隠れ月

はまりー

第1話

 友人が死んだ。

 H、というのがその友人の名で、知り合ってから、もうずいぶんになる。出

会ったのは、ぼくが参加していた音楽サークルだ。ぼくより、三歳若い男の子

で、最初に会ったときにはまだ大学生だった。

 小柄なからだを、それでも持て余すように、いつもせかせかと歩いていた。

ときおり開かれる例会に、いつもきまぐれにふらりと現れては、隅の席に座っ

て、バナナジュースを飲んでいる。そこが喫茶店であれ、居酒屋の席であれ、

ひとの笑い声が響くような場所では、めったに口を開かなかった。えらくおと

なしいヤツだな、というのが第一印象だった。


 ところが、これが酒が入るとがらりと雰囲気が変わる。アルコールで口の軽

くなったぼくたちが、昂揚した舌にのせた稚拙な音楽論は、みんな彼の毒を含

んだほんのひとことで瞬殺された。激昂したぼくたちが束になっても、独特の

鼻にかかったトーンでとうとうと語られる彼の論理には勝てなかった。赤くな

ったぼくたちの顔とは対照的に、彼の顔はいつも青ざめていた。


 ……こうやって書いていくと、まるでイヤなヤツみたいだが、あの童顔の、

眼鏡の奥でくりくりとよく動く瞳に見つめられると、不思議とそんな風には思

えなかった。やたらと青臭い彼の音楽論に、ぼくが素直に感心して褒めちぎる

と、頬を真っ赤にして、うろたえまくっていた。サークルの女の子たちにはお

もちゃにされていて、いつも絶大な人気があった。彼自身はべつに有頂天にも

ならず、いつも憮然とした顔をしていたが。

 そんな彼の名前が刻まれた、大手食品メーカーの名刺をもらったとき、ひど

く意外に思ったものだ。東京に出て、その手の業界に就職を決めるものだと思

っていた。

 母親が病気がちだから、堅実に稼がないとね。ぼくが何も言う前から、ぼく

の顔色をみて、彼はそう言って笑った。両親が離婚して、母親と妹と一緒に住

んでいる、というのは以前に聞いていた。実家はT市にあったが、通勤のため

にF市内にアパートを借りて、ひとりで住んでいると聞いた。結局、そのアパ

ートが彼の終の棲家になった。


 十二月二十八日。職場で仕事納めを終えて帰ってきた彼は、夕食をすませる

と、実家に帰る準備をはじめた。流し台には、洗っていない皿がそのまま突っ

込まれていたそうだ。知人の一人に電話をかけ、歯を磨いたあとで、沸かした

風呂に入った。そしてそのまま、二度と風呂からでてこなかった。

 正月に帰ってくるはずの息子が帰ってこない。電話は鳴るが誰もでない。心

配になった家族が彼の遺体を発見したときには、死後四日が経っていた。

 四日間、給湯器は主人に命じられたまま忠実にお湯を沸かしつづけた。湯船

いっぱいに溜まっていたはずのお湯は蒸発し、発見されたときには赤錆色に濁

った水が、湯船の底にほんの少しだけ溜まっていただけだったそうだ。

 四日間煮込まれたスープは、友人の遺体を痛めるだけ痛めつけていた。まる

でからだを縛り付けていた糸が切れたように、友人の肉はするりと彼の輪郭か

らこぼれおち、発見されたときには磨かれたように光る骨が、あちこちからの

ぞいていた。心筋梗塞だった。

 そのいきさつは、遺体を発見した文子ちゃんから聞かされた。文子ちゃんは

Hの妹で、ぼくとは以前、ほんのわずかなあいだつきあっていたことがある。


 ぼくは喪服を持っていない。

 そんな金なんてないから、と言えば聞こえはいいが、本気でどうにかしよう

と思えば、それくらい、飲み代を削ってでもどうとでもできただろう。

 いつも、喪の季節が過ぎるたびに、そんなことなんて綺麗さっぱり忘れてし

まう。葬儀場でもらったハンカチを、戸棚の奥しまいこむのと同じように。次

に唐突に“死”が飛び込んでくるまで、忘れていたいというのが正直なところ

だ。誰かがいなくなる痛みに、あらかじめ備えるマネなんてしたくない。


 Hは――あの無愛想な男がと驚くくらいに――友人が多かったらしい。告別

式の会場から、出席した友人たちのほとんどが、ぞろぞろと火葬場までついて

きた。あんまり多くても遺族に迷惑だろうから、帰ろうか……そんなことを誰

かが言った気がする。それでも気がつくと、何台かの車に別れて乗り込み、ゆ

っくりと山道にのぼっていく霊柩車のあとを、のろのろとついてまわった。車

の中ではみんな無口だった。

 市長選の最中で、うるさくがなりたてる街宣車のスピーカーが、ぼくらとす

れ違うときだけ、ふと沈黙した。

 それがおかしくて、ぼくと友人たちはげらげらと笑った。ああ、こんなとき

でも笑えるんだな、ってそのとき思った。

 山のススキはとうに枯れていた。空は、あきれるくらいに晴れていた。


 火葬場にも売店があるんだってことを、そのときはじめて知った。

 こんなところに店を出しても、参列者以外に誰も買う人はいないだろうに、

やたらと品揃えがいい。コーヒーや菓子パンは言うに及ばず、傘や、下着や、

電池、使い捨てカメラ……週刊誌や競馬新聞まで置いてある。

 もう日が傾きだした時刻で、売店は西日があたる火葬場の入り口近くにあっ

た。冬の、弱弱しい陽射しが、スポーツ新聞の一面、若手タレントの婚約を告

げる記事を照らし出している。

 そういえば、むかし聞いたことがある。

 県立のガンセンターの売店には、海外旅行のパンフレットがずらりと並んで

いるのだそうだ。せつない話だと思った。

 モルディブの青い空でも、TVでみかけるお笑いタレントのしまらない笑顔

でもいい、ぼくも何かにしがみついて、目の前のこのつらさを忘れたかった。

それができるなら、いくら出しても惜しくない。


 ……結局、売店で買ったのはラッキーストライクだった。ぼくが禁煙して早

々に死ぬことはないだろうと、心の中でHに愚痴った。トイレのそばに喫煙ス

ペースがある。硬い椅子に腰掛けて、タバコに火をつけたとき、喪服を着た北

嶋が近づいてきて、タバコを一本せびった。

「もうすぐ、火がつく」

 煙を吐き出しながら、北嶋はいった。一瞬、タバコのことかと思った。

「人が燃えるのってどれくらい時間がかかるのかな」

「一時間ぐらいだってよ。まぁ、あいつの場合は……」

 もう少し早いだろう、とでも言いかけたのだろうか。言葉の最後は、煙の中

にあいまいに溶けて消えた。

「おまえ、文子のそばについててやれよ」

「彼氏がいるのに?」

「関係ないだろ。家が倒れそうなのに、つっかえ棒一本より、二本の方がいい

だろう」

 北嶋はいつも理論はわからないが、豪快なことを言う。

 文子は通夜の席からずっと、泣きつづけだった。釘を打たれたままの棺にと

りすがり、細いからだをよじるようにして泣いていた。ぼくがやっと声をかけ

られたのは葬儀の日の朝で、ぼくの顔をみて、ほんの少し、微笑んだ。

 文子のいまの彼氏は、モグラに似た丸顔の、朴訥そうな青年で、式場の前で

手を振って、車の交通整理をしていた。

「なんか、イヤになっちまったよ、おれは」

「自分より年下の人間の葬式なんて、いやなもんだ」

「おれは同情なんかしねぇ。あいつを許さねぇ」

「しょうがないだろ……病気だったんだし」

 言いながらも、北嶋がそう言いたくなる気持ちも、わからないではなかった。

 納棺のとき、背中を丸めて震えていた、Hの母親の姿を思い出す。文子と二

人、寄り添っているさまは、嵐の中で雨に濡れて震える、二匹のテンジクネズ

ミのようだった。

 これからあの二人は、Hの“不在”という烙印を押されて生きるのだ。七十

になろうと、八十になろうと、その烙印は消えないだろう。そして……そんな

ことを考えるのは傲慢だとわかっていても、どうして彼を救えなかったのかと、

自分を責めるだろう。

 人が死ぬときに、こんな指の叉を裂かれるようなリアルな痛みを感じたのは、

はじめてだった。親しい人間が死ぬということは、その人間に託していた、自

分の一部が殺されることだとはじめて知った。

 Hとつきあっていた自分、彼と話した記憶、感情、Hと文子と三人であった

ときの自分、その自分の一部がいま棺におさめられているのだと思った。そし

ていまから、Hの骸といっしょに焼かれるのだと。


「ああ、こんなところでモク中がたむろってやがるゼ」

 冗談めかして言いながら、それでも頬ひとつ動かさずに、松尾が近づいてき

た。北嶋の隣に座ると、ぼくにタバコをねだる。仕方なく、火をつけてやる。

気配に勘付いたのか、真中と東代宮もやってくる。

「おまえのそのジッポーの付け方さ、Hのマネだよな。未だにやってんだ」

 松尾がそう言って笑う。なんのことかわからなかった。

「これか?」

 腕を振ってジッポーの蓋を開け、片手だけで火をつけてみせる。すべてをワ

ンアクションで。

「そうだよ。覚えてねぇか? TVの深夜放送でコッポラの「アウトサイダー」

やっててさ。その中でディロンがやってたジッポーの付け方がカッコイイって、

Hが珍しくはしゃいでさ」

「ああ」

 思い出した。

 不器用なHは、ぼくのジッポーを借りて何度もやるのだが、どうしてもでき

ない。ぼくがジッポーをとりあげて、いちどで火をつけてみせると、すさまじ

く不機嫌になって、黙り込んだ。思わずその顔を思い出して、笑ってしまった。

「なぁんか、頭良いくせに鈍臭くて、青臭くて、バカみたいに純情で、面白い

ヤツだったな、あいつ」

 真中が笑いながら言う。

「覚えてるか、雑餉隈で飲んだときにさぁ……」

 それだけで、その場にいたみんなが何のことか察してしまい、どっと雰囲気

がくだけた。はじめて入った居酒屋で、真中と松尾が泥酔してしまい、『裸の

俺を見せるゼ!』などと叫んでいきなり素っ裸になってしまった。隣の席に座

っていたOLたちは悲鳴をあげまくる。店員は血相を変えてとんでくる。真中

と松尾は酔ったなりに、自分たちがとんでもないことをしたと気づいたらしい。

素っ裸のままで表の道路に走り出した。

 シラフのHが、二人の服をつかんで、あわててその後を追いかけた。Hは必

死で呼び止めるのだが、勢いのついた二人は止まらない。ぼくとHと北嶋が二

人を止めたときには、飲み屋街を五キロも疾走したあとだった。

「あのときのHの泣きそうな顔、おれ忘れられないよ」

 げらげらと笑いながら、真中が言った。

「ああ、おれも忘れないよ」

 北嶋が真顔でつづけた。

「一生、忘れない」

 そのひとことで、みんな凍りついたようにしん、と静まり返った。

「北嶋……」

 思い切って口を開くと、粘っこい声が出た。

「なんだよ」

「それは、無理だよ」

「なにが無理だ」

「だって……」

 いいかけて、口をつぐむ。言っても無駄だ。これは、北嶋の意思の表明にす

ぎないのだから。そんなことは無理だってことを、いちばん知っているのは北

嶋なのだろうから。

「あの、皆さん……そろそろ、火がつきますから」

 聞きなれた声に振り返ると、文子が立っていた。

 黒いドレスに身をつつんだその姿は、まっすぐに伸ばした針金のようだった。

目と鼻は真っ赤になっている。

「おう、いまいくよ」

 北嶋がそう言い、ぼくの肩を床におしつけるようにぐいっと押してから、か

まどの方に歩いていった。松尾たちがそのあとにつづく。

 あとには、ぼくと文子ふたりだけになった。

「ええと、この度は……」

「元気だしてください」

 二人同時に声をだして、そのセリフの気の利かなさ加減に、二人同時に呆れ

た。

「あいかわらずねぇ」

「きみも」

 言ったあとで、もう言葉がつづかない。ありきたりな慰めの言葉なんて言い

たくなかった。かといって、他になんと言っていいのか、見当もつかない。

「あたし、たぶん、結婚すると思います、来年」

 文子はそう言って、目を真っ赤にしたまま、にっこりと笑った。

「それは、よかった。本当によかったと思うよ、おめでとう」

「さようなら」

 唐突にそういわれて、ぼくはまた言葉を見失う。

「その言葉なら五年前に聞いたよ」

「そうじゃなくて……あたしと杉之さん、兄といっしょに会う機会が多かった

でしょう。その記憶、もうすぐ消えると思うから」

「ああ……」

 ぼくはうなずく。もうすぐ、かまどに、火がつく。

「いまだから言うけど、杉之さんと会うの、すごく楽しかったです」

「ぼくもだよ……いまの台詞、彼氏に聞かせてやろうかな」

「すぐ、忘れちゃうくせに」

 文子は笑っていーっ、をして、それから顔をくしゃりとゆがめて、また泣い

た。


 かまどの前に、まるで何かの影の集合体のように、黒い喪服姿が寄り添って、

立っていた。

 見知った顔をいくつか見つけて、頭を下げる。下山くんはHとは小学生時代

からの親友だったと聞いた。いちど、いっしょに飯を食ったことがある。永沢

さんは、Hの前の恋人だ。どちらも、Hを通じて知り合った人たちだ。さよな

ら、と口の中だけでつぶやく。この葬儀場を出るときには、彼らのことは忘れ

ているだろう。

 かまどの扉に取りすがるようにして、Hの母親が泣いていた。聞いているだ

けで臓腑がねじれるような泣き声だった。親族らしい、髪に白いものが交じっ

た男性がひとり、必死で彼女をかまどから引き離そうとしていた。

「忘れないわよっ!」

 耳をふさぎたくなる。

「忘れないわよ、忘れないわよ……お母さん、あなたのこと、ぜったい、ぜっ

たい、忘れませんからね! お腹を内側から蹴ったときのことも、小学校の運

動会で……」

 泣き崩れて、それからあとは言葉にならなかった。

 ぼくのすぐ前で、ぶるぶると震えている、大きな背中に見覚えがある。

 北嶋が、声を殺して泣いていた。彼が、人前で泣くのを、ぼくははじめて見

た。

 ぼっ、と。

 火のつく音が、すぐ耳のそばで、した。ああ、と北嶋がつぶやく声が聞こえ

た。たぶん、彼もその音を耳にしたのだ。彼やぼくだけではない。この火葬場

にいるすべての人の……いや、この地上で、彼を知るすべての人の脳の中で、

Hの記憶が燃えていく。

 Hの母親が絶叫して、頭を押さえた。いや、いや、奪わないで。

 燃えていく。見えない炎が、頭の中で燃えている。記憶が、思い出が消えて

いく。赤ん坊のときのH、小学生のときのH、中学生のときのH……。

「なんでだよぉ、なんでこうなるんだよぉ」

 北嶋の頬を、大粒の涙がつたい、コンクリートの床へと落ちていく。

 震える彼の肩を、ぼくはつかんだ。

「仕方ないよ……忘れなきゃ、生きていけないんだから、人は」

「嘘だ、そんなのイヤだ。俺は忘れねぇ。ぜったいにあいつのこと忘れねぇ。

あんないいヤツいなかった。あんな……あんな……」

 北嶋がふいに喉を震わせる。

「ちきしょう、名前を思い出せねぇ! 誰だ!」

 喪服姿を掻き分けて、強引に前に進もうとする。ぼくは必死で引きとめよう

としたが、いかんせん、力が違いすぎた。

「ちきしょう、ちきしょう、誰だァ! おまえ誰だァ!」

 北嶋は怒鳴り声を上げ、かまどの蓋を叩く。火葬場の係員があわててとんで

きた。ぼくと二人がかりで、なんとかその身体を押さえられた。

「おまえ誰だァ! 何者だったんだァ! なにがしたかった! なにをめざし

てた! おれになにをした! なんでおれと出会った!」

 北嶋は絶叫した。

「なんのために生まれてきたんだァ!!」

 北嶋のエルボーが、ものの見事にぼくの顎に決まった。あまりの痛さに涙が

出た。おもわず目をしばたいたとき、床にしゃがみこみ、顔を両手で抱え込ん

でいる文子の姿に気づいた。

 たったいま、コンクリートの床に咲いた、黒い薔薇の花みたいに見えた。


 ……。


 気がつくと、ぼくらは交差点の前に立ち、信号が赤から青に変わるのを、ぼ

んやりと待っていた。

 ぼくはゆっくりとまわりを見回した。北嶋がいる、真中がいる、松尾がいる、

東代宮がいる。いつものメンバーだった。みんな、とまどったような顔をして、

きょときょととお互いの顔を見つめている。

「あぁ? なんだこりゃあ」

 ふいに北嶋が大声で言って、自分の喪服の袖をひっぱる。

「なんで、こんな抹香臭いもん着てんだ、俺ァ? どうなってんだァ」

「……知らないよ、ぼくも」

 不機嫌にぼくは答えた。身体がだるくて、やたらと熱っぽい。ここまでどう

やって来たのか、まったく記憶がなかった。

「葬式だったらしいゼ」

 松尾が、やはり不機嫌そうに言った。

「らしいねぇ」

「やだなぁ、この気分だけはいつも。慣れてるけどさ。誰が死んだんだか、ま

るで思い出せねぇ」

「しょうがないよ……忘れなきゃ、人は生きていけないんだから」

 ぼくはそう言って……言ったあとで、この台詞を前に言ったことがあるよう

な気がした。どこでだったか、思い出せない。

「まぁ、そうだけどなぁ。気持ち悪いもんだぜ、知らない人間の葬式に出たな

んてよぉ。まぁ、いつものメンツはそろって、欠けてる人間もいないるみたいだ

し、よかったわ。あんま親しくもないヤツだったのかな……どうだ、景気づけに

飲みにいくか?」

 盛り上がる友人たちの輪から一人、ぼくは明日の仕事を理由に離れた。北嶋

たちは、ぼくを引き止めなかった。寂しいような、ほっとしたような、妙な気

分だった。

 道を少し引き返して、タクシーを拾えそうな道を探す。

 大きな通りに出たとき、むこうからきた喪服姿の若い女の姿に目がとまった。

(ひょっとして、同じ葬式に出たのかな……)

 声をかけて、誰が亡くなったのか聞いてみようかと思い、ふと彼女が一人で

はないのに気づいた。モグラに似た丸顔の青年が、あとから走ってきて、彼女

に何か話しかけている。彼女は満面の笑みで彼に何か答えている。

 出かかった声は、中途半端に喉の奥で消え、ぼくは苦笑して、照れ隠しにタ

バコをくわえた。どうせ、誰の葬式だったかなんて、覚えてる人間はいないの

だ。誰一人、たとえ肉親であったとしても。

 いつか、ぼくも消えていく。

 誰に覚えられることもなく。歴史に名を残すこともなく――。

 それでいい、と思った。

 寒風に背を向けて、ジッポーに火をつける。

 赤々と燃えるタバコの先から紫煙が漂い、鼻先につんときた。

「あれ?」

 びっくりして、頬に手を当てた。生温い。

「なんで泣いてんだ、おれ?」

 驚いた。悲しみなんてまるで無いのに、涙があとからあとから溢れてくる。

 片手で瞼の下をぬぐい、手持ち無沙汰になった片手で、ジッポーに火をつけ

て、消す、それを繰り返す、幾度となく。

 すれ違った女子高生が、おかしなものでも見るような目でぼくをみる。

「ったくこれだからな。やってらんないよ」

 ぼくは笑う。うまく笑えた。

「やっぱタバコなんてダメだな、禁煙しよう」

 火のついたタバコを捨てて、靴の下で踏みにじり、胸の中だけでそっとつぶ

やく。

 さよなら。 

 

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隠れ月 はまりー @hamari_sugino

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