第1話 放課後の生き物たち
どうして僕は、こんなにも弱いのだろう。と心の中で嘆きながら、自分の臆病さを憎む<ミクサ ユウ>の午後4時は、校舎の埃くささと鋭利な寒さに包まれていた。
陽は、傾きかけミクサの頬をオレンジ色に染める。病的に白い肌には丁度良かった。だが、今日、ミクサの頬がオレンジ色に染まるべき場所は教室ではない。
塾、図書館、または誰からも邪魔されない静かな自室……とにかく、土曜日の教室でないことだけは確かだった。
土曜日という休日を無駄にしてまで登校している理由は酷いものだ。
陽気なキャラという理由だけで選ばれた委員長からの「どうせ、勉強しかしないんだろ? 俺の代わりに奉仕活動行って来いよ」という言葉だけ。
きっと、周りの人からしたら委員長が悪いと思うだろう。
だが、ミクサ自身は、どうしようもなく自分を責めていた――嫌われることを恐れる自分の臆病さを責めていたのだ。
「早く、帰ろ」
そう呟いて、リュックから英単語張を取り出し背負ったとき、ズボンのポケットに入っているスマホから、軽快な電子音が鳴る。
画面を見ると数少ない女友達……いや、唯一の女友達である<ミナベ アオイ>からのメッセージだった。
内容は、とても簡単なものだ。顔文字も女子高生特有の言葉もなく、質素な角ゴシック体で『今から美術室に来て』の一言。
ミクサは『わかった』と返信しようとしたが、送信を押す手前で指は止まった。
返信をすぐに出してしまったら、もしかしたら、ミナベに気持ち悪がられるのではないか。それだけじゃない、彼女とのトーク画面を監視していると思われるのではないか。その気持ち悪さをネタに、クラス中の奴らから笑われるのではないか……果てしない妄想の末、返信を押したのは二十分後。美術室に向かったのは、さらに十分経過してからだった。
ミクサの教室があるのは一階。美術室があるのは、さらに二階上階の三階にある。
階段を上る足が重かった。届いたメッセージを見てから、彼女を三十分も待たせてしまっている。これは、嫌われる理由には十分すぎる。
二階へ辿り着く。やはり、人の姿はなくフロア全体が、鮮やかなオレンジに染められ、各教室から長い影が伸びている。
三階へ辿り着く。このフロアは、一階や二階とは少しだけ違っていた。オレンジ色に染められていることに変わりはないが、漂う匂いが画材の匂いだ。
油絵具やアクリル絵の具のクラリとする甘い匂い。
キャンバスやスケッチブックの紙の匂い。
ミクサは、それらの匂いが嫌いではなかった。絵具やスケッチブックに嫌われる理由はない。破いてしまおうが、全ての色を混ぜで黒にしてしまおうが、嫌われる理由にはならないのだ。
美術室の引き戸は、固く閉ざされているように感じた。でも、手をかけて少しだけ引くと、軽く開かれる。
最後に、彼女に嫌われてしまわないよう願いながら意を決して扉を開ける。
冷たい空気が、一気にミクサへと吹き付ける。美術室の中で、大きくカーテンが揺れていた。窓を開けっぱなしにしているのだろう。
風が止み、カーテンの揺れが収まるとミクサは目を疑った。
だって、鮮血で汚れたセーラー服で血の水溜まりに座り、虚ろな目を開いたまま壁に寄りかかる彼女の死体があったのだ。
「うわああああああああ!」
午後4時30分の校舎には、少年の叫び声が虚しく響いていた。
* 同時刻 <アマガ ナオ> <エツラ シュウ>
この高校の校庭は、校舎の建っている敷地から10メートルほど階段を下った先にある。<アマガ ナオ>は、火照った体に吹き付ける冬の風に心地よさを感じながら、階段の一番上に腰かけ、校庭を走るサッカー部の後輩たちを眺めている。そんな午後4時だ。
サッカー部は当の昔に辞めている。夏の最後の大会で負けてしまえば、高校三年生は受験勉強へと移行し、サッカーからは疎遠になる。
アマガだって、そんな高校三年生の一人だ。だが、勉強なんてする気になれず、貴重な休日に、部活に顔を出し後輩たちと部活をして汗を流した。
後輩が、奢ってくれたスポーツドリンクを喉に流し込んで飲み干してから立ち上がる。帰ろうかと思い、校門へ足を進めていると見覚えのある人影が向こうから歩いてきた。
「シュウ!」
向かいから歩いてくる<エツラ シュウ>は、ヘッドフォンをしているせいか反応がない。ズボンのポケットに手を入れ、俯いて歩いているからアマガの姿も視界に入らない。
アマガは、走り寄って正面を向いている頭を叩く。
「いたっ! くそったれが、ぶん殴って……なんだ、アマガか」
エツラは、口が悪い。クラスメイトにも教員にも生意気な口を聞き、すぐに上げ足を取るような言動に走る。だから、周りからは嫌われるというより、避けられていた。
「どうしたんだ? 土曜日に登校なんて珍しいな」
「まぁな。 ちっと、用事あるんだ」
ヘッドフォンを外し、リュックにしまいながら答える。
感情の移行は終わったようだ。少し離れた位置についている細目を緩ませながら、今は笑っている。
だが、エツラが笑顔を向けるのは、決まった三人だけだ。
その一人が<アマガ ナオ>。頭を叩いたのが、アマガでなかったら、今頃、学校には、エツラの怒号が響いていただろう。
そして、あとの二人が<ミナベ アオイ>と<ミクサ ユウ>――エツラを含めた四人は、いわゆるところのいつも一緒にいる気の合う奴らということだ。
「シュウ、その用事って時間かかるのか?」
「あー……どうだろう。 多分、すぐだと思うよ」
「じゃ、一緒に帰ろうよ」
「構わないけど、俺が遅れても文句言うなよ」
「わかった。 じゃ、30分だけ待ってるよ」
アマガが、今の時間を確認しようとスポーツリュックからスマホを取り出す。時刻は、午後4時20分――時刻を示すその下にメッセージを伝えるバナーが出ていた。
相手は<ミナベ アオイ>、文面はいたってシンプルなものだった。
『今から美術室に来て』と一文だけ。派手に飾らず、味気ない文面にアマガは、彼女らしさを感じていた。
「ごめん、シュウ。 俺も、用事できた。 美術室に来てって、アオイからメッセージ来てた」
エツラの表情が、明らかに曇った。上がっていた口角は下がり、眉間にはしわが寄っている。
「なんだ、お前もかよ。 俺の用事も、ミナベからの呼び出しだよ」
そう言うと、エツラは自分のスマホを取り出し、ミナベとのやり取りをしていた画面を見せる。やはり、エツラにも質素な文面で『今から美術室に来て』と書かれていた。エツラは「まぁ、いいや」とぶっきらぼうに言って歩き出してしまう。
アマガも、その背中を追い、隣を歩いた。
校舎の中に入ると日暮れの早さを感じさせられた。外にいると夕日のオレンジに全てが染められているからあまり気にも留めなかったが、校舎の中のオレンジは、椅子や机の影が伸びていて際立っている。
「もう冬だな」
アマガの言葉に、エツラは、不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだ。
そして、美術室の正面へと上がることのできる西階段へ向かうべく、角を曲がるとエツラが誰かとぶつかった。
「痛ってーな、おい!」
エツラとぶつかったのは、ひょろりとした長身で同じブレザーを着た少年だった。
少年は、肩を抑えながら「悪い」と言う。だが、機嫌の悪いエツラが、それで許すはずがなかった。
「悪い? てめぇは、人にぶつかった時の謝り方も知らねぇのかよ」
何も答えない少年に、またエツラが食いかかろうとしたのをアマガが割って入る。
「まぁまぁ、落ち着けって。 こいつ、こういう奴なんだ許してやってくれ。 ほら、シュウも行くぞ! アオイ待たせてんだから」
エツラは、アマガに背中を押され、納得のいかない様子だが、しぶしぶ足を進める。少年は、そんな二人の遠ざかる背中を眺めていた。
夕暮れの逆光のせいで少年の表情は、振り返るエツラからは見えない。
「あいつ、俺らと同じ学年の色だったけど、見たことあるか?」
背中を押されながらも睨み続けるエツラの顔を無理やり、正面に向けながら答えた。
「知ってるよ。 あいつ、他のクラスの<ギイ>だよ。 ほら、不登校の。 一年の時同じクラスだったろ?」
「……あいつか。 どのページにも何も書かれてない文庫本、ずっと読んでたやつか。 不登校になるくらいだから、謝る教育もまともに受けてないんだな」
ギイの不登校という弱点を見つけたエツラは、満足そうに笑いながら、背中を押さなくても歩き始める。
そんなエツラの背中を見ながら、アマガは立ち止まり<ギイ>のことを思い出していた。一年の途中から不登校になってしまったということだけしか覚えていなかったが、エツラの言う通り、真っ白で何も書かれていない文庫本を授業中も、休み時間も捲って読んでいた。
手帳やノートのように使うのではなく、何も書かれていないページに文を追うようにして目を通し、小さく笑ってり、謎を解き明かすように難しい顔をしているのだ。
アマガが、ギイと初めて会った時の不気味さを思い出していたら、誰かの悲鳴が、三階から聞こえてきた。
また、アマガは、ギイの不気味さを思い出す。
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