調味料

Kuzushi

第1話

 会社のお昼休憩に定食屋に入った。普段は社内の食堂で済ませるのだが、時々少し歩いて、隠れ家的な場所を見つけるのも好きなのだ。

 店に入ると、アルバイトと思しき茶髪の青年が、接客してきた。

カウンター席とテーブル席が選べるらしい。お昼の時間帯でもけっこう空いているようだった。せっかくなので、テーブルでゆったり食べることにした。

 店内には六つのカウンター席と、二つのテーブル席がある。もう一つのテーブルには客がおらず、カウンター席に二人客がいるだけだった。

 洋食がメインのようで、ハンバーグやオムライスなどのメニューが壁に貼られていた。

 先程の青年が、水を運んで来た際に、ハンバーグ定食を注文した。一品しか頼んでいないのに注文を繰り返す青年には、少し辟易としてしまう。

 料理が来るまでの間は、店内のテレビを見ていた。ワイドショーで過労死の特集をやっていたが、きっと当事者のほとんどは見ることができないだろう。

 十分ほどで料理が届いた。先程の青年が、サラダ、ハンバーグ、ライス、スープを順番に並べた。

 早速ハンバーグを切り分けて食べてみると、これが中々の味だった。少なくとも、ファミレスで食べるようなレトルト食品とは別物の、肉汁ほとばしる肉厚のハンバーグだった。それをおかずにライスを半分ほど食べたところで、サラダに移った。

 何かドレッシングをかけようと、テーブルの端にある調味料に目をやった。並んだ容器には、それぞれに、醤油やソースなどと書かれたシールが貼られている。その中に一つだけ、何も貼られていない容器があった。その中には茶色いパウダー状のものが入れられており、半分くらいまで減っている。

 ここに並んでいるのだから、もちろん調味料の一種なのだろうが、それが何なのかまでは分からない。気になったので、先程の青年に何の調味料か尋ねたみた。

 「厨房担当じゃないのでわかりません」という、誠意あふれる返答をしてくれたので、それ以上の追求はやめておいた。

 気になったのなら味見してみればいい。皿の空いたところに少量まぶし、指につけたものを舐めてみた。

 最初はほとんど味を感じなかったが、すぐに口中に強烈な苦味が広がった。あまりの苦味に舌全体が痺れたような感覚に陥る。さらに、苦味は辛さか熱さか分からぬものに変化し、ついには痛みへと変わった。水を飲んでも一向に弱まることどころか、さらに増す一方で、僕の神経をいたぶり続けた。

しばらくの間、その破壊的味に悶えるしかなかった。目元に溜まった涙が頬を駆け下りていくのが分かった。

やっと、味が薄まってきた時には、もはや食欲はなくなっていた。一応、主菜くらいには手をつけようと思ったが、ぬるくなったハンバーグの熱にすら、舌が染みるので、諦めた。

会社に戻っても、水を口に含んだだけで、舌に軽く刺されるように痛んだ。しかし、痛みだけでなく、あの調味料に対する疑問も頭の隅に湧いていた。あれは一体何だったのだろう?何の目的で、誰が使ったのだろうか?

少なくとも僕が見た時には半分近く減っていた。店側がわざと半分しか入れなかったのかもしれないが、理由が分からない。

 あの調味料のことが、あまりにも気になったので、次の日もまたあの店に行ってみることにした。昨日と同じ彼が、相変わらず気だるげに接客してきた。

あろうことか、今日は僕以外、一人も客が入っていなかった。大丈夫なのだろうかこの店は。

今日はカウンター席に座ってみることにした。だが、カウンターにはあの調味料が置いていない。テーブル席だけに置いてあるなんて妙だな、と心の中でつぶやく。

 これではせっかく来た意味がない。昨日使ったテーブル席も当然空いていたので、行儀が悪いことを承知で、調味料を少しだけ拝借しようとした。

 だが、テーブル席にもあの調味料は置いていない。昨日はあったはずなのに。また、あの青年に聞いてみようかと思ったが、彼は厨房のことは分からないだろうから、代わりに厨房担当に聞くことにした。

「すいません!」

 厨房に向かって叫んでみるが、来たのはホール専門の彼だけだった。

「何か御用ですか?」

 君には御用ではないのだが、来てしまったものは仕方ない。

「茶色い粉の調味料がないか厨房の人に聞いてきてもらえるかな?昨日はあそこのテーブルにあったと思うんだけど」

 昨日座った席を指差しながら言った。

「少々お待ち下さい」

 青年は厨房の中に入っていった。思ったより素直に聞きに行ってくれたので、少し意外だった。嫌な顔の一つくらいすると思ったのだが。

 すぐに、青年があの調味料を持ってきてくれた。今日は容器いっぱいに入っている。ということは、昨日の昼時点では確実に誰かが使っていたということになる。

「これ、昨日の昼はあったんだけど、今日なかったのはたまたまなのかな?」

「すみません、ちょっと分かりません」

「それじゃあ、悪いんだけど、もう一度厨房の人に聞いてきてもらえるかな?何度もごめんね」

「少々お待ち下さい」

 今度も表情一つ変えず、再び厨房へ入っていき、さっきよりもさらに早く戻ってきた。

「あの調味料は夜限定だそうです。昨日は夜の担当が片付け忘れていたから、テーブルに残ってたみたいです」

 夜限定?そんな調味料があるのか。なぜ夜だけなのだろう?そんなに変わった味覚の人が来るのだろうか?いや、そもそもあれは好みを超越したものだと思うのだが。

「このお店、夜は何時からやってるの?」

「九時からです」

「ありがとう。ごめんね、何度も使いっ走りさせちゃって」

「いいえ」

 彼はぶっきらぼうだが、思ったほど悪いやつではなさそうだ。だが、部下にいたら使いづらいタイプだろうなぁと、いらない心配をしてしまった。

 それはさておき、夜限定というのなら、九時以降にまた来ればどんな客が使っているのか分かるだろう。今夜さっそく来てみよう。

 さすがに、またあの地獄のような味を体験するのはこりごりだったので、せっかく持ってきて貰ったのだが、その調味料を使うのは遠慮しておいた。

 その夜は残業を使って、溜まっていた仕事と、後からやる予定だった仕事を一気に片付けた。時計の針が九時を回った頃に、もう一度その店に向かった。店内にはカウンター席が四つと、両方のテーブル席が埋まっており、昼よりもよっぽど繁盛していた。

 従業員も、昼のように退屈そうではなく、黒い三つ編みを一本垂らした女の子が店内を動き回っていた。

 その子は、料理を運びながら、「空いてるお好きな席にどうぞ」と明るく声をかけてくれた。一本だけ出ている八重歯が可愛らしい、無垢な笑顔だった。

右から二つ目のカウンター席に座った。真っ先に確認したのは、例の調味料だ。何せこいつの謎を解きに来たのだから、これがなければ始まらない。

 カウンターを確認すると、確かにあの茶色い粉の入った容器が置かれていた。後はそれを使っている客を見つけるだけだ。

 お昼の話から推測するに、この店は調味料の中身を、開店前にきちんと補充してから置くようだ。つまり、昨日の昼に半分減っていたということは、その前の夜にそれだけ消費されたということになる。さすがに、あのテーブル席にだけ、あの調味料を使う客が集中したとは考えにくい。それなりの人数があの調味料を使っていたはずだ。

 僕は女の子を呼び止めて、昨日と同じくハンバーグ定食を注文した。それから店内を見回し、調味料を使っている客を探した。すると、奥のテーブル席で、何かをふりかける動作をする、坊主頭の男がいた。店にある調味料は、醤油とソースと二種類のドレッシングに、例の調味料だけなので、ふりかけるような動作をするものは一つしかない。

 さらに、その客は料理を食べた後に、思いっきり眉間にしわを寄せながら、歯を食いしばっている。間違いない。あの調味料だ。

 僕はその客に、調味料をかけた理由について聞いてみることにした。普段はここまで大胆な行動はしないのだが、調味料への好奇心が僕にそうさせたのだ。

「あの、すみません、ちょっと質問させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「え?あ…はい。何でしょうか?」

 応えたのは、坊主の男の向かい側に座っていた、眼鏡の男だった。成人にしてはかなり高い声だった。非常にくたびれた顔をしている。ただでさえ、痩身と声のせいでひ弱に見えるのに、目の下の隈と、よれよれになったネクタイとワイシャツが拍車をかけ、もはや病人にすら見える。

 見た目のせいか、やたらとオドオドして見えたが、実際食事中に、見知らぬ男に声をかけられたら、こんなものだろう。

「突然、すみません。ちょっとその調味料のことで聞いてみたいことがありまして。向かいの方にもお話を伺いたいんですが……今はそれどころじゃなさそうですね」

 男は依然、苦しそうな顔をしており、僕に反応する余裕がないようだ。僕が昨日受けたのと同じ拷問を味わっているのなら、無理もない。

「お二人は、会社の同僚か何かですか?」

 代わりに眼鏡の男に質問する。

「あ、はい。同じ職場の同期です」

 反応は悪くない。意外と気さくに答えてくれそうだ。

「この店にはよく来られるんですか?」

「そうですね、徹夜になりそうな時は、よくここに夜食を食べに来ています。最近はまぁ……ほとんど毎日ですけどね」

 眼鏡の男は、力なく笑った。痛々しさすら感じる、みすぼらしい笑顔だった。僕もなんとか、笑顔で合わせたが、引きつった笑いになっていたことだろう。

「失礼ですが、どうしてこの店に?ここは少しオフィス街から離れていますよね?」

「調味料ですよ。今彼が食べた、これです」

 男は例の調味料が入った容器を僕に見せた。

「この調味料、私も昨日初めて使ったのですが、なんというか……相当まずいですよね?」

「ええそうですね、もうまずいなんてもんじゃない。劇物ですよ、こんなの」

 何故か上機嫌にそう答える。

「では、まずいと分かっていてなぜ?」

「私達はこの近くの開発会社でプログラマーをやっているんですよ。それで、残業で遅くなったり、徹夜になったりすることはしょっちゅうでして。徹夜も三日目にもなると、もう眠気がどうしようもなくてね。コーヒーも栄養ドリンクもまったく役に立たないんですよ。そんな状態で仮眠を取ったらもう途中で起きるのは不可能なんです。そんな時に先輩からこの店のことを紹介されまして。この調味料を一口食べれば、眠気など何処かにすっ飛んでしまうとね」

 なんということだ。僕が軽い気持ちで探った調味料の真実は、あまりにも残酷で悲しいものだった。現代社会の闇が、この悪魔の粉に需要を生み出してしまったのだ。

「まさか、そんな事情があったとは……その先輩の方は、今日は来られてないのですか?」

「ああ、その人は、もう会社をやめちゃいましたよ。うつ病がひどくて、仕事どころじゃなくなっちゃったんですね」

 異様なハイテンションでそう答える。甲高い声が、鼓膜によく響いた。過酷な労働環境に心を削られて、狂ってしまったのだろうか。

「えっと……お話、ありがとうございました。なんというか、頑張ってください」

 僕はそう言うと、そうそうに自分の席へ戻った。これ以上見ていられなかった。

 だが、自分の席に戻った時、カウンターの客は皆、苦悶の表情を浮かべていた。恐る恐る彼らの料理を確認すると、一品残らず、あの調味料がかけられていた。

 この劇薬が眠気覚ましとして、近隣のサラリーマンに大流行しているという狂った事実が、そこにはあった。それに追い打ちをかけるように、奥のテーブル席から、甲高いうめき声が聞こえてきた。あの眼鏡の男だろうか。

「おまたせしましたー」

 女の子が相も変わらずの笑顔で、ハンバーグ定食を運んできた。しかし、その印象は入ってきた時とは全く別のものに変わっていた。僕はその瞬間寒気が止まらなくなり、「用事を思い出したから、このまま帰る」と言って、千円札を二枚カウンターに置き、急いで店を出た。

 店を出てからも、早歩きで駅の方へ向かった。いつの間にか駆け足になっていた。走っているのに、寒気が止まらず、目頭は熱くなり、鼻腔をつくような感覚が走った。

 そのまま、急いで電車に乗り、自宅に戻った。

 それでも、あの眼鏡の男の声や、調味料を口にした客の顔、従業員の子の笑顔が頭に焼き付いて離れない。

冷蔵庫を開けた。ビールが六本入っていた。その六本をその場で、飲み干した。異常なペースでアルコールを摂取したせいか、頭がクラクラする。

思考する余裕をなくし、千鳥足でベッドに倒れこみ、そのまま意識を失った。

翌朝、目覚めると、正午の時間帯になっていた。携帯には会社や上司からの着信履歴が並んでいた。急いで上司に電話し、必死で謝り倒した。

上司は怒るというより、むしろ心配した様子だった。今日はもう休んでいいとのことだったが、僕は謝罪だけでもしようと、会社に向かった。同僚や、人事に対して一人一人謝罪しに行った。怒りを向けてくる者は少なかった。大部分は心配するか、呆れるかのどちらかだった。ここまで次元の低い失態は、十年近い社会人生活でも初めてのことで、しばらくは羞恥心と罪悪感にさいなまれることになった。

しかし、そのおかげであの夜のことを引きずらずに済んだのかもしれない。あの店には二度と行くことはなかった。時々苦悶に満ちたあの情景が頭をよぎるが、時間が経過したせいか、そこまで気分が沈むことはなくなった。

それでも人気のない定食屋を見つけるたび、甲高い悲鳴が聞こえてくるような気がして、気軽に入ることはできなくなっていた。

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調味料 Kuzushi @kuzusiokishita

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