ヒーロー
バスを乗り継ぎ、カフェ・アズテックに帰ってきたのはもう深夜と呼べる時間だった。頼りなく灯る玄関前の明かりを見て、初めて無事に帰ってこられたことを感じる。それから猛烈な疲労感と共に、気がかりの種が芽を伸ばし始めてきた。
苑浦は大丈夫だろうか。
やるだけのことはやったつもりだ。自分が持てる力を出してロードスターを飛ばし、病院まで送り届けた。狭い峠道を、交通量の多い市街地を、わき目も振らずに。けれど、最後に助手席を見たとき、彼女の顔色はどうだったか。それを考えると、不安にならずにはいられない。
「やっぱ帰ってたのか。とりあえず夕飯作っておいたぞ」
電気が点いたので起きてみると、エプロン姿の楓姉さんがいた。持っているお盆には、たっぷりのカフェオレと、あれは多分カツサンドだろう。そういえば昼から何も食ってない。
お盆が置かれるよりも先に、俺は片手でカツサンドをひったくるようにして頬張った後、マグカップに口をつけた。
「……不味い。何でソースじゃなくて黒蜜がかかってんですか」
「私流のアレンジだ、文句言うな。食べ物にケチつける男はモテないぞ」
不機嫌そうにそっぽを向く楓姉さん。それでも、妙に甘いカツサンドと、対照的に苦味の強いカフェオレは、疲れた心を癒すのに十分だった。
もしあの時事故っていたら。
多分、この味にありつけることもなかったはず。急に胃が痛んだのは、一気食いしたからじゃないだろう。改めて自分の無謀さに肝が冷えた。
「あ、睦。あれ見ろ、あれ」
食い終わって一息つくと、ずっと座ってた楓姉さんが部屋の後ろの方を差した。
「はい? 」
やけに真面目くさったその顔につられ、振り向いた瞬間、
いきなり後ろから抱きしめられた。いつものじゃれ合いとは違い、本当に強く、背中が苦しくなるほど。
「よかった、本当に。ずっと心配してたんだぞ」
涙まじりの声を聞いて、俺は悟った。苑浦を病院に送ろうとした時の別れ際、
―お前まで失いたくないよ。
半年前
通り過ぎて行く車一台一台が、凶器に見えてくる。そんな錯覚が時々あった。政府は自動車関連の法律を通し、世の中は建設ラッシュで幹線道路や地下駐車場の建設を進めている。一方で、来月から高校生になる俺は、免許取得の資格が与えられた。
「やれやれ、昔見たときとは随分違うね。背も伸びてまるで別人みたいだし」
そんな折、俺はある女性と会っていた。年の頃合は二十代後半だろうか、意志の強そうな瞳と、よく見ればモデルに通じそうなプロポーションを持ちながら、男物の服でそれを台無しにしている、奇妙な人だった。そんな彼女を、俺は遠い昔に知っている。
「お久しぶりです」
「いいよそんな堅苦しい挨拶。昔みたいに呼びなって、ほら」
「……楓姉さん」
「よろしい」
久しぶりに会った従姉は、俺が小さい頃と何ら変わらない悪戯っぽい笑顔で笑った。しかし、俺たちはそんな懐かしい再会をわかち合うために来たわけじゃない。
「大まかなことは電話で話した通りだからそれでいいかな? 週三から五日開けるから、学校ないときは基本全部手伝ってもらう。その代わり三年間の下宿代はタダ。いい? 」
「ええ、わかってます」
「そう。よし、それじゃあ入学祝をあげよう、行くよ!」
楓姉さんは俺の肩を叩くと、フェアレディZに乗り込んだ。交通量の多い国道をスムースに走り、やがて車はとある工業地帯にある、寂れた倉庫の前で止まった。
「ここって……? 」
「忘れたとは言わせないよ。さあ、中に入ろうか」
朽ち果てたシャッターの奥は、整然と片付けられていて、ゴミ一つ落ちていなかった。ただ、ひんやりと薄ら寒い。そんなかつての工房の中心に、カバーの掛けられた巨大な物体が鎮座している。
「私達からだ」
戸惑う俺に、楓姉さんがケースに入った鍵を渡した。
目の前の事実はにわかに信じられないものだ。けれど、考えられる答えは一つだけ。
「いいよ、見てごらん」
楓姉さんが言い終わる前に、俺は勢いよくカバーを剥がした。
一台の車が現れた。
それは小型のオープンカーで、シンプルながらエッジの効いたデザインと鋭い目をしたヘッドライトが特徴の……。
「ロードスタ、あ? 」
わかってはいたことだった。けれど、最後に見た悲劇の写真と随分印象が違う。事故の衝撃でつぶれたフロントバンパーは元通り直され、傷だらけの車体は暗い室内でも映える、美しい赤色に塗り替えられていた。
「本当は処分するつもりでいたんだよ。けど、色々考えさせられてね。もし彼が、賢が生きていたら今頃どうしてたかって。それでやっぱり、やれるだけのことはやってみたの」
淡々と囁く楓姉さんは、それから感傷的に笑った。
「私達にとって大切な人だもんね」
「うん」
対外的に楓姉さんは俺の従姉に当たるわけだが、実際は父親の従兄弟の子供というとても遠い縁者に当たる。そんな彼女と俺がどうして巡り合えたか。
ロードスターを作ってた帰り道、入れ違いで工房に向かっていく若い女性。賢さんは彼女ことを話しはしなかったが、子供心ながらに俺は気づいていた。
きっとあの人は賢さんの彼女だ。
それから楓姉さんこと星野楓の正体がバレたのは早かった。あっけらかんとした彼女はすぐに俺のことを認めてくれ、たまに遊んでくれたりした性格は今も変わらない。
しかし、悲劇を機にその関係は疎遠になった。そして月日は流れ、下宿先を必要とした俺の所に一本の電話が入る。
「久しぶりだね。覚えてる? 」
電話の相手は、俺が通う高校から程近い場所でカフェを開くらしい。親戚とはいえ素性のよく知らない人のところにお世話になるなんて……と渋る母を納得させたのは、次の一言だった。
「私も彼も共通して失い、そしてもう一度這い上がろうとしてるんです。」
そして今。
「ヤなら考えるよ。けどね、この車はきっと君に乗ってほしがってる」
正直、積極的に車に乗りたいわけじゃない。しかし、急にいつかの言葉がフラッシュバックした。
―いつかお前の運転でこの景色をもう一度見に来よう
俺はまだ約束を果たしていなかったのだ。
「これ、他に直さなきゃいけない所ってありますか? 」
「ブレーキがちょっと弱いけど、丁寧に扱えば問題ないよ」
そっか、とドアノブを引いて乗り込み、エンジンのスターターボタンを押す。どこか懐かしくて、元気なエンジン音が息を吹いた。
「ありがとう。ただ、一つだけ約束してくれない? 」
「何です? 」
助手席に座ると、楓姉さんはたどたどしくギアを入れる俺の腕を掴んでいった。
「絶対に、私を置いてったりしないでね。賢みたいに」
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