第2話 クレープ
「あっ、もう縁日なんだ」
道路脇にびっしりと露店が並んでいる。学校帰りの何の変哲もないいつもの道が、なんだか華やいだ感じがする。小さい頃は縁日に行くのがとても楽しみだった。
泣いている兄の顔が浮かぶ。兄は泣きながら友だちの為に、必死でいくつも年上の不良に立ち向かっていた。大して仲も良くない子なのに、兄はその子の前に立った。その時、兄の同級生は周囲にたくさんいた。しかし、誰もがただ見ているだけだった。前に出て行ったのは兄一人きりだった。
「お兄ちゃんが殺されちゃうお兄ちゃんが殺されちゃう」私は怖くて怖くて、ただそれを見ながら震えていた。だが、そんな私の背後で、縁日の楽しげな音楽がピーヒョロ、ピーヒョロ陽気に鳴っていた。
その後、たまたま通りかかった学校の先生が間に入り、逃げるように不良はどこかへ行ってしまったが、泣いている兄の下に走り寄った時、私の足はまだ震えていた。
中学の時、兄は生徒会長に選ばれた。今思えばそれはあの事があったからかもしれない。あの事件はみんなが見ていた。
「あっ、クレープだ」
クレープの露店が懐かしさと共に何とも言えない甘い香りを漂わせていた。
「食べたいのか?」
クレープの露店の前に群がる人たちを食い入るように見ていた幼い私に兄はそう訊いた。クレープは一番安いもので一つ六百円もした。子供には高値の花だ。
「うん」
私は小さく頷いた。兄は私の手を取りクレープの屋台の前に並んだ。
「ほら」
私は兄の手から受け取ったクレープの端を恐る恐る口に入れた。何とも言えない甘さと感動が口の中に広がる。
「うまいか」
「うん」
自然と笑みが漏れた。兄が買ってきてくれたのは一番安い果物とか何も入ってないやつだった。
「お兄ちゃんも」
私はクレープを持つ手を兄の方に上げた。
「俺はいい。お前が全部食べろ」
兄の当時のお小遣いは月五百円位だったと思う。六百円という額が、当時どれほど大金だったか・・。
「すみません。ひとつ下さい。いちごのやつ」
私はクレープの屋台の前に一人立った。
「はいよ。いちごね」
見た目とは裏腹に、屋台のお兄さんは愛想よく答える。
丸い専用の鉄板の上で、器用に薄くきれいに伸ばされていくクレープの生地を見ながら、私の目には涙が溜まっていった。
「・・・」
クレープを手に持ちながら、再び一人帰り道をとぼとぼと歩く。
きゃぴきゃぴと同い年くらいの女子高生たちが楽しそうに私の前を歩いている。その後ろを、一人気配を消して歩く私。こんな世の中で何がそんなに楽しいのか、女子高生たちはガスタンクが爆発したみたいにやたらと笑い合う。そんな青春もあるのか。私は今までそんなこと想像すらしていなかった。
「青春の無駄遣い」
クレープを食べながら私はふとつぶやいた。
青春の無駄遣い。誰の言葉だったろうか。今の私にぴったりの言葉だ。
「天皇陛下ばんざ~い」
そう言って死んでいった青春もあった。青春は無駄だらけだ。
「・・・」
襖を開けると、勉強している兄が普通にそこにいそうな気がした。兄の部屋は今も当時のままだ。
お葬式が終わった後、部屋を片づけようとする父に断固として母は孟反対した。
「あの子はまた帰ってくる。絶対帰って来る」
母はそう言って泣き崩れた。
勉強机は、両親が新しいのを買ってやろうかと言うのを断り、小さい時に買ってもらったものを高校になっても使っていた。大きな体をビックリマンシールを貼った小学生用の小さな机に押し込んでいる姿が何ともかわいらしかった。
「そんなに笑うな」
兄は私がそんな兄の姿を笑うと、いつも照れたように言った。
幼い頃、私は用も無いのによく兄の部屋に行き、勉強している兄の後ろで遊んでいた。テレビのある居間にいるよりも、なぜか兄の側にいる方が落ち着いた。
「お兄ちゃんは弁護士になりたいんだ」
ある時、勉強に疲れた兄がベッドにゴロンとその巨体を横にして言った。
「弁護士?」
その時、幼い私は弁護士がなんなのか知らなかった。
「うん、お兄ちゃんは困っている人たちを助ける仕事がしたいんだ」
そう言って恥ずかしそうに笑った顔が今でも忘れられない。
「何してるの」
鋭い声に驚いて振り返ると、母が恐ろしい形相で私の背後に立っていた。
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