3-5:To Get Lost -離れ離れ-

 「――っ!」


 強い衝撃と同時に視界が奪われた。

 もみくちゃにされて上下も左右もわからなくなったけれど、激しい痛みというよりは鈍い痛みが僅かにあるだけだった。咄嗟に唱えた防御魔法はどうやら無事に発動したみたい。

 真っ暗な視界の中で、とにかく硬い何かに包まれたままどこかへ移動していることだけは分かる。

 ごうごうという音や、木の枝がめきめきと折れる音を耳にしながら、あの時とっさに魔法を発動していなかったら……と考えてぞっとしていると、背中に勢い良く硬いものが当たる。

 パキンという音が、私を守っていた魔法が耐えられなくなったことを知らせる。

 一瞬、背中に当たったものの衝撃で呼吸が止まり、そのまま空中に放り出された私は一面銀色に輝く視界に目を奪われた。

 慌てて息を吸って、それから自分が落ちていく先を確かめる。

 足下に広がっているのは雪……さっき踏んだ限りでは柔らかいものだから、もしかしたらクッションになる?

 そう思ったけれど、すぐにそんな甘い考えをあらためた。

 ゴツゴツした岩が顔をのぞかせているし、雪というよりも氷といった方が適切な地面は、防御魔法で守られているとは言えこのまま当たったら流石にただではすまなそうだ。


「ええと……こういうときは」


 何故だかわからないけれど、さっきはツルを操る魔法は失敗してしまった。普段ならカティーアが来てなんとかしてくれるけれど……。

 唇を噛みしめて、昨晩のやりとりを振り払う。

 結界を幾重にもするみたいな器用な真似は出来ない。どうか成功しますように……と祈りながら、私は体を丸めて帽子と毛皮の外套に硬化魔法をかけた。

 チリチリと指先が燃えるように熱い。キィンと耳鳴りなのか魔法が成功した音なのかわからない音がして、私の体が落下を止めた。


「いてて……。これなら上出来、かな」


 薄氷を割ったような音が響き、私は膝についた雪を払いながら立ち上がる。

 硬化魔法はうまくできたみたい。山肌に多少触れたけれど、擦り傷が頬と膝に少し出来ただけですんだ。

 こういうとき、真っ先に念話テレパスが来るはずだけれど……。


(カティーア、いませんか? 聞こえたら返事をください。カティーア…)


 何度も呼びかけてみる。それから、更に耳を澄ませて見るけど、聞こえるのは風の音だけだった。

 念話テレパスの範囲が狭まっているのは本当みたい……。


 どうカティーアと合流しようか悩みながら、私は目の前にそびえ立っている壁のような崖を見上げた。多分さっきはここから落ちたんだと思うけれど。


「謝るタイミング、逃しちゃったな」


 誰に言うでも無く、小さく声を漏らす。

 それから、もう一度、切り立っている崖の壁を見つめた。

 セルセラと一つになったことで、魔法を使えるようになった。それに……以前よりも身体能力が増したような気もする。

 だけど流石に、こんな断崖絶壁は一人で登れそうもない。

 ツルの魔法で体を支えながら登ろうとも考えたけれど……崖に生やしたツルはすぐにしおしおとしぼんで消えてしまった。


「あんなことがあったけれど……きっと、探してくれているよね」


 自分に言い聞かせるように、そう呟く。

 きっと、きっと探してくれている。だって、喧嘩をしたとしても、あの人は私のことを置いていったりはしなかったから。

 でも、どうすればいいのかはわからない。ここにいた方がいいのかな? 荷物も無いまま知らない場所をうろつくのは危険かもしれないし。


 私だって少しは成長したと思っていたけれど、こうして一人になって思い知る。どれだけカティーアに守られて、そして、彼に頼りきりだったのかということを。

 冷たくて頬を刺すような冷たさの風が頬を撫でるけれど、外套と帽子のお陰でそこまで寒くはない。

 とりあえず座って待っていようかな。体力は温存しておいた方がいいと思うから。


「なんだろう」


 岩陰へ向かおうとして、何か音が耳に入って立ち止まる。

 声かな? 風の音じゃない。鳴き声?

 耳を済ませて、音のする方へ耳を向ける。


「ォオオオーン」


 狼だ。

 こんな時に獣に出会ってしまうなんて。開けている場所にいるけれど、でも少し遠くには深い森が見える。

 狼の遠吠えは、最初の鳴き声に釣られるように何度もコダマのように響いて聞こえてくる。


「一匹ならなんとかなるかもしれないけど……」


 魔物や魔獣じゃないなら、勝機はある。けれど……一人きりで戦ったことなんて無い。

 防御魔法を使う? ツルが使えない今、それしか方法は無い。でも、身を守ったとして……魔力切れになるまで狼に粘られたらどうしよう?

 カティーアが助けに来てくれるのを待つ?


 迷っている間に、狼たちの気配と足音はどんどん近付いてくる。

 僅かにふるえる手を、ベルトにぶら下げている短剣に添えた。

 背後から襲われるのが一番危険だから……と、崖を背にして森を睨み付けた。


「ウォンウォン」


 大きな鳴き声と共に、茂みからいくつかの影が飛び出してくる。

 灰色がかった白い毛皮の六匹の狼たちは、私が思っていたよりも遥かに体が大きかった。


「魔獣? 私はあなたたちを狩りに来たわけじゃないの」


 短剣を抜いて、両手で持ち、狼たちに向き合う。あまりの大きさにもしかして魔獣かと思って話しかけてみたけれど、言葉が通じているようには思えない。

 武器を持っている私を警戒しているのか、狼たちは頭を低くしながら、唸り声を上げてこちらへにじり寄ってくる。

 よく見かけていた灰色狼とは全く別種の狼……まるで羊のような大きさをした六匹の狼たちは半円状の陣形で私を取り囲んでいる。


「……どうしよう」


 逃げる隙があるなら一瞬だ。

 どこから逃げよう……逃げたとして……この大きな狼たちよりも私は速く走れるの?

 狼に追いつかれ、喉笛に噛みつかれる様子を思い浮かべてしまい、足が竦む。

 前進してくる狼から距離を取ろうとしているうちに、背中に岩壁があたり小さく「ひ」と声が漏れる。

 

 緊張して、暑さのせいではない汗が体をびっしょりと濡らしている。

 ……カティーアといれば安全だった。だから、自分より強い複数の敵に対して自分がどのタイミングで攻撃すればいいかも、逃げ方もわからない。

 セルセラの記憶もあるけれど、彼女の得意な魔法は何故か調子が悪いし、それに、カティーアがいてこその立ち回りだった。

 相手を足止めすれば、カティーアがトドメを刺してくれるから……肉弾戦で獣を相手にして逃げ切るなんて方法はわからない。

 命の危機――。

 死ぬかもしれないと実感すると、頭の真ん中が冷えていくような気持ちになる。唇を噛みしめるけど、震えがとまらなくて歯がカチカチと音を鳴らす。

 狼達の唸り声が大きくなる。彼らは姿勢を低くしてジリジリと包囲の輪を狭めてにじり寄ってきている。


「ただではやられないから……」


 狼達にいつ飛びかかられてもいいように、覚悟を決めたときだった。


――ドサッ。


 すぐ近くに何かが起きた。

 思わず、狼から目を逸らして、音の方向へ目を向ける。


「え」


 私のすぐ隣に、狼たちと同じ色をしたなにかが現れていた。

 まさか崖上からの奇襲? あんなに高いところから? それよりも、ただの獣がこんな高度な作戦をしてくるなんて……。

 咄嗟に、短刀を落ちてきた方の狼へ向けようとした。


「落ち着けよ」


 私の手首をそっと握ったのは、ヒトの手だった。見上げるほど背の高い、狼色の毛皮を纏っている人間だ。

 顔を見る前に、その人は一歩前に出て私に背を向けたまま、狼たちと向かい合う。

 カティーアよりも一回りほど大きなその背中の持ち主は、小型の斧を器用に操ってこちらに飛びかかってきた一匹の狼の頭を打ち砕いた。

 呆気にとられて手助けをする暇もないまま、次々に襲ってくる狼を一匹、また一匹と身を躱しながら的確に頭を打ち砕いていく。

 頭を潰された仲間を見た残りの狼たちは、勝ち目がないと思ったのかあっという間に雪景色の彼方へ姿を消してしまった。


「見ない顔だな」


 狼たちが立ち去ったのを見送った大きな男は、振り向くと私の顔を覗き込むようにかがみ込んだ。


「こんな辺鄙へんぴなところで観光? ってそんなわけねぇか。唯一の通行路も今年はまだ雪と氷でふさがっちまってるしな」


 深くかぶってるフードのせいで見えにくかった顔は、彼が屈み込んでくれたおかげで良くみえる。

 私よりも少し赤みが強い褐色の肌、それに優しそうな金色の瞳が印象的な人だった。フードでほとんど隠れているけれど、よく見ると薄紫色をした柔らかそうな細い髪の毛がちらりと額に張り付いている。

 見たことがない髪色だけれど、とっても綺麗だなって思った。

 私を助けてくれたし悪い人では……ないよね。


「助けてくれてありがとうございます」


「ああ、気にしなくていい。一人か?」


「えーっと……その……し、師匠! 師匠と離れてしまってどうすればいいのかわからず困っていました」


 カティーアのことをどういえばいいかわからなくて、とりあえず師匠と誤魔化して、一人では無いことを伝えた。

 本当のことをいっても面倒なことになるだろうし……恋人……なのかはよくわからないし……。

 目の前にいる彼は、そんな私の答えを聞いてから、姿勢を正してこちらの全身をさっと見て顎に手を当てて考えるような仕草をして見せた。


「へぇ……あんたみたいなちっこい女が旅をねぇ……」


 怪しまれちゃったかな。それでも、彼からはあまり敵意にようなものは感じない。

 さらに言い訳を重ねるべきか考えていると、彼はニカッと歯を見せて笑って肩に担いでいた斧を雪に突き刺して、それに寄りかかる。


「まぁどの旅人でも商人でも行くとこは一つだ。村に行けばその師匠とやらとも会えるさ。……その師匠ってのが野垂れ死にでもしなけりゃの話だけど」


「村……?」


 驚いたような表情を浮かべてしまった私に、彼も同じく驚いたような表情を返してくる。


「村があることもしらずに、こんなところに来たのか?」


「その……遺跡とか廃村だとばかり。ごめんなさい」


「はは。気にすんな。外側から来たやつらはこんな年中寒いところに村があるって信じられないだろうし」


 謝って頭を下げた私の肩を、ぽんぽんと大きな手が叩く。

 顔を上げると、彼は朗らかに笑っていた。太陽みたいな人だな……なんて思いながら、私は話を続ける彼の言葉に耳を傾ける。


封じられた炎がある村ケトム・ショーラ。聞いたことないか?」


「村があることは、確かに聞いていたのですが、名前までは……」


「なんでも神話の時代に、聖なる火の狼が封じられた土地ってことらしい。……の割には辺り一面雪と氷と森しかねーけどな」


 口調は最初こそちょっと怖かったけど、柔らかいその表情と優しげな声は、さっきまで狼を相手にして勇ましく戦っていた人物と同一人物だと思えない。

 形の良い唇の両端を持ち上げてニッと笑ってみせる彼につられて私も、笑みを返す。

 久々になんのもやもやも感じないまま笑った気がして、なんだか心の底にあった泥みたいなものが少し減った気がした。


「すごい由来があるんですね。その……聖なる火の狼って伝説は、あなたの村の守護神かなにかなんですか?」


 そういえば、ランセの村を守っている大きな亀の神獣も「カティーアの父親は炎を司る狼」だなんて言っていた。

 多分、村に行ければここで待つよりも安全にカティーアと合流できるとは思う。

 カティーアは野垂れ死になんて絶対にしないし……私は荷物も、手がかりの地図が入っている石も持っていない。

 ここで待つよりは、村に行った方がいいのかな。どの方向に村があるのかだけ、聞けたらいいんだけど。


「まぁ、な。村に着いたら教えてやるよ」


「え?」


 あまりにも自分にとって都合の良い彼の言葉に、思わず間抜けな声を出してしまう。

 狼から助けて貰っただけではなく、目的地まで連れて行ってくれるなんて……。足手まといにならないだろうか……と、カティーアと離れたときのことを思い出して不安になる。


「突っ立てないで一緒に来いよ。手ぶらみたいだし、あんた一人で村にたどり着くのはまず無理だろ?」


 彼は、私が戸惑っている様子を見て、怪訝なものを見るかのように眉を寄せ、僅かに首をかしげる。

 確かに、ここで迷っていても仕方が無い。彼の好意に甘えることにしよう。


「ありがとうございます」


 分厚い皮手袋に包まれた大きな彼の手に、そっと自分の手を添えた。

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