◆星座盤(プラニスフィア)

挿絵

<1>

 二重扉のエレベーターの格子が開く。

 

 中には誰もいない。乗ったのも錬金れんきんひとりだ。扉が閉まってから彼は、行き先階のボタンパネル下の挿入口に会員証を差し込んだ。カードの端が緑に光ると、同時に四十二階から上のボタンに明かりがついた。このホテル・アリストクラタの四十二階から上は、宿泊客か会員でないと立ち入れない。彼は迷わず四十七階のボタンに触れる。訪れるのは久しぶりだ。そして錬金は、柄にもなく少し緊張さえしていた。


 高速エレベーターには窓がなく、奥の壁が一面鏡ばりになっている。誰もいないので(もちろん遠隔監視カメラは自分に向いているけれど)、錬金は改めて鏡に映った全身を眺めた。


 洗いざらしの白いシャツ。特徴的なセーラー衿には紺のラインが二本並んでいる。着る決断をするまで時間が必要だった。それに細身の変型サルエルパンツ。グレーと黒の細いストライプで膝丈だ。こんなもの錬金は初めて履いた。そして黒の靴下留め。その金具に星座柄のソックスを引っかけている。靴はエナメルのTストラップシューズで、これは借り物だった。胸元にはネクタイ。濃い緑色で、わざと歪めて星の形に結んだ。今日のための研究で、見飽きるくらい見た写真の中のコーディネートに使われていた結び方だ。


 自分の装いを改めて眺めて、完璧だ、と錬金は考える。彼は二十歳。年齢の割に薄い胸板と細い手足。彼は更に自慢の顔を鏡に近づけた。シャープな輪郭、コンタクトレンズや染髪料なんて必要ない深い碧眼と明るい金髪。睫毛を際立たせるために二重をよりくっきりさせた以外、どこもいじっていない。あとは髭の剃り跡を目立たせないよう施術しているだけだ。


 それだって別に隠してないし、誰だってやっている。身だしなみのうちだ。ただ少しだけ気掛かりなのは髪型だった。彼の金髪は柔らかく、あっちこっちへ飛び跳ねている。普段ならそれはむしろお気に入りで、整髪料で軽く抑えるだけでじゅうぶんだった。でも今日は違う。自分で気に入るかどうかは二の次で、誰よりも気に入られなくちゃいけない。染めるかどうかも迷ったが、似たような色にしても意味がない。あくまで好みに寄せるだけ。錬金自身を気に入ってもらう必要があるのだ。


 そう判断してこのままにしてきたけれど、今日までの一週間に大量に眺めた写真を思い出すと、心が挫けそうだった。でももう遅い。これで勝負するしかない。


 錬金は鏡から離れる。そして突然ばかばかしくなってひとり苦笑した。

 このひどい格好はどうしたことだ。普段なら、自分を選ぶ客のタイプは熟知してる。こっちが合わせに行く必要なんかない。

 目的階を告げる音がした。錬金は鏡に背中を向ける。外で格子の開く音がして、続いて匣の扉がゆっくりと開いた。

 今日は千載一遇のチャンスの日、この日のためにわざわざ衣装まで揃えたんだ、と練金は心の中で自分に言い聞かせ、店へと続く広間へと足を踏み出した。


 <天体観測所プラネタリオ>


 それがホテル・アリストクラタの中にあるバルの名前で、コンセプトだ。

 表に立っていたガードマンは、錬金の会員証に受け取りながら笑いを堪えていた。錬金は目敏くそれに気づいたが、男がすぐに真顔に戻って丁重に緩衝材の扉を開けてくれたので、彼もそれに気づかなかったふりをする。

 背後で防音扉が閉まった。錬金は肩で軽く息を吐く。笑われる理由はよくわかった。こんな子供っぽい、まるで幼稚園児のような服装でホテル・アリストクラタにいるなんて。


 その上、滅多に来る機会のない『天体観測所』なのに。


 でも、とガードマンの苦笑を思い出し、逆に錬金の気持ちは引き立てられる。この出で立ちを笑われるなら、それはむしろ成功だ。だってそれだけ悪目立ちしているということだから。できるだけ目立った方が良い、その方が目につきやすい。そしてそのための装いだ。


 入り口から店内までは短い通路になっている。そこは店のコンセプトに従って、四方と上下に透明感のあるミッドナイトブルーのパネルが敷き詰められていた。そこに無数の白い小さな電球が明滅してる。数歩で自分の立つ場所の天地と左右の区別を失いそうになった時、自動ドアが目の前でさっと開いた。錬金は店内に足を踏み入れる。


 エレベーターからここまで人の気配がなかったけれど、店内はそれなりに客がいた。薄暗い店内を動く影で、錬金にもそれがわかった。

 彼は天井を見上げる。半円形の天井には夏の星座が映し出されている。視線を落とした広間の中央には巨大な望遠鏡型の照明が、ゆっくりと回転しながら店内を不均等に照らしていた。その明るさに目が慣れるまでのわずかの間に、錬金の意気込みは吹っ飛んだ。


 彼は愕然として、忙しなく周囲を見回す。


 フロアのそこここに自分と同じような服装している客が何人もいるのが目に付いた。多く目につくのはセーラー衿か丸襟のシャツ。そして長さはまちまちだが、踝には届かない中途半端な丈のマリンパンツやトラウザーズ。欠かせない小物はもちろん色気のないサスペンダーか靴下留めだ。


 見る限り男も女も関係ない。それでも下着みたいな黒か濃紺の提灯ブルマーから、魅力的な太股にわざとらしく靴下留めをつけているのは女の子が多かった。当たり前だ。自分の武器をかざさない手はない。中には鍛えた体の屈強な男も数人いて、その上彼らは日焼けしていた。彼らが視界の端に見えた時、錬金は思わず嘆息した。まるで大昔の海軍みたいだ。武器の使い方を明らかに間違えている。待ちかまえる相手がそんな趣味だとは聞いたこともない。多少錬金の願望が入っていたとしても、女たちの方がまだましだ。とは言え、彼女たちの中にも失敗しているのが何人も目についた。


 いつもなら胸と背中の大きく開いたドレスに身を包み、スカートのスリットから魅力的な足をもったいぶって覗かせれば、大抵の男の欲望はくすぐるであろう彼女たちの豊かな体つき。しかし垢抜けない学生服のような白いブラウスの下、その身体はまったく収まりきっていなかった。

 ガードマンが笑ったのは自分の服装じゃないことに、錬金はその時になって気がついた。示し合わせたわけでもないのに、似たり寄ったりの奴らがこれだけ多く訪れているのなら、彼じゃなくても笑いたくなる。


 そう感じるのは錬金だけではないようだった。なにか飲もうとカウンターへと店内を横切る時、服装だけなら双子のような男女の値踏みするような視線が練金にも突き刺さる。これじゃ目的の相手が到着するまで、どれだけ兄弟姉妹が増えるか知れない。それとも学生服のような姿なので、同じ学校の生徒かも知れない。


 カウンターへ近づきながら、今度は別の目的で辺りを見回す。今日の店内はずいぶんひどいことになっているけれど、普段通りの客がいないわけじゃなかった。そんな客を捕まえて、軽く一杯飲ませてもらおうと、錬金は自分を気に入ってくれそうな誰かを捜す。右から左に目を走らせてふと、彼はカウンターの隅で居心地悪そうにしている青年を見つけた。


 暗いグレーのライダースジャケットに、細身のパンツ。無駄に装飾的なこの店内ではいかにも場違いで、他の客が声を掛ける様子もない。ひとりで飲んでいる。それが錬金の目を引いた。この薄暗い店内でサングラスをかけたままなので、余計にそう思うのかもしれない。その佇まいに興味を惹かれて、何気ないふうに彼に近づく。傍で見ると彼は錬金よりも頭ひとつぶんよりもっと背が高く、手足の長いバランスの良い体つきをしていた。『天体観測所』の中でさえなければ、取り立ててこだわりのなさそうな服装も似合っていると感じたはずだ。そっと観察する錬金を、彼は気にした素振りもない。


 財布の中身の心配がなきにもしあらずだが、別に勘定を彼に回さなくても良いし、連れもなくこの場にいるのだから、見かけによらないだけかも知れない。彼の財布が当てに出来なければ、他の誰かを見つけても良い。というか本来の目的はそっちなのだ。


 そう考えて錬金は、カウンターの中に目を向けながら青年の隣に立った。そしてさも今気づいたと言うように彼に視線を向ける。彼も錬金に目を向けた。サングラスのせいで目が合ったのかどうかわからないが、青年がわずかに顔を動かす。錬金はすかさず、自分でも完璧な角度で笑顔を向けた。


「見ない顔だね。新しいヒト?」


 そう声をかけると、青年はサングラスを頭の上へ押し上げた。左右非対称に刈り込んだ黒髪と、同じ色の切れ長の目が現れる。見た感じでは一回り近く年上だろうか。美形というのではないが、嫌いじゃない顔立ちだ、と錬金は一瞬で値踏みした。


「新しくもないが、久しぶりだな」別段迷惑そうでもなく、青年は答えた。


 所在なげに見えたのに、口調も態度も落ち着いていた。場慣れしている。錬金は意外に思いながら、彼の手元のグラスに目を向けた。緑色の液体に細かい泡が立っている。


「メロンソーダ?」悪戯っぽく青年を見上げて訊ねる。

「そう」青年は頷き、グラスに口をつけた。


 錬金は一瞬迷って、けれどここは遠慮する場所じゃないし、と気がついた。軽く首をかしげて笑顔を作る。


「俺にも一杯良い?」


 この店に居るような客なら、男でも女でも大体この表情で大丈夫。そう思いながら訊ねると、男は軽く頷いてカウンターの中を親指で示した。錬金は中にいるバーテンにムーンシャインを注文する。その隣で青年は錬金を上から下まで眺めていた。

 視線に気づいた彼はわざとゆっくり青年を振り向く。


「なんでメロンソーダ? 飲めないの?」

「そう、今は」男は頷く。錬金の前に細かく泡立つ透明な液体のグラスが差し出された。三日月形のマドラーで中身をかき混ぜながら、それを持ち上げる。グラスに口をつけながら、錬金は改めて隣の男に視線を向けた。


 青年は既に彼から目を反らして、フロアに集まる客を見ている。


「誰か待ってるとか」錬金は訊ねた。


 青年は彼に視線を戻し、それから返事の変わりに小さく笑った。

 あ、と錬金は思わず口からグラスを離す。今のは好きな顔だ。柔らかい。咄嗟にそう感じた。そして次に、こんなところで見かけることは滅多にない表情だと気がついた。錬金は顔を反らして、彼のしていたようにフロアに目を向けた。相変わらず、自分と似たような服装の客が、薄暗い店内で何人も目に付く。


「まだ来ない。久しぶりだから、早く来すぎたみたいだ」


 そうか、誰かと待ち合わせなのか。だったら場違いな格好をしていても別に不思議じゃない。錬金はひとりで勝手に納得して、カウンターにグラスを置くと、青年と向き合った。


「おれは錬金。じつはおれも久しぶりなんだ。ここにはたまに遊びに来る程度で」


 そう言いながら彼は右手を差し出す。青年はその手を取って、


「金持ちなんだな、羨ましい」と言いながら握り返した。力の込め方は失礼ではないが素っ気ない。

「俺は輝安」 

「久しぶりって言ってたけど、ここで何を? 輝安は悪いけど」錬金はそう言って冗談ぽく笑って見せる。

「ちょっと浮いてる」


「自分で訊いたじゃないか。待ち合わせだ」


 そう言って輝安と名乗った男は半分ほど残っていたメロンソーダを飲み干した。グラスを置くと胸から潰れかけた煙草の箱を取り出す。銘柄は一角獣座。素早くそれを見た錬金は、心の中でがっかりした。味の悪い安タバコだ。彼の前で輝安の動作に気づいたバーテンが灰皿を押しやる。

 隣の彼は一本取り出すと錬金にも勧めた。彼は優雅な手つきでそれを断る。安物は好きじゃなかった。輝安は手にしたそれを銜えると火をつけて軽く吸い込む。


「今日はなんだ。仮装夜コスプレナイトか」

「え」自分の服装も忘れて、錬金は訊ね返した。


「錬金? だけじゃなく、場違いな格好が多すぎるだろ」

「ああ、そうだね。輝安は知らないんだね」


 悪戯っぽく目を輝かせて、錬金は輝安を見上げた。ほんのわずかな時間だが、彼はこの男に好意を持った。


「今日はここに『稲妻』が来るんだよ」

「稲妻? 物騒だな。高いビルだからそりゃ当たる」

「その冗談つまんない」


 そう言いながらも錬金は笑った。輝安は取り上げた灰皿に灰を落とす。


「輝安知らないの? このアリストクラタのオーナーのひとりだよ、稲妻。州の金持ちランキング百人に入ってるまだ二十代半ばの若手実業家」

「知ってる」


 興味なさそうに輝安は答えた。そしてまた小さく笑う。この顔、と錬金は思う。錬金の生活の中では見慣れないこの表情。彼を感じがいいと思うのはこの表情のせいだ。それからしばらく彼は黙って煙草を吸いながら揺れ動く煙を眺めていた。錬金はその脇で、輝安の横顔を眺める。

 やがて彼は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。それから吸殻入れの下に丸めた紙幣を一枚差し込んでバーテンに方へ軽く押し戻した。錬金はその手つきに目を細める。


「それでなんでその格好? 男も女も似たような奴らがうようよしてる。まるで臨海教室だ。俺よりよっぽど場違いじゃないか。何人か笑えないのも見かけたが」


 輝安の言葉で我に返った錬金は、首を傾げて彼を見上げる。


「稲妻は知ってて翠憐のことは知らないの?」

翠憐すいれん?」

「モデルの。アリストクラタに来る十三番街と八番街の交差点に看板出てるよ。女優のクレマチスと一緒に、っていうか後ろに写ってる」

「ああ、知ってる」そう言って輝安は少し俯きがちに笑った。

「ねえ、さっきから知ってることばかり訊いてない?」


 輝安の反応にからかわれているのかと、錬金は軽く彼を睨んだ。


 この男か女かわからない妙な名前の翠憐と言うのは、現在十八歳の男性モデルだ。まだ活動歴も二年ほどと浅く、大したキャリアもない。それが去年、とある新鋭メゾンの女性コレクションに出演したことがきっかけで、少しだけ注目を集めた。錬金は彼になんの興味もなかったが、今日のためにたくさんの写真を探し、目を通し、研究したから知っている。ショーモデルにしては体つきが貧弱だったが、容姿は中性的で、立ち姿には清廉さを感じさせた。そこが持ち味なのかも知れない。


 そんな彼は、家族のいない施設育ちの孤児だという触れ込みで、数年前からその彼を書類上の養子にしているのが件の稲妻だった。その事実は特に隠されてもいない。一方で法律上は養子だが稲妻との実際の関係は、恋人ではないかというのが業界内でのまことしやかな噂だ。もっとも、公の場に揃うことはまずない二人のため、事実かどうかは確かめようもない。それがまた噂を盛り上げていた。


「事務所が作ったって言う翠憐の宣伝映像知ってる? ここのメインフロアを使ってるんだけど、ここって撮影許可が下りたことないんだよ、あれ以外」

「へえ、観たのか」

「前に一回だけ、ここが貸切の時に呼ばれたことあるんだ。その時モニタで流れてた。撮った直後だったみたいで。ここの天井を流星にして、下の」と、錬金は人差し指で床を指す。このフロアと螺旋階段で繋がる吹き抜けになった階下には、ダンスホールが広がっている。店のメインはそっちだ。

「メインフロアにプロジェクションマッピングで翠憐が消えてるみたいな映像だった」


「ここを貸しきりか…」輝安はそう言いながら店内を眺めると、溜め息を吐いた。


 やっぱり金持ってないかも、と錬金は心の中で勝手なことを考える。彼はそれに気づいた様子もなく続けた。


「それでみんな翠憐の真似を? 翠憐って、そんな格好だったか?」

「私服はこういうのが好みなんだよ。稲妻の好みかもしれないけど」

「で、錬金も右に倣った?」


 輝安の言葉には少しだけ揶揄う調子が含まれていた気がしたが、


「そう」と、錬金は真剣な表情で頷く。


 それを見た輝安は束の間、黙った。それから錬金のグラスがほぼ空になったのを見たのか、このタイミングで、


「もう一杯飲むか」と訊ねた。

「いいの? ありがとう」


 彼は咄嗟に、声を掛けた時と同じ笑顔を向けて礼を言う。そしてムーンシャインをもう一度注文した。横から輝安が水も、と付け加える。


「輝安は普段、ここには来ないんでしょう。なんで今日に限って」

「まったくだ」


 出されたミネラルウォーターの冷えたボトルの口をひねりながら、彼が答えた。


「出先なんだ。友人もたまたま近くに来るから、なら軽く食事でもって誘われて来たら、この店だったんだな」


 そう答えてから彼はグラスを使わず、そのままボトルに口をつける。出張か、と彼の喉仏の動きをしばらく眺めていたが、視線を反らすと控えめに呟いた。


「…輝安さえよければ、稲妻を諦めてもいいけど」


 言われた方は勢い良く吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえてボトルを持ち上げた。


「笑わせるな」


 掠れた声でそう言って、彼はしばし噎せていた。

 失敗した、と錬金は思わず顔を背けて、両手に持ったグラスの中身を大きく飲み込む。こういう失敗をすることはまずないのに。輝安のような人間にも滅多に出会わないから、それで失敗したのだ。彼は気まずい気持ちに言い訳をする。けれどなぜか、その場から離れるようとは思わなかった。

 輝安が落ち着きを取り戻し、水のボトルをカウンターに置いたのを見てから錬金は訊ねた。


「輝安はストレート?」

「ああ。錬金は」

「おれはどっちでも」

「道理で。きれいな顔だ」


 錬金が彼を睨みつけようとしたそのとき、入り口の辺りが静かにどよめいた。彼らはそれに気づいて、同時にフロアの向こう側に視線を向けた。


「おでましかな」輝安が面白そうに言った。

「どうかな。人で見えない。俺、行くね。ありがと」


 錬金は手にしたグラスをカウンターに戻すと、輝安を一瞥して言った。返事の変わりに彼は軽く手を振る。変な奴だ。ここで積極的に遊ぶわけでもない。待ち合わせと言っていたが、錬金の知るここに来るような連中と彼に、関わりがあるなんて想像できなかった。

 入り口にはちょっとした人垣ができていた。なんとか彼の傍に寄ろうと必死な連中だ。もちろんそれ以外の客も多くいる。今晩、オーナーのひとりがここへやってくることを知らないほかの客たちは、遠巻きに視線を送っていた。


 人だかりの後ろで錬金は苦い顔になる。遅れを取った、と彼は心の中で舌打ちした。今日はいつもの調子が出ない。服装のことと言い、輝安のことと言い。

 人垣が割れた。よく見ると店員の何人かがその中心にいて、群がる客を追い払っている。 二階へ案内する別の店員の背後に、錬金は見つけた。


 稲妻だ。


 写真や画像で見たことがある。周囲の騒ぎを意にも介さない冷ややかな表情で、店員の後をついて歩く。長めの金髪を両サイドで編み込んで、頭の後ろで半結びにしている。左手になぜか脱いだジャケットを持っていた。預けなかったのだろうか。


 急に稲妻が足を止めて辺りを見回した。薄暗い店内で、稲妻が自分のほうへ視線を動かしたのがわかった。次の瞬間、彼は錬金に目を留める。

 錬金は自分の心臓が大きく飛び跳ねたのがわかった。彼は確かに錬金を見て視線の動きを止めた。けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように稲妻は顔を背ける。そして二階の個室のほうへ行ってしまう。


「今のが稲妻?」


 今度は違う意味で心臓が跳ねた。耳元でした声に、錬金は振り返る。いつの間にか背後に輝安が立っていた。


「そう、どうしよ。個室に行っちゃった。近づきたいのに」

「そりゃこんだけ同じこと考えてる奴がいりゃあな」


 呆れたように輝安が言って、辺りを見回す。この場に似つかわしくない学生服を着ているように見える客たちが、あちこちで少人数で集まり、或いはひとりでフロアを行ったり来たりしている。


「いっそ普段着でくればよかったのに。そのほうが目立つだろ」

「ここに来てからそれ思ったよ。だって稲妻って、好みのタイプとかの情報ないし。こうやって気を引くのがいちばんかと」

「そう思って、同じこと考えてる奴がたくさんいたんだな」

「でも」と、錬金は食ってかかるように言った。


「俺のこと見た」


「稲妻が?」

「そう、目が合った」


 輝安は目を細めて唇だけで笑った。


「錬金は、毎晩こんなことを?」


 そのひと言に、練金の目つきが険しくなる。


「会費ちゃんと払ってる。やましいことはしてない」

「そうか」輝安はそう言うと彼の脇を通り過ぎながら言った。

「俺も狙ってみるか、稲妻とやらを」

「え」錬金は驚いたように目を瞠って輝安を見る。


 けれど彼の視線が捕らえたのは、輝安の背中だけ。彼は臆する様子もなく、個室のあるフロアに向かって消えた。


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