2014年式・ロードスター

 「……今すぐじゃなくてもいいから、胸張って誇れるものを見つけられるといいよな」

 ふと、いつかの工房での賢さんの言葉が脳裏に蘇る。

 「俺にとってのそれは車だった。傍から見るとどうでもいいことかもしんないけど、この気持ちは何物にも代え難い価値があると思う。いつか睦にもそんな何かを掴んでくれたら嬉しいよ」

 「俺を、俺を試しているのか、賢さん!」

 息が苦しくなるほど狭い道を、ロードスターは疾走していた。かつて学んだ、”車の幅を最大限生かす”というアドバイスを思い出して、減速を押さえつつ、繊細かつ大胆にステアリングを切る。エンジンが、ブレーキが、タイヤが、車のあらゆる箇所がそれに応え、前に進もうとする俺の心と重なっていた。

 メーターを見ると、時速百キロをわずかにアンダー。この車が最も真価を発揮する領域だ。体中をプレッシャーに包まれながらも、ある手ごたえが伝わってきた。

 この車を乗りこなせている。

 正直、こんな風にぶっ飛ばすなんてやりたくない。けど、流れで出来た自動車部や、ロードスターに触れたことが、俺を変えてしまったんだ。そして何より、

 コイツに恩返ししてやりたい

 床橋スピードウェイを初めて走ったあの日、苑浦がいなければ、俺は間違いなく愛車と体を壊していただろう。ホント、こんな美少女なのに愛想ないし、勝手に暴走するし、「超然」な雰囲気のお陰で色々と振り回されちまったけど、こんな所でくたばるのだけは絶対に許せない。

 賢さん、アンタみたいにな。

 目の前にはタイトなヘアピンコーナー。四→三→二速と瞬く間にシフトダウンし、ガードレールに車の鼻先を押し付けるようにして、豪快に抜ける。

 「どうだ、こんな走り見れんのも今くらいしかねぇぞ!」

 軽口を叩いて助手席に目をやるが、応答はない。それどころか、その顔色はさっきよりも悪くなっている気がした。急がないと本当に危なそうである。

 やがて道幅が広がり、街頭の明かりと共に町外れの住宅街が現れた。ここからは少しだけ、余裕を持って運転できる。

 「睦!睦!聞こえるか? 」

 最初の交差点を曲がったところで、携帯から楓姉さんの叫び声が聞こえた。

 「病院に繋がったよ。手術の準備が出来てるらしいから、玄関前に車を止めろって」

 「わかった。サンキューです」

 「それと……頼むから無事に帰って来てよ」

 「わかってますって……あ!」

 突然バックミラーに赤色灯が映ったかと思うと、白黒にペイントされた車がサイレンを鳴らして猛然と迫ってきた。どうやら峠道が終わったあたりから尾行されていたらしいな。しかも車種は日産のGT-R、交通違反対策専用のモンスターマシンである。

 「ゴラァ!前のロードスター止まらんかぃ!」

 スピーカーから、雷のような警告が轟いた。それからすぐに、GT-Rは対向車がいない事を確認すると、ロードスターと平行に並んだ。チラりと横に視線を移すと、般若みたいに顔を歪めた警官が俺を睨みを利かせた。

 「もう一度言うぞ、今すぐ止まらないとお前を危険運転で逮捕する!」

 「か、彼女がぁ死にそうなんで、病院に急いでんです!」

 逮捕という言葉で冷静さを失う俺。冗談じゃない、こっちは好きでこんな事してるんじゃないのに。

 「なら仕方ない。パトカーで先導してやる」

 ビビッた俺の顔を見て悟ったのか、意外にも警官は俺を諭すような声で返した。案外、話のわかる人なのかもしれない。

 「しっかりついて来いよ」

「え? 」

 警官が笑ったと思うと、GT-Rが猛加速した。けたたましいサイレンの威力で、道を塞いでいた車は慄くように端へと避け、道の中央部分がガラ開きになる。そこを、二台の猛者が突っ切ってゆく。

 もう少し、もう少しだけ耐えてくれ。

 幸いにして、俺自身が事故る危険性は払拭された。だが、苑浦はもはや一刻を争う中にいる。百五十キロという速度の中で、複雑な思いが交錯していく。

 そして。

 先導されてしばらく経っただろうか、市役所や銀行等がひしめく官庁街に入りかけたところで、

 碧宮大学総合病院。

 そう書かれたネオンがはっきりと視界に入った。GT-Rは既にエントランスに入り停車している。だが、

 「あれ、ブレーキが利かない? 」

 この間パッドを換えたはずなのに、と考えたところである予感が胸をよぎった。

 「まさかペーパーロック現象が!? 」

 高速域や長い下り坂でブレーキを踏みすぎることで、ブレーキ内部に気泡が入り、ブレーキが利かなくなる現象。今のロードスターはその典型例といってよかった。

 まさか最後の最後でダメになるなんて。

 本当の絶望に包まれたときだった。

 「サイドブレーキ引いて。あなたならやれるわ」

 助手席から声が聞こえたような気がした。

 「はいよ」

 エントランスまで、残り五十メートル。躊躇せず、俺はステアリング横のレバーを引いた。間髪を入れずに後輪がロックし、制動を失ったロードスターがスピン状態に入る。

 「いっっけぇぇぇ!」

 視界がめまぐるしく変わりながらも、ひたすらステアリングを握りしめ、俺は強く願う。そして、その気持ちに応えるように、ロードスターは片輪を縁石に乗り上げながらも、どうにか停止することに成功した。

 「ふぅ……」

 体中の震えが止まらない。かなりの無茶をしながら無事故で辿りつけたのだから奇跡といえよう。胸を撫で下ろしかけ、ふと我に返る。

 苑浦は!? 

 振り向くとすぐさま、白衣を着た医師や看護師がロードスターの周りを囲んだ。俺はドアを開け、邪魔にならないよう車を明け渡す。

 「急患はこの子だな? 」

 「ストレッチャー前へ!」

 「急げ、容態がかなり悪そうだ」

 辺りを緊迫した空気が包む。結局、俺は彼女に目を合わすことが出来ないまま、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。そしてストレッチャーが去り、玄関は騒々しい余韻を残しつつも、元の静けさを取り戻し始める。これからどうしよう、と迷っていると、

 「ったく無茶な止め方しやがって……。手術は時間がかかるだろうし、家に帰ってたほうがいいぞ」

 手持ち無沙汰な俺に、野太い声がかけられる。いつのまにか、先ほどの警官が俺のすぐ目の前にいた。

 「違反の件だが、今回は特例って事で見逃してやる。ただ、次やったら許さねえからな。学生で免許取れるようになったからって、調子にのるなよ」

 「はぁ。どうも助かります」

 口は悪いが礼くらい言っといたほうがよさそうだ。俺が頭を下げると、警官は満足したようにGT-Rの運転席に腰を沈めた。そのの屈強な体格と同じくらい重厚なエンジン音が当たりに響き渡る。

 「車は練馬の整備場に回収させとくから。次会う時はサーキットでやり合うぞ」

 そんな思わせぶりなセリフと共に、和製スーパーカーは去っていった。さて、役目も終わった今、ここにいる意味はない。

 俺は縁石に乗り上げてる愛車に敬礼してから、ゆっくりと歩き出した。

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