第37話 悪魔王と魔獣

「……お、お前……は……!」

 バルハラを捉えたフェンリルは、どこか怯えているようであった。唸りながらじりじりと後退するその様は、自分より強大な敵に出会った時の獣だ。

 一方、バルハラは普段のような穏やかな笑みをフェンリルに向ける。そして、目を閉じた。

 しばらくの沈黙。

「…………やあ、久し振りだね、フェンリル」

 そう言いながら、バルハラは瞼を開けた。その奥に潜んでいたのは、黒い瞳だった。


 桃色の天才少女は、ふくれっ面のまま教室へ走っていた。杖を持った目的は勿論、あの落ちこぼれたちが何をしているのか確かめるのである。教室から無関係なクラスメイトたちがいなくなるのを待っていたらしい落ちこぼれたちのため、一旦は学園から出た彼女だったが、タイミングを見計らってまた校舎内に戻って来たのだった。

「あたしに黙って何かするなんて……許さないわ」

 脳裏にふと、落ちこぼれの傍にいる黒魔女の少女の姿がちらついた。あの女、自分だけ関係者のような顔をして。見ているだけでむかついてくる。

 天才少女は走った。教室にいるであろう落ちこぼれとあの女の、自分が現れた時の驚愕した顔を想像しながら。


 フェンリルは不機嫌そうに顔を歪めた。彼の目の前には、標的を庇う淡い青髪の青年の姿があった。標的はといえば、怯えた表情でこちらを見ている。

「何故サタンを庇う?そこをどけ、ルシファー!」

「サタンは殺らせないよ」

 フェンリルに大きな声で脅されても、青年……悪魔王ルシファーの態度は揺るがない。

「じゃあお前からぶっ殺してやるよ!」

 フェンリルはルシファーに飛び掛かる。黒ずんだ瞳と白い牙が、まっすぐに彼を捉えた。

 しかしルシファーはそれを難なくかわし、片手を突き出した。そこから、黒い霧が放たれる。フェンリルは霧を警戒して飛び下がった。その瞬間、霧の中から黒い矢が幾本も飛んで来る。それは物凄い速さでフェンリルの纏う制服の袖とズボンを壁に縫い付けた。

 矢が刺さったのはたった四か所だけなのに、いくらもがこうとそれから逃れることが出来ない。フェンリルは歯ぎしりした。

 やがて黒い霧が止み、ルシファーがその向こうから現れた。彼は場違いな微笑みを向けた。

「これで終わりだよ、フェンリル」

 ルシファーが片手を挙げた。そこに、黒く禍々しい光が集まり始める。フェンリルはどうすることも出来ず、ただ目の前にある端正な顔を睨んでいた。

「ちょっとハウウェル!」

 高い少女の大声が、教室に響いた。フェンリルもルシファーも、そして隅で怯えていたハウウェルも、一斉に入口の方を向いた。

 声の主は腰に手を当て、普段と同じく不機嫌な表情だ。周囲を見ることもなく、つかつかと真っ直ぐハウウェルに近付く。

「あんた、あたしに内緒で何やってんのよ!」

 突如登場したメルチェイに、ルシファーはフェンリルから目を離してそちらを見た。

 それが、フェンリルが逃げ出す隙を作った。

 主の注意が逸れたことで拘束力の弱まった矢は、フェンリルが力を込めると簡単に抜け、床に落ちて消滅した。

 自由を取り戻したフェンリルは、その爪をたった今飛び出してきた少女へ向ける。

「逃げて、メルチェイ!」

 ハウウェルは叫んだ。

 ルシファーは慌てて魔法を放とうとするが、既にフェンリルの腕はメルチェイを捕らえていた。

「なっ、何よノルエ!」

 メルチェイは、急にクラスメイトに捕らえられて手足をばたつかせた。

 ハウウェルは咄嗟に杖をフェンリルに向ける。

「メルチェイを離せ!」

 獲物を捕らえたフェンリルは、ハウウェルを牽制するように大きな声で言った。

「こいつの命が惜しくば、お前の命を寄越せや!」

 ハウウェルは唇を噛んだ。

 一方、メルチェイはフェンリルの腕の中で喚いていた。

「ハウウェル、こいつがフェンリルとかいう悪魔なんでしょ!?早く助けなさいよっ!」

 ようやくここで、ノルエがフェンリルに憑依されていることを思い出したようである。

「そこまでこのガキの命は惜しくないか」

 自分に今何が出来るというのだ。魔法は使えないし、それを補う俊敏さも頭脳も腕力もない。完全に無力な存在であった。

 ハウウェルが動かずにいると、フェンリルは片腕を振り上げた。振り下ろす先は、メルチェイの喉だ。

「待って!……僕の命が欲しいなら、あげる。だからメルチェイを離して」

 ハウウェルは恐怖に震える身体に鞭打ち、立ち上がった。今自分に出来るのはこのくらいのことしかないのだ。落ちこぼれの自分には。

 しかし、フェンリルのもとへ歩み寄ろうとしたハウウェルを遮った者がいた。誰であろう、ルシファーである。彼はハウウェルの前に立ちはだかり、緩く首を横に振った。

「バルハラさん、どいてください!僕が出来るのはこのくらいしか……」

「バルハラ?それは俺の器の名だろう?俺はルシファーだ。サタン、君は何も思い出さないのかい?」

 バルハラは器の名。確かに目の前の男はそう言った。血を引いているだけでなく、彼もまたノルエと同じように【器】という存在だったのか。衝撃がハウウェルを襲った。

 今、ハウウェルのことをサタンと呼び、その顔を心配そうに覗き込んでいる師の瞳は、黒い。悪魔の力が強く表れている証拠だった。

「……まだ目覚めてないんだね。フェンリルは俺が追い払うから、君はあそこで大人しくしてて」

 ルシファーはマギィが倒れている辺りを指さしてそう言うと、送り出すようにハウウェルの背中を押した。

 ルシファーはフェンリルに向き直る。その手に杖を持って。

「【太陽の魔道士】……?う、器って……?」

 状況が呑み込めないメルチェイは、フェンリルの腕の中で困惑気味な表情をした。

「その子を離してもらおうか。サタンの器の、大事な人らしいからね」

「……お前はいつもそうだ。昔っからサタンサタンって…………だが」

 フェンリルは突如、メルチェイを乱暴に床に放った。肩を打ったメルチェイは、小さく呻き声を上げた。

「お前が俺と一対一で勝負してくれるってんなら話は別だ」

 腰を落とし、ルシファーを真正面から睨み据えるフェンリル。ルシファーも杖を構える。

 ハウウェルはただ、マギィに寄り添って悪魔の闘いを見ている他はなかった。

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