<2>

 個室は中二階のような作りで入り口ホールより高いところにある。その部屋の窓からライトアップされた天井装飾がよく見えるように設計されているはずだ。錬金は入ったことがない。ガードマンこそいないけれど、個室を利用するのは通常の客には敷居が高かった。このホテル・アリストクラタの会員費を払えるような身分であっても、だ。


 個室の並ぶ回廊に入ろうとすると、錬金は店員に呼び止められた。知り合いが先に行ったから、見つからなければすぐに出て行くと、まんざら嘘でもないぼんやりしたことを言った。錬金も客は客だ。訝しみながらも店員は通してくれた。個室の並んだ回廊は、不規則に緑柱石の原石が突き出したようなオブジェが建っている。天井まで届いているので柱なのかもしれない。


 ここへ来るまでのエレベーターの中での積極的な気持ちはどこへやら、気後れしながら錬金は輝安の姿を探した。確かにこの回廊に入ったはずだ。どこだろう、と彼は星座早見表を模した個室の扉をひとつずつ眺めた。


「錬金」


 突然すぐ傍で自分の名を呼ばれ、彼は思わず肩を震わせる。振り返ると通りすぎたばかりの扉が開いていて、そこから輝安が顔を覗かせていた。


「輝安、そこでなにを…」


 ぽかんとして彼を見つめた錬金に、彼は軽く笑いかけると、


「入れよ」と、部屋の中を指で示す。


 あ、と錬金はまた思う。バーカウンターで横から眺めたあの表情。錬金は柄にもなく動揺する。けれど躊躇いはしなかった。部屋の中へ消えた輝安の後を、踵を返して追いかける。背後で扉が閉まった。


 初めて入る個室に、錬金は室内を物珍しげに見回した。


 部屋の形は六角形で、外の音はほとんど遮断されている。静かだ。ホールより少し明るいが、落ち着いた色の照明。内装や家具は古い研究室を模しているのだろうか。中央の装飾のない無骨な傷だらけのテーブルに、ウィスキーのボトルと砕いた氷の入ったバケツ、それにグラスがふたつ置いてあった。その周りをアンティークの椅子とソファが囲んでいる。どれもデザインと大きさが違っていた。壁紙は絵に描いた本棚で、そこに房飾り付の装飾幕が垂れ下がっている。入り口から見ていちばん左の壁に、大きなモニターがはめ込まれていた。画面は消えていて、今はなにも写っていない。

 そしてその前に座っている人物を目にして錬金は思わず、


「稲妻」と、声を上げてしまった。


 いきなり名前を呼ばれた相手は、軽く瞬きしただけで何も言わなかった。けれど当然ながら、錬金を歓迎している気配もない。

 テーブルを挟んで向かいに腰を下ろした輝安はそれを目の当たりにして笑う。それに気づいた稲妻は、今度は訝しげな視線を彼に寄越した。輝安は悪戯っぽい表情を浮かべて、立ちつくした錬金に腕を伸ばすと、


「稲妻、錬金。錬金は」そう言って練金を見上げる。

「知ってるよな」

「輝安、これって」彼は輝安に視線を向けた。


 稲妻は黙ったまま、わずかに不機嫌そうな表情で、錬金の全身を上から下まで無遠慮に眺めた。その視線と表情に気づいた錬金は、はっとして身を固くする。そうだ、すっかり忘れていたが今日のらしくない装いは、彼に合わせたつもりだったのだ。


「知り合いか?」稲妻が抑揚のない調子で輝安に訊ねた。声を掛けられた方は自分の前にあるグラスとは別のグラスに、テーブルの上のアイスペールから氷を拾って入れていた。


「三十分前からの知り合いだ」そう言って彼は錬金に視線を向ける。

「座れよ、ウィスキーは飲めるか」

「輝安」

 

 錬金は身体を彼の方へ動かす。


「待ち合わせしてるって言ったろ?」彼を見向きもせずに淡々と答えた。


 突然のことに、錬金の頭は混乱していた。状況が把握できない。けれど答えはすぐに出た。これは好機チャンスだ、願ってもないことが、勝手に目の前に広がっている。


 彼は思い切って稲妻の隣に、それでも一人分の距離を置いた一人掛けの椅子に座った。


「男と飲む趣味ないなあ」と、稲妻が言ったが、苦笑混じりの言葉は本気で嫌がっている様子でもなかった。


 向かいの輝安が自分の作った酒のグラスを錬金の方へ滑らせる。かすかな会釈と小さな声でいただきます、と一応呟いてから、彼はグラスに口をつける。薄い。本当はストレートが好きだが、輝安が気を使ってそうしてくれたのかも知れなかった。そんな考えが浮かんで、錬金はわずかに目を伏せる。些細な親切には慣れてない。


「その格好ってことは」と、不意に稲妻が口を開いた。自分に話し掛けられているとわかって錬金は慌てて顔を上げた。

「ここで会ったのか。輝安も手が早い。趣味が変わったとは知らなかった」


 揶揄うような口調だった。輝安は答えずに笑うだけだ。錬金は一瞬迷ったが、


「話し掛けたのは、おれから…、です」と、稲妻の顔を伺いながら口を開いた。


 彼と目が合う。オパールのように色の混ざった、濃い灰色の瞳。厳しい表情でこそなかったが、その視線は鋭かった。たまりかねて練金が目を反らそうとしたその時、


「酒をタカられた」


 テーブル越しに輝安が言ったので、錬金は彼を見る。


「心配するな、酒ぐらいいくらでも奢ってもらえ。ここを払えない男じゃない」

「それは困る。三十六回の分割払いで」肩を竦めて輝安が言った。

「手数料でカード会社に余計な金を払ってやるなんて、おまえいつからそんな親切に」

 稲妻がわざと顰めた表情でそれに答えた。そのやりとりに、錬金は顔には出さずに驚く。

「提携先を紹介してやる。そこを使えよ」稲妻が意地悪く笑って続けた。

「会費の請求先はおまえの口座を」


 軽口を叩き合うふたりを前に、錬金は大きく一口酒を呷った。やっぱり薄い。早く酔ってしまいたかった。彼はこの場にいる自分に戸惑う。


 彼がわずかな写真で見たり噂で耳にした稲妻は、もっとずっと他人に対して冷たくて、利益になることしかしない人間だった。数多くの基金を設立しているのも、慈善イベントを開催したり参加したりするのも、ひいては自分の事業のためだと。そう錬金は想像していたし、だから彼が養子にしている翠憐のことだって、そのひとつでしかないと思っていた。商品価値があるからこそ、傍に置いているのだと。


 なのに今、錬金の目の前にいる稲妻は、どう見ても金を持っているようには見えない輝安とふざけ合って笑うし、とても親しそうだ。

 錬金はもう一度、黙って酒を飲む。


「自棄になって飲むな」


 軽く笑いながら、横で稲妻が諌めた。錬金の手にしたグラスは氷を残して空になっている。


「大丈夫です。おれ、強いんです。この程度じゃ」


 錬金が言うと、稲妻は自分の前にあったアイスペールとボトルを彼の前に押しやった。


「他にもなにかいるか、好きなものを頼めよ」


 輝安が向かいから口を挟み、カード型のリモコン用端末を錬金の前に滑らせる。手にして見ると、裏が部屋の扉の開閉ボタンで、表がスタッフに繋がる呼び出しボタンと画面になっていた。そこでふと、錬金は稲妻の前のグラスに気づく。輝安と自分のグラスとは違って細長い。中身の色も透明だ。水だろうか。


「…稲妻さんは、飲まないの」

 自分のグラスにウィスキーを足しながら、そう声を掛けると彼は困ったように笑った。


「九時に電話が来ることになってるからな。それまでは」


 錬金は曖昧に頷き、手にした端末の画面を指でなぞって店のメニューを表示させた。遠慮なく新しいボトルを選択して送信し、それからスタッフを呼び出して注文を確認する。


 そのやりとりの間中、錬金は稲妻の視線を強く感じた。テーブルに端末を置いたところで、


「その服装」と、彼は口を開くとやや重たげな声で続けた。

「下のフロアにいたのはみんな錬金、だったか名前。仲間なのか」


 その言葉に、錬金は首を横に振る。


「いいえ、店に来ておれも驚きました。みんな稲妻…さんが来るって情報掴んで、じゃなくて知ってたみたいで」


 稲妻は可笑しそうに笑った。錬金はばつが悪くなる。考えてみたら自分が知っているのだから、同じように仕事を取っている連中が知ってて当然だ。それを誤魔化すように、錬金は濃く作った自分の酒に口をつける。その時、部屋の扉に人影が映った。

 外からは星座盤の絵しか見えないが、内側から見ると半透明の扉を透かして回廊が見える。ボトルと新しい氷を持ったスタッフが立っていることがわかって、錬金は扉を開けてやった。ボトルを置き、酒を作ると言う申し出を稲妻に断られ、スタッフはすぐに立ち去る。

 再び三人だけになった室内で、


「言っとくがその服装」と、稲妻はソファの背に深く凭れて錬金を指さす。


 最も、指し示したのは彼ではなく服装だろう。


「俺の好みじゃない。翠憐のだ」


 あ、と錬金は思わず目を瞠る。彼の口から翠憐という名前が出たからだ。やはり、噂に違わず近しい間柄なのだ。錬金はすぐに目を伏せ、


「だって、他に手がかりがなくて。みんなそうだと思う」と、俯きがちに答えた。

「俺は男は嫌いだ」


 稲妻がわざとらしく渋面を作る。輝安は飲みながらそれを笑って眺めている。錬金は上目づかいに稲妻を見上げ、


「でも、翠憐は…」と、呟きかけて、すぐに呼び捨てにしたことに気づいて口を噤んだ。

「翠憐は別」


 錬金の言葉を気にした様子もなく、稲妻が言った。それは独り言のようにも聞こえた。


「じゃあ、男が好きなんじゃないの」

「残念ながら」

「それなら女の子、呼ばなくていいの」

「生憎」


 錬金の言葉に、稲妻は肩で息を吐き、わざとらしく、さも呆れた調子で言った。


「呼びたくても、学生服姿の女が隣に座っても嬉しくない」

「輝安も?」向かいの彼に顔を向けて、錬金は尋ねる。横で稲妻が頷いた。

「此奴の方がもっと女の好みにうるさい」


 それを聞いた錬金は、ぐっと自分のグラスの中身を飲み干してから、聞こえるのも構わずに大きくため息を吐いた。


「あーあ、おれ今日、大失敗だ。普段こんなミスすることなんてないのに」


 そう言うと他の二人が同時に笑った。


「俺だってショックだ」と、言いながら稲妻は彼の方へ軽く身を乗り出す。

「俺のホテルがいつの間にか淫売宿になっているとは」

「歓迎してくれてるの間違いじゃないか」


 口を挟んだ輝安に、稲妻は渋面を向ける。


「小馬鹿にされてる気しかしない」


 輝安は軽く笑って自分のグラスに氷と酒を注いだ。ボトルが一本空になる。


「そういや」と、グラスに口を付けながら輝安が稲妻に言った。

「ここで翠憐の宣材映像、撮ったんだって?」


 思わず肩を震わせながら、錬金は彼に鋭い視線を向けた。稲妻はその様子を束の間眺めていたが、すぐに唇だけで不敵に笑い、


「うん」と、頷く。

「見せてくれ」


 そう言って輝安は彼に向かって手を差し出した。稲妻がどこからか自分の通信端末を取り出し、操作してロックを解除してから輝安に渡した。


「画面が小さい」不服そうに彼が言った。


 錬金は部屋の壁のモニタにちらりと目を走らせ、それから控えめに切り出した。


「モニタに接続できるけど。無線の端子繋げば」そう言って壁を指さす。

「端子? 持ってない」稲妻が言った。

「店にあるよ」錬金がそう言うと、輝安がリモコンを手に取りながら、

「そんなに大画面で見せたいか」と、いかにも馬鹿にした口調で言った。

「頼んで、ついでにもなにか食い物」

「何が良い」


 輝安は画面を操作しながら、稲妻ではなく錬金に訊いた。彼は慌てて、テーブルに身を乗り出して腕を伸ばす。


「注文ならおれが」


 その言葉に輝安が顔を上げた。そして錬金を見てから、笑顔を浮かべる。

 まただ。あの表情。初めて彼が錬金に見せた、あの柔らかい笑顔。


「そんなに遠慮してたら稲妻は落とせないぞ」


 彼はそう言って、座ってろ、と手振りで錬金に示す。


「もう、諦めてる」座り直しながら錬金はため息混じりそう言った。

「賢明だ」稲妻がすかさず口を挟んで笑った。


 輝安が注文している間に、テーブルの上に置かれた稲妻の通信端末が震えた。稲妻はすぐにそれと気づいて腕を伸ばす。彼の指が着信アイコンに触れる前に錬金は画面の表示を見た。翠憐。そう表示されていた。

 稲妻は端末を耳に当てながら立ち上がる。


「ちょっと出てくる」気もそぞろに彼は他の二人に向かって手を振り、それを見た輝安が扉を開けてやった。

「ん、今、輝安と一緒。ちょっと待って、外出る」


 端末のマイクに向かってそう言った稲妻の表情は、錬金がはっとするくらい優しかった。そして錬金はそれを、どこかで見たように思う。それにはすぐ気がついた。あれだ。ほんの数分前に輝安が見せた、あの表情。けれど稲妻のしていたのは、それよりももっとずっと柔らかかった。


 彼が調べた稲妻の事業内容や、下世話な噂話からはまったく想像できないほどに。


 扉が閉まって稲妻の姿は回廊に消えた。

 彼の背中から室内へと視線を戻して、錬金は思わず自分でも知らず、肩で大きく息を吐く。


「ずいぶん緊張してるな。俺の時とえらい違いだ」


 グラスの氷を鳴らしながら、輝安が楽しげにそう言った。錬金は思わずテーブルに身を乗り出し、険しい表情で彼を見返す。


「知り合いだなんて、聞いてない」

「言ってないからな」悪びれもせず輝安が答えた。

「稲妻とどういう知り合い? 彼氏なの?」


 探るような目つきでそう言うと、輝安は、


「おまえのその発想は恐ろしいな」と、わずかに顔を曇らせた。


 錬金は身を引いて、もう一度小さく溜め息を吐く。


「学生時代の、まあただの友人だ。ちなみにあいつの電話の相手は、錬金たちの憧れの翠憐だぞ」


 穏やかな口調で輝安が言った。錬金は恨めしそうに彼を見る。


「言ってくれれば良かったのに。おれが稲妻狙いだってわかった時に」

「いや」と、輝安は言って肩を竦めた。


「店を指定したのは稲妻なんだ。それで来てみたらこの状態だったから、稲妻の悪ふざけかとも思ってな。だったらちょっと怒ろうかと」


 真顔でそう言ったので、錬金は言葉に詰まる。その時、再び扉に人影が写った。稲妻じゃない。制服姿の女性スタッフがふたり立っている。錬金は素早くリモコン端末を奪うと扉を開けてやる。後で輝安に聞いたところによると、中から操作しなくても、スタッフと個室の客は手持ちのカードキーで開けられるらしい。言われてみたらそうだ、と錬金は納得した。彼女たちは部屋に入ると丁重にテーブルの上に食事を並べる。先に入ってきた方が、輝安に向かって端子を差し出した。


「使い方は」と言いかけた彼女に輝安は、

「錬金、わかるか」と説明を遮って彼に訊ねた。錬金が頷くと、

「いいよ、ありがとう。また呼ぶから」と、下がるように手振りで示した。

「輝安って…」


 スタッフが出て行ったのを見届けてから、錬金が訝しげな顔で彼を見る。


「仕事、なにしてるの」

「だたの勤め人だ」そう言って輝安は小さく笑う。

「俺の財布を計るな。おまえに払わせたりしないから」

「違うよ」


 続けようとした時、扉が開いた。稲妻が入ってくる。テーブルを眺めた彼に、輝安が黙って端子を差し出した。


「使い方は?」稲妻はデバイスにそれを差し込みながら、錬金に訊ねた。

「モニタの電源入れて、そしたらそっちにネットワークの認証画面が出るはず。選択したら自動的に繋がるから、動画選択すれば」


 そう言ってる間に輝安が手元のリモコンで壁のモニターの電源を入れてくれた。稲妻は立ったまま操作していたが、モニタに映像が映し出されると、入り口近くの椅子に座る。


「ってか、いれてんの、おまえ」


 輝安が斜向かいになった稲妻に言った。


「そう、流出したらちょっと大変」

「おまえと翠憐と犬の写真しか入ってないもんな」


 稲妻は軽く頷いただけで取り合わない。

 暗くなった画面の中央で、光が飛沫のようにゆっくりと弾けた。


「腹減った」


 稲妻はそう言うと端末をテーブルの上に置き、食事の皿を引き寄せる。錬金は横目でそれを見ながら、意識は動き出した画面に向いていた。

 彼のおぼろげな記憶にあるよりも、映像はもっと繊細で美しかった。


 ホログラム化した翠憐が、鉱石の結晶のような光の渦の中にその姿を現す。さっきまで彼らがいたこの店の階下は、廃墟の天体観測所だ。壊れた半円型の天井から見える夕闇に、流星が降りそそぐ。螺旋階段を下りた翠憐の足が床につこうとするその瞬間、店内は一転して紺碧の宇宙空間に早変わりした。

 彼の周りを星が取り囲み、次第にそれがひとところに集まって波打つと、光に飲まれて翠憐は消えた。残った光の飛沫に近づき、水滴のひとつが拡大されると、それは惑星だ。琥珀色の天体を取り囲む環の上を、いつの間にか現れた翠憐が静かな足取りで進む。その周りを他の惑星が近づき、離れ、次には彗星が間近な距離を通過していく。それを見送る翠憐に回り込むようにカメラがゆっくりと近づき、最後に彼の姿が大写しになる。錬金は思わず息を飲んだ。


 紅茶色の髪に、化粧と照明でわざとそう見せているのだろうが、少年か少女かわからない謎めいた顔立ち。感情のない引き結ばれた薄い唇に、胡桃色の冷たい双眸がじっと、錬金を見つめる。


 彼は知らず息を詰めて、画面に見入っていた。三分足らずの再生が終わり、モニタが暗くなる。

 今日のために雑誌やネット上の静止画は大量に見ていたつもりだったけれど、ランウェイを歩く姿以外で動く翠憐の姿を、それもこんなに長い時間見たのは初めてだった。映像の中の翠憐は、今まで錬金が見たどの写真の姿とも違う。おそらくカット毎に化粧や髪型もそれとなく変えているのだろう。映し出されるポーズが変わるたびに、別人のようだった。


 錬金は軽く息を吐き、グラスを取ると口をつけた。


「全然良くないじゃないか」


 脇から輝安が不満げに言った。錬金は驚いて彼を振り返る。彼はモニタの電源を消したところだった。稲妻は自分の端末から端子を引き抜き、ポケットの中にしまいながら言った。


「良いんだよ、あれで。営業用なんだから。ほどほどに仕事が来ればいいんだ」

「どうして? あんなに綺麗なのに? 実物って、あれ以上なの?」


 淡々とした態度のふたりの会話に、錬金は思わず身を乗り出すと強い調子で訊ねた。

 ふたりは同時に彼に視線を向けると、


「まあ、あれ以上と言うよりは」輝安はそう言って首を傾げ、

「脚色しすぎなだけだ」と、稲妻は軽く笑いながら続けた。

「モデルの仕事を受けるための宣伝写真に、あんな仕掛けはいらないだろ」

「ああ…、そうか」


 自分の興奮に気がついて、錬金は急にそれが恥ずかしくなって俯く。


「気にすんな、稲妻のは欲目だ。これが一般の意見なんだろ。良かったじゃないか」


 途中から輝安は稲妻に顔を向ける。


「輝安も翠憐と知り合いなの」

 錬金は彼の横顔に訊ねた。

「うん。そんなに頻繁に会うわけじゃないけどな」

「じゃあ」と、錬金は彼の隣に立った時に感じた視線を思い出しながら続けた。

「今日の客の服装が、翠憐を意識してるってことも判ってたんだ」


 輝安は、かすかに強張った彼の顔を見て、頷く代わりに軽く肩を竦めた。


「でも本人は、錬金たちが思ってるような性格じゃないぞ。もっとぽやぽやしてる」

「いいんだ。その子供っぽいとこが翠憐の魅力なんだから」

「知ってるから、俺に翠憐の良さを語るな」


 口を挟んだ稲妻に、輝安は迷惑そうな顔を向けた。それを眺めて錬金は小さく息を吐くと、テーブルの上の皿を取った。そして遠慮なく稲妻の前に並んでいる皿の上から冷肉やマリネを取り分ける。輝安がフォークを取って渡してくれたので、彼はそれで冷肉を口に頬張った。


「若干悪ノリしてないか」輝安が訊ねる。

「周りのスタッフがな。翠憐のせいじゃない」

「よく来るのか。そうでもないよな」

「一年に一回くらい。でもいつも貸し切りだし」

「今日はなんで俺を?」

「ああ」と、稲妻は頷き、グラスを持った手で輝安を指さして小さく笑う。

「今のを見たプレスから、顧客向けのショーでここを使わせてもらえないかって言われて。しばらく来てなかったし、おまえも近くにいたからついでに見ておこうかと。それが」と、彼は食べている錬金に、わざと冷たい目を向ける。

「こんなことに」


 錬金は少し黙って口の中のものを飲み込むと、皿の上にフォークを置き、


「あーあ」と、負けずにわざとらしく溜め息を吐く。

「バカみたいなのはおれの方だよ。こんな失敗することなんて、いつもだったら絶対ないのに」


 そう言って彼は酒を呷ると、ふたりには構わずまた皿とフォークを取り上げた。


「追加でなにか頼むか」


 あらかた片づいた皿を見て、輝安が訊ねる。ぶっきらぼうに彼は答えた。


「ここのリゾット食べたい。あと、海老とアサリの酒蒸しと、それに合う白ワイン」

「お坊っちゃまに、おもちゃ付のデザートも注文してやれ」稲妻が言い添える。

「要らないよ、俺は翠憐じゃないからね」

「そうだな」輝安が目を細めて小さく笑う。


 錬金は思わず手を止めた。そうだ。この笑顔、この表情だ。彼がこんな顔をするから、それで今日はすべてが狂ったんだ。

 そう思っている間に、今度は稲妻が端末を手にとり注文を済ませた。彼は氷が溶けて薄くなっている錬金のグラスを引き寄せると、ボトルを近づける。


「濃い目で」すかさず錬金が言った。輝安が横目で彼を見る。

「ストレートの方が良かったか」稲妻は彼の口ぶりを気にした様子もなく聞き返した。

「いや、氷いれて」


 稲妻は少し楽しそうに、言うとおりにしてくれた。輝安が少し呆れた表情をしている。知ったことか、と錬金は心の中だけで思う。


「さっき、目が合って俺のことを見てくれたんだと思ったけど」


 そう口にすると、知らずに溜め息が一緒に洩れた。


「あれは輝安を見てたんだね」


 稲妻は不思議そうな顔をする。輝安が目を上げた。錬金は黙ってウィスキーで満たされたグラスを受け取る。

 稲妻は自分のグラスにも酒を足しながら、


「俺のために、翠憐の研究を?」と、錬金を見ないで言った。

「うん」彼は頷いて続ける。

「雑誌見たり、ネットで画像とか動画とか検索したり。でも動画、全然なかった。さっきの映像、前にちょっとだけここで観たことあったけど、もっと荒かったし。少なくとも翠憐みたいな格好してれば、稲妻の目に留まるかもしれないし、話し掛けやすいんじゃないかと思ってた。まさか同じこと考えてる奴がこんなにいるなんて、想像しなかったのはバカだったけど」

「でも錬金は俺といるじゃないか。他の奴らを差し置いて」


 その言葉に彼は顔を上げる。楽しそうな目つきで稲妻が彼を見ていた。錬金は困ったように笑って、


「だとしても」と、言いながら皿の料理をフォークで手前にかき寄せる。

「全然見込みないってわかったから。おれ、素人じゃないんだよ。そのくらいわかる」

「いつからこの生活を?」輝安が訊ねた。


 錬金は彼に視線を向け、唇だけでかすかに笑う。


「わかんない。覚えてない」

「住んでる場所は」


 稲妻が引き取って訊ねた問いに、錬金は自分でも覚えず、手にしたフォークを皿に置いた。


「…この近く。友だちとシェアしてる」


 気づかれたかはわからないが、答える声の調子がわずかに固くなる。


「会員証は」

「…買ってもらったんだよ。おれの収入じゃ買えない。でもおれ、美人だから」

「顧客の皆さんね」稲妻は軽くそう言って、グラスを呷った。

「親は」


 向かいから輝安が、先ほどより低い声で訊ねる。錬金は急に、彼のことが鬱陶しく感じた。たった今まであれほど、感じが良いと思っていたのに。


「知らない」首を振って彼は素っ気なく返事する。けれどすぐ自分がした行為に気がついて、

「ごめん、そういうつもりじゃ」と、慌てて彼に済まなさそうな表情を向けた。


 彼らを気にせず、稲妻は酒に口をつけながら目を輝かせ、


「母親が男作って逃げた? ほんで父親に殴られた?」と割って入った。


 輝安は苦い顔で「稲妻」と、窘めるように彼を呼んだ。稲妻は意地悪そうな目つきで彼を見返す。


「大事に育てられた奴なら、こんなことしない」


 錬金はそう言った稲妻に視線を向ける。金髪に精悍な顔立ちの若き実業家は、すぐに彼の方を向き、目が合うと楽しげに笑った。その屈託のない表情に、錬金は不快になるより呆れる気持ちが先に立つ。


「全部はずれ。殴られてないよ。いっつも怒られてだけ。相手は母親とその彼氏。父親のことは知らない。教えてくれもしなかった。彼氏が酔っぱらうと怒られて、それはおまえが良い子にしてないからだって、母さんにも怒られてた」

「そりゃ憎んでも憎み足りないな」

「酔ってるのか」


 輝安がわずかに困ったような表情で、稲妻に訊ねる。彼はそれに構わずに、錬金に笑いかけた。だが彼は笑い返す気になれず、代わりに首を振る。


「どうでも良い。もう関係ないから」

「家出した? それでこの生活に」

「そうだよ」


 稲妻の言葉が挑発するような物言いに聞こえて、錬金は少し強い口調で答えた。そして口元に揶揄うような笑みを浮かべている彼の方へ身を乗り出す。


「それがなに。金持ちには理解できないだろうけど。バカにするならしろよ。確かに誰かの手本になるような生活じゃない。でも、おれは自分で稼いで生活してる。誰にも迷惑かけてない」


 乱暴にそう言った後、錬金は我に返った。稲妻に向かって、なんて口をきいたんだろうと。顔が強張る。けれど彼の目の前で、しかし稲妻は優しい笑みを浮かべただけだった。


「馬鹿にしたように聞こえたなら悪かった」と、彼はグラスに口をつけてから、それをテーブルに置く。目を細めて彼は錬金を見る。

「父親に殴られてたのは俺の話だ。母親にも男がいるが、もともと父親には妻がいるからな。男作って逃げたとは言えない」

「それって」錬金はそう言い掛けたが言葉が続かず、輝安を振り返る。しかし彼もまた、軽く肩を竦めて溜め息をついて見せただけだった。

「父親の妻は、怒鳴りこそしなかったが俺に嫌味を言い続けたよ。俺が目障りで仕方なかったんだ」


 しばらく沈黙があった。錬金は自分から話す言葉が見つからなかった。それで輝安か、稲妻に口を開いてもらうことを期待したのに、ふたりとも黙ったままだった。自分がその空気を作り出してしまった気がして、錬金はそれに耐え切れなくなる。


「でも、稲妻はおれより恵まれてる」

「うん」稲妻は頷いてテーブルの上のグラスを取り上げると、中身を飲み干す。そしてまた氷を掴んで、更に酒を注ぎ足した。

「俺が親父に殴られてることを笑って話すのは変だと言ったのは翠憐だ。一年に一度会うか会わないかの、俺を育てたこともない母親に金を渡すのは変だと言ったのは翠憐だ。そんな翠憐が鬱陶しくなってひどいことを言ったのに、それを許してくれたのが翠憐だ。昔、酔って喧嘩して刺された時、病院に駆けつけてくれたのは翠憐だ。そこまで自暴自棄になった俺を、見捨てずにいてくれたのは翠憐だけだ」


 その言葉が独り言、或いは自分に言い聞かせているだけのように聞こえたので、錬金は思わず輝安を振り返る。彼は軽く首を振り、


「俺も初耳。全部俺と会う前の話だ」と、囁くような調子で錬金に言った。

「なんで」と、錬金は呟く。

「裕福で恵まれてる奴らには、そんなこと起こるはずないって思ってた」


 稲妻は穏やかに彼に笑いかけ、言葉を続けた。


「その翠憐は、殴る父親も金をせびる母親もいない。両親どっちの顔も知らない、施設育ちだ」


 それは隠されてはいない事実だったけれど、やっぱり錬金は目を瞠った。稲妻の口からそれを聞くのと、頭で知っているのでは印象が違ったから。


「だから俺は」稲妻はそう言って笑う。錬金に向けられたその笑顔は静かで優しかった。彼は続ける。

「翠憐に返せないくらいの借りがある。大事にしてやりたい」


 そう言った稲妻を眺めて、次に錬金は目を伏せる。そして深くソファにもたれかかった。


「なんか、ずるい」彼は思わずぽつりと言った。

「翠憐が羨ましいのか」稲妻が訊ねる。

「違うよ」と、彼は首を振る。

「ずるいって思うだけ。おれの生活はこんななのに、同じように顔が良いだけの翠憐は、稲妻に気に入られてセレブ生活じゃないか」

「翠憐は質素だぞ。湯水のごとく金使ってるのはコイツのほうだ」


 脇から輝安が言う。稲妻が笑った。


「顔がいいだけじゃない。翠憐は会員制のホテルのバルで獲物を待ち伏せしたりしない」

「そんなのわかんないよ。立場が違えばやったかも。稲妻とめぐり会ってなくてモデルやってたら、仕事とるためにそのくらいするよ」

「俺と知り合った後でつくづく良かった」


 稲妻は不愉快になった様子もなくそう言った。錬金は皿の上の料理を綺麗に片付け、グラスの中身を飲み干すと立ち上がる。


「どうした」輝安が顔を上げる。

「おれ、行くね。ご馳走様。場所変えて仕事しないと」

「アリストクラタの中で?」


 稲妻の言葉に、彼は首を振る。


「今日は止すよ。オーナー様に迷惑かけられないし」

「そうだなあ、ちょっと厳しく言っとおかないと」

「でも」と、稲妻の言葉に錬金は少し慌てて付け加えた。

「今日は特別だよ。普段はもっとみんな節度持ってやってるというか、それなりに弁えてるし、人数ももっと少ないよ。今日があからさますぎる感じで」


 それを聞いた輝安が横で笑った。


「その話、参考にさせてもらう。あと、ちょっと来い」


 稲妻は頷いてから彼を手招きした。錬金は首をかしげながら、テーブルの脇を抜けて稲妻の前に立つ。その間に稲妻は財布を出して数枚紙幣を引き抜いた。それを指先で三つ折りにすると、慣れた手つきで錬金のセーラー衿のシャツのポケットに押し込んだ。全てはわずかの間の出来事だったが、錬金はその紙幣の額を見ていた。


「あの、こんなに」反射的に胸のポケットを押さえそうになるのを、かろうじて堪える。

「いいよ。楽しかった」


 錬金は手を止めたまま、そこから動かなかった。その時自分がどんな表情をしていたか、彼は知らない。


「ありがとう…、ございます」


 ふたりのどちらの顔も見ないまま、それだけ言った。そして頭を下げて、踵を返すと扉に向かった。閉まった扉の前で、彼は操作してもらわないと開かないことに気づく。それで錬金は振り返った。まず稲妻と目が合い、次に手元にリモコンを持っている輝安に目を向けた。目が合うと、彼は立ち上がって錬金に近づき、目の前に立った。


「名刺、やろうか」

「え」錬金は驚いて輝安を見上げる。

「輝安」嗜めるように稲妻が言った。


 彼は構わずカードホルダーを出すと、そこから一枚引き抜いた。樹脂製のアクリル板のように透明で、何も書かれていないカードだ。それを持つ輝安の指が透けている。錬金はわずかに眉を顰めた。


「触れて」輝安がカードを持ったまま言った。


 錬金は言われた通り、人差し指でそっとカードに触れる。すると青白い文字が浮かび上がった。持ち主の指紋認証と、渡した相手の指紋を登録して初めて情報が表示されるタイプの名刺だ。錬金も知ってはいたが実際にそれをこんなに間近に見て、まして触れたのは初めてだった。当然だろう、普通に仕事するのに、こんな凝った名刺は必要ない。


「悪用するなよ」輝安はそう言うと、稲妻と同じようにそれを錬金のシャツのポケットの中に滑らせた。錬金の前で、星座早見表を模した扉が半回転して開く。

「輝安…」廊下へ出ながら、錬金は肩越しに彼を振り返る。彼は小さく笑った。


 ああ、あの顔だ。と錬金は思う。最初にここで会った時に見せた、あの穏やかで柔らかい表情。アリストクラタの客らしからぬ、そして錬金自身の客にはそぐわない、あの笑顔だ。

 開いた戸口に腕を組んで寄りかかりながら、


「それと」と、輝安は注意を引くよう軽く人差し指を立てる。

「もしその名刺を使うときは、本名を」


 錬金は一瞬目を瞠り、


「うん」と、困ったように笑いながら頷いた。

「元気でな」

「ありがとう、輝安も。稲妻も」


 輝安がもう行け、と手振りで示す。錬金は前を向いて廊下の先を見た。背後で扉の閉まる音がした瞬間、

「お人好し」と、稲妻の声が洩れ聞こえた。


 錬金は振り返らずに歩き出す。けれどすぐにポケットには手を入れてしまった。現金ではなく、あの名刺だ。

 取り出した時はまた透明に戻っていたが、彼が指先で触れると再び青白い文字が浮かんだ。表示された輝安のフルネームを指でなぞると、画面が切り替わる。そこに彼の所属と、蛇足のような情報が表示された。浮かんだ内容は、錬金には予想外だったけれど、驚きはしなかった。


 軽く目を通して思わず彼は小さく微笑む。胸の奥が仄かに温かくなったことに気づいたのは、それからもっとずっと後のことだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る