神様は明後日帰る 第1章(旅立ち篇)
ロッドユール
第1話 命の値段
私の兄は時給八百円で死んだ。
コンビニでバイトをしていた兄は、万引きをした少年を追いかけ、ナイフで刺され死んだ。少年は十五歳だった。
大学生だった兄は両親に気を使い、両親が仕送りすると言ったのを断り、バイトをして生活費を捻出していた。兄はそういう人だった。しかし、父と母はその事を悔やんだ。ひたすら悔やんだ。母はなんとかという神様を拝みだし、父は酒に溺れた。
兄はそのバイトの最初のお給料で、私にマフラーを買ってくれた。兄はそんな人だった。同じバイトの女子高生に訊いて買ったのだそうだ。当時はやりのチェック柄のマフラーだった。
「これが今は良いそうだよ」
兄は照れながら、そう言って私の首にそのマフラーをかけてくれた。
「こんにちは~」
今日も近所の山田さんがうちにやって来た。ぶよぶよの分厚い唇は、今日もこれでもかと真っ赤に塗りたくられている。
「双子石さん、聞いて聞いて」
無遠慮なその巨体が、遠慮会釈なくドシドシと私の家に上がり込んでくる。
「龍善様がまたこの町に起こしくださるそうよ」
教祖様の話しをする時、いつも山田さんの突き出すようなバカでかい目玉は、瞳孔もろともランランと恍惚に輝いていた。
「双子石さん、会ってみない?龍善様の霊力はそれはそれはすごいのよ」
母は小さく頷く。最近、母はもう完全に生気を失っていた。目に力はなく、生きる力そのものを全身で失っていた。
テレビでは今、海外に派遣される自衛隊の死亡保障が一億だか二億だとか言って騒いでいる。私はせんべいをバリバリと噛み砕きながらテレビを消した。
和の微分は、微分の和に等しく、実数倍の微分は、微分の実数倍に等しい事そのものが、私のこれから生きていく人生そのものにどう関係するのか私には理解できなかった。だから、私は学校が退屈だった。
限定された価値観の中で形成されたヒエラルキーを信奉するほど、私はうぶでもなかった。だから私はクラスで浮いていた。
そんな私のあだ名はブッダだった。
戦争中、兵隊さんは一銭五厘で死んでいった。
社会科のゴリマツが口角砲を飛ばし、お昼前のけだるい四時限目、先の戦争を熱弁している。その熱量に反比例して教室は冷めていた。私たちの世代にとって戦争はリアリティーの無い、遠い外国の遠い昔話しでしかなかった。
私は窓の外を眺めた。教室の外は別の世界のように輝き、その空は完璧に晴れ渡っていた。
―――「えい、えい、やあー」
人々は竹やりで空を突く。その日も、見事な快晴だった。
「えい、えい、やあー」
みんな必死でその美しい晴れやかな空を突く。
「そんなんじゃ、B二十九はおろか雀すら落とせんぞ」
地元の古参兵が叫ぶ。
「えい、えい、やあー」
人々はさらに力を込め、握りしめた竹やりで空を突く。
「えい、えい、やあー」
美しい子供たちの汗が、竹やりを突くたびに辺りに飛び散る。
「えい、えい、やあー」
みんな必死で竹やりで空を突く。渾身の力を込めて。いつか来るB二十九を、その晴れ渡る空に見て。
反対側の校舎の上で、ドバトがとぼけたアホ面をカクカクさせて歩いている。いつの間に出来たのか、広大な青い空に膨大な白い雲が、ほわほわと呑気に流れていく。今日も私じゃない世界だけがのどかだった。
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