第5話 旅立ち

「私学校辞めます」

 次の日、私は高校を辞めた。

「お前、後悔するぞ」

 先生たちから口々にそう言われた。でも、今の私は、高校を辞める事ではなく、高校に入った事を後悔していた。人生の虚しさに気付いてしまった人間が、学校で学ぶ事なんて初めから何もありはしなかったのだ。それを私は今さら気付いた。高校三年にもなって・・。

 まだ燦燦と明るい午前中のうちに家に帰ると、父が玄関先で豪快に立ち小便をしていた。

「おう」

 父は赤い顔を私に向けた。近所のおばさんが、ゴキブリを見る時以下の目を、そんな父に向けて通り過ぎていく。最近父は二十四時間酔っ払っている。

「オレはやるぞぉ」

 父が叫ぶ。父の口癖だ。結局何もしやしない。私は無視して家に入った。

「私、高校辞めた」

 家に入り、一応母に報告した。

「そう・・」

 完全に魂の抜けた声が帰って来た。母は茶の間に一人座り、今日も呆けたように中空を見つめる。最近、母のごはんは、どんぶりいっぱいの精神薬だった。

 私はかばんを置き、制服を脱いだ。高校を辞めたという実感は無かったが、明日から学校に行かなくてもよいという解放感は感じた。

 私は着替えると直ぐに制服やかばん、教科書などを庭に持っていって燃やした。なんだか今直ぐそうしたい気分だった。

 想像以上に煙が出て、狭い庭からご近所中にもうもうと煙が立ち込めた。隣りの家々からゲホゲホと咳込む音が聞こえ、近所中が何事かとざわざわしだした。でも、気にせず私は鉛筆から教科書から制服から次々に炎の中に放り込んだ。私の学校生活の全ては、きらめく炎を揺らめかせ小気味よく燃えた。それはとても美しく光輝き煌めいていた。

 燃やすものが無くなると、長かった私の髪をハサミでざくざく切って、火の中にどんどん放り込んだ。それもなんだか今直ぐそうしたい気分だった。「支配からの卒業~♪」私の頭の中では尾崎豊の「卒業」が流れていた。

 元少年から、押しつけられたお金も燃やしてしまおうかと思ったが、それはやめた。

 適当にバックに荷物を詰めると、金の入ったアタッシュケースと共に私は立ち上がった。金を元少年に返しに行こうかとも思ったが、あいつの顔は二度と見たくなかった。

「よしっ」

 この金は、どこかの何かで浄化する時まで持っていよう。そう決めた。

「私、旅に出るわ」

 一応母に報告した。

「そう・・」

 また、気の無い返事が返ってきた。母は完全にあっちの世界に行ってしまっていた。そんな母を置いて行く事に少し胸が痛んだ。

 兄のくれたマフラーを持って行くか迷ったが、それは置いて行くことにした。それはまた違う問題のような気がした。

「おい、どこへ行く」

 家を出ると、父はまだ玄関の前でうだうだしていた。

「ここじゃないどこか」

 父の黄色く濁った目は、歩み去る私をヨロヨロと追いかけた。父はもう昔のまじめで誠実な父ではなかった。

「体には気をつけろ~」

 ふいに私の背後で父が叫んだ。それはなぜか少しアントニオ猪木風だった。

 私は振り返り父を見た。

「うん」

 父はやっぱり父だった。再び歩き出した私の胸に、その時初めて堪らない寂しさが込み上げた。

 とりあえず、まだ少し東に傾く太陽に向かって私は歩き出した。その事に対して意味は無かったが、それしかとりあえずの目標が見えなかった。

 一時間も経たないうちに私はしんどさを感じ始めていた。目標も目的もなくただ歩くことが、こんなにしんどいとは思っていなかった。それは、私の人生の新しい発見だった。

 どれくらい歩いただろうか。辺りは暗くなり始めていた。当てなどなかった。この先に、私の人生の救いがあるのかさえ分からなかった。何かの希望があるわけでもなかった。それでも歩いた。それしかなかった。今の私にはそれしかできなかった。だからとにかく歩いた。何をしていいのか分からないままただひたすら歩いた。

 足の裏がだんだん痛くなってきた。運動も部活も何もやっていなかった私は完全に運動不足だった。

「あ~、家に帰りたい」

 なんかもう嫌になってきた。せんべいをかじりながら、ゴロンと横になってテレビを見ていたかった。自分でも情けなくなるほど、初日の数時間でさっそく後悔し始めていた。

 町を外れ、道路脇には田んぼの群れが広がり始めていた。暗くなり心細さも出てきた。今夜泊まるところすらが当てがないのだ。

 その時、突如、私の目の前にコンビニの明かりが煌煌と出現した。その光の真ん中に無防備に自転車が止まっている。鍵は掛かっていない。私はその自転車を凝視した。

 私は盗んだ自転車で走りだした。

「うをぉ~」

 なんだか、全ての悩みが吹っ飛び、全てが好転し始めたような気がした。自転車の滑らかな推進力と風が気持ち良い。このまま世界の果てまで走って行きたい。そんな気分だった。自転車の持ち主には悪いが、私は高校を辞めたのだ。私は自由なのだ。

「そう私は自由なのだ」

 その時、背後で声がした。

「お~い、きみ~、まちなさ~い」

 振り向くと自転車に乗った若い警官が右手を上げ、追いかけて来る。私は迷うことなくペダルにありったけの力を込めた。今の私に止まるという選択肢はない。だが、運動不足の太ももは直ぐにパンパンになった。それでも、私は必死でペダルを漕いで漕いで漕ぎまくった。

 風を切って私はかっ飛んで行く。赤信号などガン無視。三列縦隊の男子高校生の間を突き飛ばして突き進んでゆく。道路の端を走るじいさんの運転するヘロヘロの原付を追い越す。

「捕まえられるものなら捕まえてみろ」

 私を止めるものなど何も無かった。私は尚もペダルを漕いで漕いで漕ぎまくった。「盗んだバイクで走りだす~♪」私の頭の中には尾崎豊の十五の夜が流れていた。

 でも、直ぐ追いつかれた。やはり、毎日自転車を漕いでいる警察官はだてじゃない。

「きみ」

「はい」

 私は、完全に観念していた。こんなとこでこんなことで、私はまた家に戻るのか。あまりに情けない結末に、悲しみすら感じなかった。

「これ落としたよ」

「あっ」

 それは私の財布だった。警察官は良い人だった。私は受け取った財布をしまい再びペダルを漕ぎ走りだした。


 上っても上っても上り坂だった。私は完全に町から離れ、峠道に差し掛かっていた。この峠の上りは一体いつまで続くのだろうか。日はとうの昔に沈み切っていた。外灯はなく車も殆ど通らない全くの暗闇に近かった。道路脇はうっそうとした森で、その先は真っ暗闇。なんだか恐ろしく不気味だった。

 二時間だろうか三時間だろうか、最早ペダルを漕ぐ気力も体力もなくなり、とぼとぼと自転車を押しながら、いつ果てるとも知れぬ上り坂を一人上り続けていた。

 その時、ふと、突然、なんだか急にすべてがばかばかしくなって私は自転車を投げ出しその場に座り込んだ。

「はあ~」

 私はその場で大きくため息をついた。

「母さん・・」

 私は堪らなく寂しくなった。不安も溢れてくる。私は早くも自分が今日したことの全てを後悔し始めていた。みんなと同じように普通に要領よく流れに乗って惰性に生きていればよかった。

「後悔するぞ」

 先生たちの言葉が頭に浮かぶ。

「後悔したよ」

 先生の言うとおりだった。

「ちくしょうー」

 私は闇に叫んだ。早速後悔している自分に、なんだか涙まで出て来た。

「後悔したよ。くそぉ」

 なんでこんななんだ私は。自分が呪わしかった。私はその場に倒れ込んだ。どっと今までの疲労が全身を包む。

「ふー」

 でも、その疲労感が今の心境に反して妙に心地よかった。

 夜空を見上げる。夜空に輝く満月が美しかった。夜風が熱した体に気持ち良い。なんかもうこのままどうなってもよいような気がした。

「死んだろうかな」

 ふと、何気に私は呟いた。それは、なんとなしに口をついた言葉だった。

 闇に包まれた影のような山々はとても静かだった。無量に輝く星空も静かだった。自分の呼吸する音だけがそこにあった。

「あれ?」

 しばらくしてふと右を向くと、その先の遠い闇の中に一点の明かりが見えた。

「こんな山奥に?」

 私はなぜか、自転車をおっぽりだしてその明りに向かって歩き出していた。

 辿り着いたその明りはお寺だった。日本昔話に出てくるような苔むしたボロボロのお寺だった。妖怪とか普通に出てきそうだった。当たり前みたいに、「よっ」とか言って出てきそうだった。でも、私は疲れ切っていた。

 私は玄関脇の小さなボタンのようなチャイムを押した。しかし、何度押してもスカスカで全く手応えがなかった。チャイムは壊れていた。しかし、ガラガラとガラスの開き戸が開き、お坊さんは出て来た。

 真っ黒く日焼けした年齢不詳の目が、私を射るように見つめる。

「どうして分かったんですか」

「匂いだね」

 その目がぎらりと光った。

「家出をしてきたんです」

「じゃあ、ここにしばらくいなさい」

 私は寺女になった。

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