第36話 呼び出し
「明日の放課後、この教室に一人でいてくれ。いいな?」
随分と苦しげな息を吐きながら、ノルエは言った。自分の隣には、後ろに回した手に浄化の札を握っているマギィが立っている。
どう返事をしたらよいものかわからず、ハウウェルは横目でマギィに助けを求めた。すると、彼女はこちらに少し悲しそうな表情を向ける。
「じゃあハウくん、明日は一緒に帰れないね……」
頷いて。彼女の瞳はそう言っている。
「う、うん」
そこでもう限界だったらしい。ノルエは絶対だぞと念を押すと、教室を走り出ていった。
フェンリルから呼び出しがかかったことをバルハラに伝えるため、今日も転移魔法でアトリエに向かった。
ノルエ……いや、フェンリルのことを話すと、バルハラは苦笑した。
「フェンリルは物理的な力は強いけど、ちょっと頭が弱いからね。自分の
まるでフェンリルのことを以前から知っているような口ぶりである。ハウウェルは首を傾げた。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「一人で教室に来るようにって言ってたんだね?」
「はい」
バルハラの問いに、ハウウェルは素直に頷いた。
【太陽の魔道士】は少し考えるそぶりを見せた後、マギィさん、と彼女の方を向いた。
「気配を消すことは出来るかい」
「出来ます」
「よし。君は約束通り一人で教室に行ってくれ。マギィさん、俺たちは教室の外から様子を伺おう」
彼は力技で捩じ伏せようとするだろうね、と笑うバルハラの瞳は、黒かった。
三人の様子を、アトリエの窓から覗いている者がいた。不機嫌な表情を隠そうともしない。
「悪魔……?…………まあ、あたしをのけ者にしようったってそうはいかないんだから」
翌日、授業は順調に進んだ。フェンリルはいつものようにクラスメイトたちに自慢の破壊力を示していた。
そして、いよいよ放課後。ハウウェルとマギィは、他のクラスメイトたちが帰るのを他愛のない話をして待った。
しばらくして、いよいよ教室にはハウウェルとマギィとフェンリルの三人だけとなった。その途端にマギィは、「ハウくん、また明日ね」と言って教室を出ていく。
彼女がいなくなった直後、邪魔者はいないとばかりに、フェンリルはほくそ笑んだ。
「ノルエ……?僕に用事って?」
大丈夫。外では頼りになるクラスメイトが待機している。そう心に言い聞かせないと、友人の姿をした悪魔と向き合っていることなど出来ない。
フェンリルは口角だけを上げて笑った。それと同時に、綺麗な緑の瞳が黒く濁っていく。
「お前に罪はねえ。罪はねえんだが…………死んでもらうぜ」
ノルエの声で発せられた言葉を聞いて、ハウウェルは凍りついたように動けなくなった。自分を見据える双眸が、あまりにも獰猛で鋭いからだ。
フェンリルは喉の奥で唸りながら、じりじりと標的に近づいていく。
動けないでいるハウウェルに、フェンリルの腕が迫ったその時だった。
「そうはさせない!」
聞き慣れた少女の声と共に、フェンリル目掛けて一枚の小さな紙が飛んできた。フェンリルは、鬱陶しそうにそれを腕で無造作に払った。フェンリルに払われて壁に突き刺さった紙は、細々と呪文のようなものが浮かんでいた。そう、それは、浄化の札であった。
フェンリルは、教室に駆け込んできて人物を見て、忌々しげに舌打ちした。
「……黒魔女かよ。余計な邪魔すんじゃねえよ」
「ハウくんは私が守る!」
マギィは結晶魔法を放った。魔法陣より現れた鋭い結晶たちがフェンリルに飛来した。しかしフェンリルは俊敏な動作でそれを避ける。結晶は札のように壁に突き刺さるかと思われたが、刺さる直前に消滅した。
フェンリルは反撃に出た。マギィに飛び掛かり、爪を向ける。彼女はとっさに魔力で障壁を作り、防いだ。マギィの障壁とフェンリルの爪が接触した瞬間、火花が散った。
「へっ、んな魔法で俺の攻撃が防げると思ったか!」
第二撃、第三撃と攻撃を受ける度に、障壁に亀裂が走る。マギィの頬を、汗が伝った。
フェンリルは目をぎらつかせ、腕を振るう。
「サタンを……よこせっ!」
ガラスが割れるような音を立てて、障壁は崩れ去った。破片は静かに消えていく。
マギィはフェンリルを睨みつけ、火炎魔法を放った。炎の精霊ネロの加護を受けた炎は、フェンリルを中心に渦を巻いた。
「ハウくん、今のうちに逃げて」
マギィはハウウェルの背中を押した。思わず教室の外に向かっていこうとしたハウウェルだったが、マギィがその場を一歩も動かないことに気付いて、慌てて戻った。
「マギィも逃げなきゃ!早く……」
「私はここに残って時間稼ぎをするの。心配いらないから、ね?」
笑顔を向けるマギィ。そんな彼女を、ハウウェルは必死に説得しようとした。
「お願い、一緒に逃げよう!残ったら死んじゃうよ!」
「駄目。【太陽の魔道士】が来るまで、私が足止めしなきゃ」
これ以上の話は無駄だと言わんばかりに首を横に振ったマギィは、転移魔法でハウウェルを飛ばそうとしたらしい。転移魔法の呪文を唱えるため、口を開いた。
突然、物凄い風音と共に、熱風が二人を襲った。
「俺をこの程度の炎で封じ込められるとでも?」
フェンリルが炎をかき消し、不敵な笑みを浮かべていた。
マギィは、素早く転移魔法の呪文を口にしようとした。しかしそれよりも早く、フェンリルの腕がマギィの身体を薙ぎ払った。マギィは壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「マギィ!」
彼女に駆け寄ろうとするが、伸びてきた手に腕を捻り上げられ、それは出来なかった。激痛に俯いていると、前髪を掴まれ強引に顔を上げさせられた。目の前には、友人の姿をしたフェンリルが牙をちらつかせ笑っていた。
「おいおい、他の奴の心配なんかしてんなよ」
フェンリルは、空いた方の手を伸ばした。それは真っ直ぐにハウウェルの喉へと向かっていく。恐怖に満ちたハウウェルの表情を、愉快そうに見つめた。
「たまにはこんな顔を見てから壊すのも悪くないな。それがサタンなら尚更だ」
フェンリルの手が首に回される。ハウウェルはただ友人が自分の首を絞めているのを見つめることしか出来なかった。
その時だった。
フェンリル目掛けて凄まじい勢いの雷が落とされた。フェンリルはハウウェルの首から手をを離し、とっさに避けた。今までフェンリルが立っていた場所は、黒く焦げていた。
「遅くなったね」
ふいに聞こえた声に、ハウウェルは教室の入り口を見た。
そこには、杖を構えた紫色の瞳の師が、仁王立ちで立っていた。
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