺すように少し声を低めて諭した。
「その言葉、胸に留めておきます」
絶対的な意思を固めた双眸で祖父を見返し、ノエルは一つ礼をする。右足を一足分引いて軸足とし、回れ右をすると――仔馬の尻尾を揺らしながら静かに執務室を後にした。
「ふむ――」
ヘルシングは孫の背を見送った後、部屋の隅で壁に背を預ける茶髪の男を見やる。
「してどうだ。アレの様子は」
「別段変わったことはありませんよ。以前から変わらず、ただ純粋に仇を追い求めてる。吸血鬼を根絶やしにするって息巻いてますよ」
無茶しなければいいんですがね。肩をすくめ、ヴィンセントは最後にそう付け足した。
「あれでもわしの孫だ。多少の無茶くらいで死んだりはせんだろう」
ヘルシングはパイプを手にし、口の端でくわえた。ゆっくりと吸い込み軽く吹かすと、煙草の香りと味を口内で愉しんでからスーっと吐き出す。
ふわりと立ち上った紫煙が白日に溶け込む。
ヴィンセントは感情なくそれを一瞥し、扉の外へ目をやった。
「吸血鬼、か」
ヘルシングはぽつと呟き、椅子を回して大聖堂に向き直る。
ゴシック様式の白亜の聖堂は、昔ここで血塗れた乱戦があったことを忘れたように、今日も眩しいくらいに輝いていた。
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