1-2
「――またか」
澱んだ水底から浮かぶように意識が覚醒し、疲れた調子で呟いた第一声。
ゆっくりと瞼を開けると、相変わらずシミ一つない真っ白い天井が広がっていた。
ずいぶんと寝汗をかいてしまったようだ。ガウンに包まれた体がべたついている。
彼は気だるく上体を起こすと、ベッドの上で一息つく。軽く辺りを見渡すと、見慣れたいつもの部屋だった。掃除の行き届いた、必要以上のものがない殺風景な自室。
光の差し込む窓際の机に飾られた写真立てを懐かしみ、目を細めていると――コンコンと部屋の扉が突然ノックされた。
「マスター、イレーヌです。起きてらっしゃいますか?」
「ああ、いま起きたところ」
扉に向かって返事をすると、「失礼します」と一言断り、その女性は入ってきた。
利発そうな顔立ちに添えられた、細い黒縁の四角い眼鏡。長く艶やかな黒髪は腰まで伸び、先の方をリボンで纏めている。フリルの付いたカチューシャに、体にフィットした黒いお仕着せと白のエプロンドレスを着用していた。
この洋館のメイドである。
その腕に衣服を入れた籠を抱えて佇み、彼女はじっとこちらを見つめてくる。
「どうかした?」
そう尋ねると、眼鏡の奥で輝く赤瞳が不安そうに揺れた。
口にするのが憚られるのか、女給は伏し目がちに口を開く。
「また夢を、見ていたのですか?」
彼はシーツに目を落とし、ぐっと右手を握りこむ。
「……ああ。最近多いんだ。日に日に鮮明になってくる。まるで現実に起こったことのように、腐葉土の臭いや血の香りが濃くなって。鼻の奥にへばりついて離れない」
左手で顔を覆うと、忌々しい悪夢を払うように彼は頭を振った。
「……アッシュ。――あっ、失礼しました」イレーヌは失言を詫びると、「マスター、お召し物をご用意いたしましたので、こちらに着替えてください」慌てて体裁を繕う。
「別に二人きりの時くらい、昔みたいに呼び捨てでいいよ」
彼――アッシュと呼ばれた少年は小さく嘆息する。
年の頃は十八歳。この館の現当主、アッシュ・ローゼンバートその人だ。
父親譲りの黒髪と、母親譲りの青い瞳を特徴に持つ、吸血鬼と人間の混血種ダンピール。
今となっては当主と給仕という立場ではあるが、父が世話役として雇ったイレーヌとは、本当の姉弟のように育てられた間柄でもある。
「そういうわけにはいきません。あなたはローゼンバート家の当主になられたのですから。それに、二人きりではないですし」
少し残念そうに言いながら、彼女は扉の脇へとはける。
それはどういうことか尋ねようとしたところ、開いていた扉からひょっこり顔を覗かせる人物に気づいた。
「よっ! アッシュ。いまお目覚めかい?」
手を上げながら、不躾にも遠慮なく進入してくる軽そうな少年。
群青色の髪に好奇心を嵌め込んだような紅の瞳。その軽薄そうな外見とは裏腹に、黒と青を基調とした、まるでどこぞの貴族が舞踏会にでも赴くような絢爛な井出たちをしている。
「クロード? なんでこんなところにいるんだ?」
その実。彼は吸血鬼六名家の三席目に列せられる、ナイトブリング家の末子で、アッシュとは幼馴染の間柄にある。
「なんでとは酷いな。理由がなけりゃここにいちゃ悪いのかい? それに“こんなところ”じゃないだろ。友達の家だよ?」
「いや、別にそういう意味で言ったんじゃないけどさ」
歴史ある吸血鬼の名門である家柄の彼が、わざわざ家に来るほど暇だとは思えなかった。
「分かってるって。そんなことより、用事はこれさ」彼は一瞬笑んだ後、内ポケットに手を突っ込んだ。急に真面目な顔をして、「――こいつを君に持ってきた」
そう言って手を引き出すと、一通の黒い手紙が彼の指に挟まれていた。それを切るようにしてこちらへ投げてくる。
シーツの上。ちょうど手元に落ちた手紙の封蝋は意匠を凝らした黒い蝙蝠。
中を開いて見たアッシュの瞳が、驚愕に見開かれる。それは、葬儀の案内状だったのだ。
「吸血鬼王が、死んだ……?」
「そうらしい。葬儀やるからって、ベリア様から君に届けるように言われてさ」
信じられない事実に、クロードの言葉は右から左。目を剥いたままで固まるアッシュ。
吸血鬼王は、全ての吸血鬼の頂点に君臨する文字通りの王だ。純血種同士の交配でのみ極めて低い確率で誕生することがある、『真祖』と呼ばれる種族。強大なその力は、始祖にも引けをとらないとまで言わしめるほどだ。
そんな彼が、死んだ。
「葬儀が終わった後に、六名家会議開くらしいからさ。アッシュも出席するんだぜ」
吸血鬼王の死を、クロードはさほど気にも留めていないようで。「面倒くさいよな」なんて軽く愚痴りながら帰っていった。
「――マスター?」
心配そうなイレーヌの声が、どこか遠い。
吸血鬼王に対して、アッシュはあまり良い印象を持っていない。いやそもそも、吸血鬼に対して昔からそうだった。混血というだけでいい顔をされない。混血は忌み嫌われる存在だからだ。人間の血が混じっている。ただそれだけで捕食対象とされたりもしてきた。
その度に、父が守ってくれた。母が優しくしてくれた。友も庇ってくれた。
けれど、両親はもういない。
身近な他人で心許せる存在は、親友と呼べるクロードくらいになった。
吸血鬼王は、自分を見るとき酷く冷たい目をしていた。排他的であり、存在そのものを疎んじ排斥するような。いま思い出しても、心臓が凍りつきそうなくらいに冷徹なものだった。
けれど、そんな王でもアッシュにとっては憧れの存在だったのだ。純血種にも劣る混血にはない圧倒的な力。それだけで羨望の対象だった。自分の扱いが蔑ろであってもだ。
故に、そんな彼の死を信じられなかったし、同時に一つの心当たりが生まれて動揺を隠せなかった。脳裏を掠める、とある人物の名前。
強く握った拳が怒りに震える。ぞわっと全身が総毛立ち、目の奥が焼けるように熱くなる。だんだんと感情が昂ぶり、鼓動に合わせ、身の内を焦がす呪いにも似た灼熱を感じ始めた。
そんな時――
「アッシュ!」
はっとして大声に振り返ると、そこには帰ったはずのクロードが立っていた。
どこか不安げな表情で、軽く息を弾ませていることから急いで戻ってきたのだと分かる。
のぼせたように揺らぐ視界の中、アッシュはクロードに焦点を定めた。
「……ん、どうしたんだ。忘れ物か?」
「えっ! あーいや、なんでもないんだけど、なにしてんのかな、って思ってさ」
はは、は。とぎこちない笑いを浮かべながら、クロードは頭をかいた。
「なにって、これから着替えだよ。まさか覗きに来たのか?」
「馬鹿言え! そんなことあるわけないだろう。誰が君の裸なんて見たいんだい。イレーヌさんの生着替えの方が万倍興味津々だよッ」
彼は声を大にして否定しつつ、さらっととんでもないことを言い出した。
「あれ、そういえばイレーヌは」
部屋を見渡してみるが、いまさっきまで居たはずの彼女の姿が見当たらない。
「――お呼びですか、マスター。と、お友達Aさん改め覗き魔A」
覗き魔の部分をことさら強調するように言いながら、ぬっと扉から影のように這入ってくる女給。なぜか額の汗をハンカチで拭いながら、ジトッとした目でクロードを睨んでいる。
「名前すら呼んでもらえないどころか、友達からさらに格下げ変態と化しただと!? ――あっ、ああ、そうだった! こんなことしてる場合じゃない、僕はこれから手紙送らなきゃならないんだったぞ。ではさらばッ」
わざとらしく棒読みで言い置いて、威圧的な視線から逃れるように彼は逃げ帰っていった。
「なんだったんだ一体……」
嵐のように去ったクロードの背を一瞬だけ見送り、アッシュは疑問を口にする。
あの落ち着きのなさで名門貴族だというのだから、はなはだ不思議でしかない。
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