第4話 対峙

 ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ちゃぶ台が揺れている。それに連動して、そこに乗っている茶碗やお皿がガチャガチャとなり響き、その上で芋の煮っころがしがコロコロと踊った。私の怒りはもう心の内だけに押しとどめる事ができなくなっていた。

「あのう、ご飯が食べられないんだけど・・」

 私の向かいに座っていた母が、か細い声で言った。

「うるさい」

「ひっ」

 母は小さくなって、手に持った茶碗からご飯をちょぼちょぼと口に運んだ。居間の片隅で飲んだくれて寝ていた父がアホ面を起こして、何が起こったのかキョロキョロ辺りを見回した。

「ちっくしょー、ちっくしょー」

 ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、ちゃぶ台はさらに激しく揺れた。


「よしっ」

 私は決めた。

「ふ、双子石くん、ど、どうしたの?」

 授業の真っ最中、突然立ち上がった私に、以前私にチョークを投げ返された若い国語教師がおずおずと声を掛ける。私はそれを無視して、そのままつかつかと規則正しいリズムで後ろの扉から教室を出て行った。

「・・・」

 教室にいた全員、茫然とそんな私を見送った。

「なんて、気分の良い陽気なんだろう」

 学校を出ると、人々を幸せに包み込むように太陽の温かさがサンサンと降り注ぎ、空は気持ちよくまっさらに晴れ渡っていた。私はそんな幸福に満ち満ちた青空を見上げた。

 今日も私じゃない世界だけが、幸福だった。


 突然事務所に現われた私を見て元少年は少し驚いた表情をしたが、すぐに元の落ち着いた表情に戻った。

「家族の方ですね」

「はい」

 元少年はすぐにすべてを察したのだろう。冷静に私にそう言った。

「いつかこういう日が来ると思っていました」

 元少年は私の予想に反して落ち着いていた。

「そこにお座りください」

 元少年はソファーセットを手で差し示した。私は、高級そうな真っ黒いふかふかのソファーの真ん中に座った。元少年も私の向かいのソファーに座った。

 そこに、真っ赤なスーツを着た秘書の女がお茶を運んできた。恐ろしいほどの美人だった。

「どうぞ」

 お茶が静かに私の前に置かれた。秘書の女も落ち着いていた。私はなぜかその事に腹が立った。

「よくここが分かりましたね」

 元少年が最初に口を開いた。

「あなたはとても不幸な境遇に育った」

 私は元少年の言葉を制するように無視して、しっかりと元少年を見据え言った。

「私の事を調べたんですね」

 元少年は力を抜き、目をつぶるとソファーの背にゆっくりと背をもたせかけた。

「そして、父親はあなたを虐待した」

「・・・」

 元少年は何も言わなかった。

「そして、同じく父親から暴力を受けていた母親は自殺した」

「・・・」

「家も貧しかった」

 元少年は黙ったままだった。

「そして、あな・・」

「ある日」

「?」

「ある日、おやじにハンガーで殴られたんです」

 元少年は、突然、私の言葉をさえぎり、目を開けた。

「ハンガー?」

「そう、あの百均で売ってるようなやわいやつじゃないですよ。木で出来たもっとこう堅いしっかりしたやつです」

 元少年は上体を起こして、乗り出すようにその顔を私に向けた。

「相当強く殴ったからでしょうねぇ、殴った拍子に木で出来たカバーがぶっ飛んで、針金の部分が私の頭のてっぺんに突き刺さりましてね」

 元少年はなぜかそこで噴き出すように少し笑った。

「血が出たんです。頭のてっぺんからこう、ぴゅーっとね。血が噴水みたいに」

 元少年は手で頭から血が吹き出る様子をジェスチャーしながら、溢れる笑いを必死で噛み殺した。

「血がぴゅーっとね。噴水みたいに勢いよく吹き出るんです。ほんとにこう、ぴゅーっとね」

 元少年は自分で話しながら、遂にこらえきれなくなって笑い出した。

「その時、私は自分で自分の様子を鏡で見たんです」

元少年の笑いはさらに勢いを増した。

「それが、おかしくておかしくて」

 元少年は、笑い過ぎて涙目になった目を指で必死にこすりながら苦しそうに言った。

「こう、ぴゅーっと勢いよく出るんですよ。笑ってる場合じゃないんだけど、なぜかおかしくてね。で、笑うとまた勢いよく出るんですよ。こう、ぴゅーっと、それがまたおかしいんです」

 元少年はひたすら血が出る様子をジェスチャーしながら、再び一人狂ったように笑い続けた。

「客観的に見たら、ほんと悲惨な状況なんですけど、おかしくておかしくて一人で血をぴゅーぴゅー出しながら、笑い転げてました」

 元少年は涙目をこすりながら一人で笑い続ける。

「・・・」

 私は何も言えず、ただ黙って、そんな元少年を向かいのソファーで見つめていた。

「ふぅ~」

 ひとしきり笑うと、元少年は苦しそうに大きな息を吐き、ゆっくりと天井を見上げた。そこで一瞬の静寂が生まれた。

「私には弟がいたんです」

 元少年が静寂を切り裂くように再び口を開いた。そして、元少年は未だ湧き起こる笑いを打ち消すため、もう一度そこで大きな息を吐いた。

「あいつがね」

 そこで元少年の声のトーンが急に落ちた。

「プリンが食べたいって言ったんですよ」

「プリン?」

「そう、プリンです。母がね。母がまだ家にいた頃。風邪をひくと買ってきてくれるんです。普段そんなもの絶対食べさせてはもらえないんです。お菓子とかそういったものなんか、絶対に買ってはもらえなかった。家は三食まともに食べることも出来ないほど貧しかったんです。でも、風邪をひいた時だけ、何かあった時だけ、特別に買ってきてくれるんです。それが子供としては無上の楽しみなんです」

 嫌な予感がして、私は何かをしゃべらなければと思ったが言葉が出なかった。

「あの日、弟はそれが食べたいと言った」

 元少年は絞り出すように言った。

「弟は苦しそうだった」

 元少年は顔を歪めた。

「私は必死だった」

 私は何かを必死でしゃべろうとしたが、やはり何も言葉に出来なかった。頭が痺れて失語症になったみたいだった。

「どうしても、プリンが必要だった」

 そこで元少年は頭を抱えた。私は必死で何かをしゃべろうと思ったが、どうしても言葉が出なかった。何か得体のしれない恐怖が私を包んだ。

「弟は死にました」

「そんなの関係ない」

 私はとっさに元少年の言葉を遮り叫んだ。叫び声を聞いて、秘書の女が何事かとドアを開けた。気付くと私は立ち上がっていた。

「なんでもない」

 元少年が秘書の女に言った。秘書の女は不審げに私を睨むように見つめながら、ゆっくりと静かにドアを閉めた。

「そんなの関係ない」

 私はもう一度叫んだ。

「あなたの不幸なんて、私に関係ない」

 私は何かを打ち消すようにさらに叫んだ。私の口元からねっとりとしたよだれが流れ落ちた。

「私はあなたが不幸であって欲しかった」

 私の声は震えていた。ちょっとした何かで、ほんのちょっとした何かで、すぐにでも私は泣いてしまいそうだった。

「惨めであってほしかった・・」

 元少年は肘を膝に置き、うつむき、何の抵抗も無く静かに私の叫びを聞いていた。

「立ち直ってなどいないでほしかった。悪い人間であり続けて欲しかった。社会のゴミであって欲しかった・・」

「・・・」

「そして、そうであると思っていた・・、だから・・、だから・・」

「・・・」

 元少年は魂が抜けたみたいに、微動だにしなかった。

「でも、あなたは更生してしまった・・・」

 部屋の中は、全てが静かだった。そこだけ世界から切り取られたみたいに静かだった。

「わたしはあなたが許せない」

 地獄の底から叫ぶように私は叫んだ。私の心は鬼のように燃えていた。

「私はあなたが許せない」

「私にどうしろと言うんです」

 私がもう一度叫ぶのと同時に、元少年は突然激昂し、机を思いっきり叩いた。

「しょうがないじゃないか。こうなってしまったんだから」

 全身を震わせ元少年が言った。

「しょうがないじゃないか・・」

「・・・」

 しょうがない?しょうがない?その言葉が私の頭の中でリフレインし、私の思考はフリーズした。しょうがない?

 私の全身は思考とともにフリーズし、その場に立ち尽くしたまま固まった。

「しょうがない・・?」

 すると、そんな固まる私を置いて、元少年はおもむろに黙って立ち上がると、小さなアタッシュケースを持ってきた。

「ここに一億あります」

 開かれたアタッシュケースには札束がびっしりと詰まっていた。それを元少年は、固まる私の胸に押しつけるように無理矢理持たせた。

「私だって苦しんだんだ」

 その後、最後に元少年がそう言ったことだけは覚えていた――。


 私は元少年に持たされたアタッシュケースを胸に抱え、呆けたようによろよろと歩いていた。どうやって元少年の事務所から出てきたのか、どうやってここまで歩いてきたのか思い出せなかった。ただ私は、気付くとアスファルトの上を彷徨うように歩いていた。

 歩きながら私は堪らえきれなくなって泣いた。惨めだった。堪らなく惨めだった。行き交う人たちがみんな泣いている私を振り返るのを感じた。でもそんな事はどうでもよかった。悔しかった。悔しくて悔しくて堪らなかった。元少年に対してではない。自分を取り巻くどうしようもない、どうする事も出来ない何か、巨大な抗いえない強大な何かが、悔しくて悔しくて堪らなかった。どうして私はこの私なのだろうか。どうして私はこの私という私を生きなければならないのか。なんで私の人生はこんななんだ。叫び出したいほど悔しくて、悔しくて、でも、やり場のない怒りがまたねじれ逆巻き私に戻って来る。

 私は通りがかった河川敷の土手に座り込み泣いた。泣いて泣いて泣き潰した。私は私という絶望を生きなければならない。私は私という孤独を生き続けなければならない。私は泣いて泣いて泣き崩れた。


 泣き疲れて、ふと顔を上げると、目の前でバカでかい夕日が真っ赤に燃えていた。その下でガキんちょたちがコロコロと遊んでいる。

「・・・」

 今日も私じゃない世界だけがのどかだった。

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