2・エビフ

 戦の後には、地味な仕事が待っていた。

 論功行賞を始め、戦時体制の解除と兵隊の再編成、畑の現状確認と修繕の手配、キシュとの新たな関係構築のための使者の往来、やることは山ほどある。ビルガメシュはエアンナに赴き、政務をとる神々に立ち会った。

 エンリルが立って司会をつとめ、エンキが情報を報告し、イナンナが方針を決めていく。人の王は、決まったことをその通りに行うのが役目だ。発言の機会はない。

 一区切りつくと、ウトゥが座ったまま、手にした粘土板をテーブルに投げた。

「キシュからの献納、アンとイナンナに多いのはわかる。だが、その次がエンリルってのは、おかしくねぇか」

 立ったまま、エンリルがウトゥの放り出した粘土板を拾う。

「私の神殿には人が多い。彼らへの分配をするにはこれだけ必要なのです。いわば、民草への正当な報酬です」

「一番の功労者はビルガメシュだ。異論はないだろ。奴への褒美は、キシュの北の畑だけだ。報告では蛮族の住処に近く、安定した収穫は望めないとよ。これで民が納得すると思うのか」

 粘土板は神々の道具だ。使い方を、ビルガメシュは知らない。自分に分け与えられた畑がそんなところだというのも、ウトゥが口にしなければわからなかった。

 しかしわかったところで、ビルガメシュにはどうすることもできない。

 エンリルが子供をなだめる父親のように、言う。

「人間がそもそも何のためにいるのかを考えてください、ウトゥ。アヌンナ諸神を労働から解放するため、エンキが粘土から作ったのが人間です。人は神のために働き、我々はその見返りとして、安寧と栄華を約束する。我々がいなければ、ウヌグの繁栄もないのですよ」

「そうじゃねえだろ、エンリル。キシュとの戦いで、お前は何をした。何もしてねえのに、もらうものだけはもらおうってのは、筋が通らねえだろうが」

 太陽神の腕の肉が盛り上がり、周囲に熱気がたちこめる。嵐の神の髪が風になびき、服の袖が揺れる。ビルガメシュは瞳だけを動かし、2柱の神を見比べる。

 アンが身じろぎもせずに、低い声で言う。

「エンリルは、ウヌグで信者を大勢抱えている。分配は必要に応じて行うのだ」

「しかし」

「流れ者が口をはさむな」

 灯りが一瞬勢いよく燃え盛り、アンの影を部屋の壁に大写しにした。

 神の影がゆらめく。テーブルと椅子、その場にいる神々と王すべてを食らおうとしている。ビルガメシュにはそう思えた。

 張り詰めた沈黙を、ウトゥの声が破った。

「失礼した。俺はここでは新参だ。これ以上言うことはない」

 アンの姿がしぼみ、老いた神のそれに戻る。ビルガメシュは緊張していたのに気付き、細く長く息を吐き、深く吸い込む。

 イナンナがビルガメシュを見る。気遣うような目だ。エンリルが別の粘土板を取り上げた。

「最後に。キシュの神、ザババが問題を報告してきています。北方のエビフ山に住むフワワが、香柏の輸出を拒んでいるそうです」

 イナンナが身を乗り出す。

「なぜです? 麦が嫌だと言うなら、黄金でも瑠璃でも良い、キシュよりも良い条件で取引をすると伝えてあるはずでしょう」

 エンリルが顎の先をビルガメシュに向ける。

「キエンギとアガデの王として、ビルガメシュを認めないと言っているそうです」

 イナンナが両の手のひらでテーブルを叩く。

「馬鹿な。ウヌグ王には、この私が祝福を与えたのです」

「蛮族は神を恐れぬから蛮族なのです。もしくは、ビルガメシュを軽く見ているのでしょう。例の流行り歌は、キシュでも知れ渡っているようですから」

 エンキが穏やかに口をはさむ。

「ザババが、フワワとウヌグの仲立ちを妨害しているということは? 互いへの言葉を正確に伝えていないかもしれない」

「考えられます」

 我が意を得たりとばかりに、イナンナが同意する。エンリルがため息をつく。

「いずれにしろ、放置できませんね。こうなれば、直接フワワと交渉したほうがいいでしょう。ビルガメシュ、行ってくれますね」

 エンリルに返事をする前に、イナンナが割って入る。

「蛮族を相手に、王を遣るのですか?」

「残念ながら、女神は香柏の重要性を、見くびられているようですね。キエンギの地には、大きな樹木は育ちません。使えるものはせいぜいアサルくらいです。このエアンナにも、我々の神殿にも、建築材として多くの香柏が使われています。この机もそうです。つまりは、軽々しく人が使えるものではない」

 エンリルは人差し指を曲げ、巨大な机を軽く叩く。

「香柏がなくては、神殿も建たない。文字通り、神々の威信を支えているのが香柏なのです。フワワが交易を断ったと知れれば、他の都市、例えばウルやラガシュが、ウヌグを軽視する因となります。香柏はただの木材ではない。それ以上のものです」

「それはわかっています。しかし、ウヌグが手薄になりましょう」

 もどかしそうに指をからめ合う様子に、イナンナの不満が表れている。エンリルが続ける。

「キシュを倒し、王の軍は解散させました。話し合った通り、減収が続いていた大麦の生産回復に人手をあてるのが最優先です。ウヌグの守りは、アン様の精鋭と私の神殿から出します」

「まるで事前に、嵐の神と話し合ったようですね、父上」

 イナンナが皮肉を叩きつける。

 老いた神が身じろぎもせず、干からびた唇を動かす。

「例え話を言うならば、これはまるで天空にわたしを押し込め、嵐と大地のどちらがウヌグを治めるか競い合っているようだ。わたしは、後継者争いは望まぬ」

 イナンナがひるんだように身を引く。

「何も、そんなつもりは……」

「ならばよい」

 アンが口を閉ざしたのを確認して、エンリルが言い渡す。

「ウヌグの王ビルガメシュよ。北に旅立ち、フワワから香柏を手に入れるのです。反抗するようであれば、彼らを殺してもかまいません」

 ビルガメシュに選択肢はない。

「仰せのままに」

 キエンギとアガデの王となっても、何も変わらない。ビルガメシュは人間の王であり、神々の下僕でしかない。

 会議室を出ると、アンの神官が背後で扉を閉めた。一人は顔に布を巻いて、右目を覆っている。

 戦で負傷したのか、とビルガメシュは考える。アン神殿のものは動員していない。いずれにしろ、アン神殿のことはアンが考えることだ。


 4頭立ての驢馬が4台、道を行く。先頭の荷台には、羊の皮を縫い合わせた幌がかけてある。後方の3台は荷物を積み、武装した兵士が分乗している。

 ビルガメシュは先頭の驢馬車に乗っていた。御者台では兵士が手綱をとっている。幌が秋の日差しから身を守ってくれている。

 王は皮袋から水を飲み、口元を乱暴に拭った。

「やはりわたしは反対です。今からでも、戻ったほうがいい」

 皮袋の口を縛り直す。目の前に神が座っている。

 エンキと、イナンナだ。女神は丸い右肩をあらわに、皮の衣を着ている。

「私が戻れば、兄の兵も共にウヌグに戻る。お前はエンキと二人だけで、エビフに行かなくてはならない。それでは、私が不安だ」

 エンキが自分の棍を眺めながら言う。

「女神からすれば、ウヌグに残るより、君といるほうが安全かもしれないよ。ビルガメシュ」

「そうは思わないが。どういう意味だ?」

「この前の話し合いで、アン様がイナンナ様を疎んじているのがわかった。これまで日陰にいたエンリルを後に据える気だ。キシュを片付けた今、君がいないウヌグは危険だということさ」

 ビルガメシュはまじまじとイナンナを見詰めた。

「しかし、神々は不死の身でしょう。危険がありますか?」

 イナンナは目を落とし、不安そうに両手で膝を抱える。

「その話はしたくない。とにかく、一緒に行く」

 エンキが身を乗り出す。

「僕らは運命共同体だ。アン様に気に入られていない。まとまって行動したほうが、何か起きても対処しやすい」

「俺が命を狙われるのはわかる。しかし、神が神を除こうなどということは有り得るのか?」

 エンキが微笑する。

「ウトゥはシッパルを追放されている。僕だってもとはエリドゥにいた。神々の勢力争いは、今に始まったことじゃないさ」

 イナンナが身を丸めたまま、小声で言った。

「それから、ビルガメシュ。妻の私に他人行儀な話し方はやめろ。エンキと同じように話せ」

「畏れ多い。それはできませぬ」

 イナンナは顔を上げ、きっとビルガメシュを睨んだ。

「女神として命じる。ウヌグに帰るまでだ。私をお前の妻、人間のイシュタルとして扱え」

 そんな命令があるか。ビルガメシュは心の中でぼやく。

 エンキがまた横槍を入れる。

「もう一度言おう。キシュを倒したことで状況が変わったんだよ、ビルガメシュ。アン様は、イナンナ様が君を手なづけられないことに業をにやしていた。アッガという敵がいなくなった今、逆に、形だけでも君の妻というだけで、イナンナ様が邪魔なのさ。イナンナ様と君に、民衆の支持が集まりだしているからね」

「実感はないな」

「神殿にいるとわかる。参拝者や貢納の集まり具合なんかでね。女神と組む利点は大きいよ」

 女神の衣は、胸のところではちきれそうに張り出している。

 イナンナは魅惑的だ。身体つきはもちろん、懸命に王の力になろうとするその姿が。ビルガメシュは刃や角よりも、女神の白く柔らかそうな肌を恐れた。今も、その魅力に囚われるのを恐れている。

 だが、女神が庇護を求めてくるなら、拒むのは得策ではない。

「……いいだろう。ただし、俺の指示には従ってもらうぞ。イシュタル」

 『イシュタル』がにっと笑う。

「わかった。言うこと聞くよ、ビルガメシュ」

 甘えるような口調に、ビルガメシュは鼓動が速くなるのを感じた。

 驢馬車が歩をゆるめ、止まった。ビルガメシュは御者台へ向き直った。

「どうした。何故止まる」

 兵士が振り向く。

「道に、兵士が倒れています」

 聞くなり、ビルガメシュは荷台から飛び降りた。

 追ってこようとするエンキとイシュタルを、左手で制する。ゆっくりと前進する。

 マントを着て兜をかぶった男が、道にうつぶせに倒れている。兜の縁を渦巻きの模様がぐるりと囲んでいる。キシュの紋様だ。右手には槍を握っている。

 ビルガメシュは呼吸で胴が上下していないのを確認し、大股に近づいた。 

 首の後ろに手を添え、頭をぐるりと回す。乾ききった唇から、干した羊肉のような舌が零れ落ちる。瞳は薄黒くにごり、目玉に砂がこびりついている。髪の毛は乾ききり干草のようだ。胸元が黒い血で汚れている。マントをずらし検めると、肩の肉がえぐれていた。

「キシュの兵だ。死んでいる」

 ビルガメシュはウトゥの兵に、兵士の死体を最後尾の驢馬車に積むように命じた。二人の兵が死体の脇の下と両足を持ち、運んでいく。

「何をするの?」

 イシュタルが美しい眉をひそめる。ビルガメシュは陽光に目を細める。

「この道の先はキシュだ。傷を負って、帰ろうとしたが、力尽きたんだろう。彼がどんな人生をおくったかはわからないが、最後に故郷のことを考えただろう」

「答えになってないわ。敵の兵士の死体を、どうするつもり?」

 ビルガメシュは首を振った。

「彼はウヌグと戦ったが、ザババとアッガに命じられて、否応なくしたことだ。彼の死に、俺は大きな責任を負っている。キシュへ連れて行く。これぐらいのことはしてやりたい」

 エンキが腕を組んで驢馬車に寄りかかる。

「いいんじゃあないか。どうせキシュは通り道だ」

「せっかくの旅なのに。死体と一緒だなんて嫌よ」

 ビルガメシュは右手の人差し指を立てた。

「俺の言うことは聞いてもらうぞ、イシュタル。さっき念を押したばかりだ」

 イシュタルは、丸い肩をすくめた。

「そうだったわね。従いますわ、だんなさま」


 2日経ち、一行はキシュに到達した。

 キシュには城壁がない。日干し煉瓦の住宅が寄り集まり、中央に白い建物が見える。ザババの神殿だ。

 ウヌグから北に伸びてきた道は、キシュの南側につながって終わっている。兵士が独りで、槍を右手に持ち、道の右脇で歩哨に立っていた。

 手綱を取っていたビルガメシュは、驢馬車を兵士から三ニンダン(十八メートル)ほどの距離で止めた。兵士が槍の穂を突き出して近づいてくる。

「何者だ」

 ビルガメシュは両手をひろげて肩の高さに上げ、害意がないことを示した。

「ウヌグから来た商人です。目的地はシッパル。水と食料を買いに立ち寄りました」

 兵士の槍が少しだけ下がる。

「驢馬車四台とは豪勢なことだ。荷台を調べさせてもらうぞ」

「その前に、お見せしたい」

 ビルガメシュは指を鳴らし、後方に合図した。ウトゥの兵士が二人、羊の毛皮にくるんだ長い荷物を抱えて驢馬車から降りる。ビルガメシュも御者台から降りた。兵士が慎重に槍を構えなおす。

 兵士二人は荷物をそっと地面に横たえ、後方に下がる。ビルガメシュは片膝をつき、厳かな手つきで毛皮をめくった。

 遺体の顔が現れる。舌は口に収め、瞼も閉じて、丁寧に拭き清めてある。乾き衰えていることには違いないが、いくらか見られる状態になっていた。

 兵士が左手で口を覆う。槍を持つ右手がだらりと下がる。ビルガメシュは言った。

「道中に倒れていました。ウヌグとの戦に出た、キシュの兵士ではありませんか」

 兵士は大きく肩を上下させ、何度も口元をぬぐってから、声をしぼり出した。

「わたしの弟だ」

 ビルガメシュは目を見張った。

 兵士は槍をその場に突き立て、ビルガメシュの向かいに膝をついた。遺体に差し伸べる両手が震えている。

 ビルガメシュは短く、悔みの言葉を口にした。

「残念です」

 兵士の目からどっと涙が溢れ出す。

「こいつは歌が好きだった。いつも竪琴を弾いて、歌を聞かせてくれた」

 兵士の両手が遺体の頬をつつむ。涙が動かない唇をぬらす。

「兵士なんて……向いてなかったのに」

 ビルガメシュは立ち上がり遺体から離れた。エンキがすぐ後ろに立っていたのに気づく。

「何か言ってやってくれ、エンキ」

 知恵の神は顔を伏せ、静かに首を横に振った。

「僕は、語るべき言葉を持たない」

 ビルガメシュは誰にともなく言った。

「魂は冥界へ行くのだろう。出ることのない家、戻ることのない道、埃と粘土を食らう暗闇。大地の下、深淵(アプスー)と並ぶところへ」

「誰でも知っている物語だ。改めてそんなことを聞かされて、慰めになるかい」

 ビルガメシュは急に不安を覚え、砂を蹴立てて御者台に上った。

「水と食料を買う。行こう、エンキ」

 沈んだ顔で、エンキは荷台に乗り込んだ。


 補給を終えた一行は、キシュを越えて更に北西へ進んでいた。

 御者台、ビルガメシュの右にはイシュタルが座っている。

「姉の、エレシュキガルとは親しいか?」

 冥界の女主人だ。今はウヌグとキシュの中間、クタにいる。

「色々あったから、仲はよくないわね。冥界のことを知りたいの?」

「ああ。イナンナは行ったことがあるはずだ」

 イシュタルは両膝を抱えた。

「その話も知ってるでしょう? 裸にされて殺され、壁に吊るされた。ドゥムジを身代わりにして、やっと帰ってこられたのよ。あなたの前のウヌグ王をね」

 皮肉を言うような口調を、ビルガメシュは無視した。

「とにかく行ったことはある。それに、帰ってくることもできる」

「神だからよ。女神イナンナでさえそんな目に遭った。人間は戻ってこられない」

「そうだろうか」

「何よ。不死にでもなりたいの? とんだ思い上がりだわ」

 ビルガメシュは横目にイシュタルを見た。長い睫毛が憂いがちに伏せられている。物想いに沈んでいるようだ。その睫毛を眺めながら言う。

「神々と人間は、何千年も前からこの大地に住んでいる。それなのに、冥界について知られていることはほとんどない。人は死を恐れる。恐れなくてすむ方法があれば……」

 ビルガメシュは唇を噛み、しばらく考えてから、後を続けた。

「人が最も恐れることは、死だ。知恵の神が語るべき言葉を持たなければ、人は、何を支えに生きていけばいい?」

 イシュタルは膝の上に顎を乗せた。

「昇った太陽は沈むし、栄えた都市は滅びる。泉はいずれ枯れるし、城壁は崩れ落ちるものよ。だからそれまでの時間、互いに愛し合って精一杯生きるの。都の古老は、それが人間が生きることだと伝えている」

 イシュタルは左手を伸ばし、ビルガメシュの腿に乗せた。

「私は、それが間違ってないと思う。あなたにも、そうしてほしい」

 ビルガメシュは手綱を握り、前を見つめたまま、答えなかった。

 イディギナ(ティグリス河)を越え、支流を遡る。

 ウヌグを出て10日、一行はエビフに到達した。

 エビフ山には針葉樹が生い茂っている。山裾が左右に伸び、ぐるりと盆地を取り囲んで三日月の形を描いている。その山裾に抱かれるように、集落があった。

 大きくはない。日干し煉瓦の家がまばらに建ち、皮の天幕が周囲を取り巻く。

 手綱をとるビルガメシュの隣には、エンキが座っている。

「フワワのことを復習しておこう。奴は北方のスビル族だ。キシュとの交易で香柏を輸出している。代わりに輸入していたのは大麦だ。この辺りは灌漑が不十分で、畑を作っても、収穫高が少ない。彼らは決して豊かではないんだ」

「スビルってのは、本当に天幕に住んでるんだな」

 ビルガメシュは目をすがめた。エンキが眉の上に手をかざす。

「彼らは遊牧民だ。季節によって、牧草の生える地を求めて旅をする。移動をたやすくするために、持ち運びが楽な天幕を使ってるんだ」

 道の両脇には短い草が茂り、羊が群れでその草を食んでいる。

 幌の中から、鼻をつまみ、顔をしかめて、ひょいとイシュタルが顔を出す。

「すごい臭いね。何?」

 ビルガメシュは振り向く。

「羊だよ。このあたりはスビルの牧草地のようだ」

 地平線の彼方まで緑色の草原が続いている。所々で羊が草を食んでいた。

 イシュタルが目を細める。

「こんなに広いエディン(草原)、初めて見たわ」

「羊にとっては楽園だな。ウヌグはどこも灌漑をして、畑になってしまったから」

 時折道の脇で、糞が太陽に茹でられている。金色に光る大きな蝿がブンブンと唸っている。

「羊ってこんなに臭うの? 驢馬と違うわね」

 イシュタルがまた鼻をつまみ、顔の前で片手を振る。

「驢馬は手入れしてるからな。あなたが着てる毛皮、もとはこいつらのものだぞ」

「うえっ」

 驢馬が道に落ちていた羊の糞を踏みしだいた。

「ちょっと、踏んだ! いま踏んだわよ!」

「やかましい。フワワが逃げてしまうぞ」

「あはは。よくあることさ」

「信じられない。二人とも、何で平気なの?」

 ひとしきり笑うと、エンキは口調を改めた。

「いいかい、ビルガメシュ。何としてもフワワに交渉に応じさせるんだ」

 ビルガメシュは意味もなく手綱を引いた。驢馬が歩みを緩める。

「わかってる」

「エンリルは殺してもいいと言ったが、そうなればスビルとウヌグの溝は決定的になる。アンとエンリルに、君を粛清する口実を与えてしまうだろう。穏便に商談をまとめるんだ。僕らがウヌグで生き残るには、それしか道はない」

 ビルガメシュは片手を手綱から離し、懐から焼き固めた粘土を取り出した。

「お前が用意してくれたこれがある。話の通じる相手なら、まとまるだろう」

「相手は蛮族だ。考えが読めない」

「蛮族も人間だ。通じるさ」

 近づくと、天幕から子供たちが走り出てきた。わあわあと歓声を上げながら、驢馬車に小さな人垣がまとわりつく。

 ビルガメシュは一番背の高い少年を見定めると、手招きをしてから、無造作になつめやしの袋を投げ与えた。

「大人の男と話がしたい。誰か呼んで来てくれ」

 少年は周囲の子供たちに何個かなつめやしを配ってから、答えた。

「夜には戻るけど、今、男はいない。羊に草をやりに、町の外へ出てる」

「なるほど。では君が、フワワのところまでわたしたちを案内してくれ」

 少年がいぶかしげに眉をひそめる。ビルガメシュは言った。

「ウヌグの王、ビルガメシュが会いに来たと伝えてくれ」

 それを聞くと、少年は弾かれたように走り出した。ビルガメシュは笑い、手綱をとった。

 天幕と日干し煉瓦の住宅は、東西に分かれて作られていた。ただしその間隔は1ニンダン(約6メートル)ほどしかない。驢馬車はその狭い街路を、縦一列になって進んだ。

 家の中から、粗末な皮をかぶった女性たちが顔を出す。物珍しそうに驢馬車を眺めている。まずは敵対的な雰囲気ではない、とビルガメシュは観た。

 直径4ニンダン(約24メートル)ほどの広場に出た。中心にひときわ大きな皮の天幕が張ってある。入口の両脇に、1ニンダンはある角のようなものが立ててある。少年はその間に駆け込んでいった。

「あれは何だ? 牛の角にしては大きすぎるな」

 エンキが顎を撫でる。

「象の牙だね。西の彼方の国の、巨大な獣のものだよ」

「……何でも知ってるな、あんた」

 少年が天幕から出てくる。

「フワワ様が会うって。ただし、みんなは入れないよ」

「エンキ、イシュタル、来てくれ」

 ビルガメシュは小声で言うと、御者台から飛び降り、叫んだ。

「兵はここで待て」

「あたしも行くの?」

 イシュタルは戸惑っている。エンキが御者台から降りながら、笑う。

「いいじゃないか。これも経験だよ」

 ビルガメシュを先頭に、王と神々は天幕の内へと入った。中は薄暗い。中央の炉で小さな火を焚いている。煙が立ち上り、天幕の上に空いた穴を通って、青い空へ消えていく。

「けむい」

 イシュタルが片目をつむって咳き込む。ビルガメシュは目を細めた。

 暗がりに目が慣れるにつけ、ものが見えてくる。

 男が天幕の奥に座っている。顔の上半分が異様だ。黒い顔料でのたうつ腸のような模様が描かれている。だがその奥の瞳は瑠璃色の落ち着いた光を放ち、長い年月の間に培った叡智をほのめかしている。

 髪と同じ灰色の髭が顔の下半分を覆っている。身体には皮の衣をまとい、短い袖から突き出た腕は大きな木の瘤のように膨れ上がっている。

「ウヌグの王、ビルガメシュだ」

 ビルガメシュは軽く頷いてみせた。

「この男は部下のメバラゲシ。女は妹のマルトゥです」

 神々の名と身分を明かすわけにはいかない。

 壮年の男は、しばしエンキのいるほうを見つめ、ひとつ頷いた。

「スビルの長、フワワだ」

 そう言うと、フワワは蓆に胡坐をかいた。

「席はある。座るといい」

 ビルガメシュは合図をして、エンキとイシュタルを後ろに座らせた。炉をはさみ、フワワと向かい合って腰を下ろす。

「辺境の民ゆえ、礼儀というものは知らん。率直に訊ねよう」

 フワワは像を置くと、身を乗り出した。

「ウヌグは我々を滅ぼすつもりか?」

 ビルガメシュは首を横に振った。

「そのつもりはない。話し合いに来たのだ」

 フワワは節くれだった指で、下顎の髭に触れた。

「キシュの使者は、材木の値を半分にしてウヌグへ売れと言ってきた。この条件では、我々に死ねと言っているようなものだ。勝敗はどうあれ、スビル族はいくさをするしかなくなる。さて、これはビルガメシュ。貴様の意思なのか?」

 王は再び頭を振った。

「ウヌグはスビルとの交易を望んでいる。互いに利益になるような条件でだ」

「ならば、キシュが嘘をついているというのか?」

「そうだ。キシュが何を言ったにしろ、スビルと取引をするのはウヌグだ。キシュよりも多少だが、有利な条件にできる」

 フワワが手を、脚の上に下ろす。

「我々は、キシュと何十年も取引を続けてきた。信頼関係がある。いきなりそちらの言い分を信用しろというのは、難しいな」

「証拠となるものを持参した」

 懐から、焼き固めた粘土を取り出し、ビルガメシュは炉の上に示した。

「それは?」

「取引の条件を記してある。ここには、キシュよりも少しだが高く香柏を高く買い取るとある」

 火の上で、フワワは粘土を受け取る。裏返し、陰影を入念に改める。

 葦のペンで記した、三角と線を組み合わせた紋様に、フワワが指をはわせる。

「印がつけてあるな。南方で使うまじないか」

「キシュの使者は、それと同じような粘土板をエビフに届けたはずだ」

 フワワが、腸のような隈取りの間からじろりと王を睨む。

「ここにある。そこに、取引はこれまでの半分の価格で、とあったのだ」

「あなたは、我々の神々のまじないに通じているのか。内容を理解できるのか?」

 フワワは表情を崩さない。

「三角と線の組み合わせがあるのはわかる。それが物事を表すのも知っている」

「だが使うことはできないはずだ。慣習では、使者がそちらに粘土板を渡すとき、口頭で内容を言葉で伝えることになっている。キシュの使者が、そちらに半分の価格でと言ったのだろう。今手渡したその粘土板と、キシュの使者が持ってきた粘土板を、比べてみるのだ」

 フワワはしばしビルガメシュをねめつけてから、立ち上がった。背後の棚から同じような粘土板を取り出し、重ねて持つ。

「私はこのまじないに通じていない。比較はできない」

「大した手間ではない。両方を見比べて、印に違いがないか、あるとすればどこか突き止めるのだ。それだけならば、時間をかければできるだろう。目が衰えていなければな」

 右手にキシュの粘土板を、左手にビルガメシュのそれをもち、フワワは左右に視線を振った。

 天幕の中に静寂が落ちる。炉の中で炭が爆ぜる音がした。

 かなりの時間の後に、フワワは顔を上げた。

「異なるところはないようだな」

 ビルガメシュは心の中で安堵の吐息をついた。

「ならば、キシュの使者も粘土板までは偽らなかったということだ。それを保管しておけば、ウヌグが出した条件の証拠になる」

「ウヌグは、粘土板を取引の保証にすると約束するのだな?」

 ビルガメシュは頷いた。

「キエンギでは、契約は何より重視される。王であれ神殿であれ、反故にすれば糾弾される」

「我々にとって、約束は神聖なものだ。ひとりが守るべき誓いは、ヴァルナがつかさどる。ふたりが交わした契約は、ミスラがつかさどる。違約すれば、それぞれ水と火において裁かれる」

「わかった。祀る神々を違えども、我々が意するところは同じだということだ」

 フワワは粘土板を脇に置いた。

「いいだろう。ここで、このまじないを作り直すことはできるのか?」

 ビルガメシュは振り返ってエンキを見た。

「メバラゲシはまじないを扱える。多少なら、値段を上げて契約を結びなおすのは構わない」

フワワは膝を叩き、目元に皺を寄せて笑った。

「よかろう。酒を出す。飲みながら条件を話し合おうではないか」

 フワワは声を上げ、天幕の外から人を呼んだ。

 麦酒となつめやし酒、少しの羊肉が出た。フワワはしきりに勧めたが、ビルガメシュはあまり手をつけなかった。代わりに、エンキが興に乗って酒杯を重ねた。ビルガメシュは意外に思いながら、神の赤い頬を眺めた。

 粘土板に刻まれた条件よりさらに大麦を上乗せし、ビルガメシュとフワワは妥結をみた。

 用意したまっさらの粘土板に、エンキが契約内容を刻んだ。同じものを2枚。

 ウヌグの王はエビフの長に小さな瑠璃の円筒を渡した。中心に穴を空け、革紐を通してある。

「これは?」

 フワワは革紐をつまみ、顔の横に円筒を垂らして、横目で見つめた。

「印章だ。贈り物だよ」

 同じような円筒をもう一つ取り出し、ビルガメシュは粘土の上に転がした。エンキが刻んだ深い線の上に、両腕に一つずつ雄牛の首を抱えた男の姿が、薄く、粘土板に転写される。

「絵を刻んである。紋様の上に重ねることで、内容が改竄されていないことを証明できる。そちらの粘土板にも、渡した印章を転がしてくれ」

 フワワがその通りにすると、椅子に座り杯から呑む男の像が粘土板に浮かんだ。

「こちらにくれ。このあと、おれの粘土板をそちらに渡す」

 ビルガメシュは狩りの図の粘土板を右手に、饗宴の図のそれを左手に持ち言った。

「これで、おれの手元にはフワワの手にある印章を押した粘土板が残る。そちらの手にはその逆だ。互いに、同じ内容の契約に同意した証が残るわけだ」

「ふむ。なるほど」

 フワワも粘土板を受け取り、印章と見比べた。

「役に立ちそうだ。これからは契約のときに、使わせてもらうことにしよう」

「そうしてくれ。より公正な取引ができる」

 粘土板をかまどで焼き固めるのに一夜。その作業の間、一行はエビフに宿泊した。同じ内容だが異なる図柄が入った粘土板2枚を、ビルガメシュとフワワがそれぞれ受け取った。

 あとはウヌグに帰るだけだ。

 明けた朝。御者台の、エンキの隣に、ビルガメシュは腰掛けた。

「奮発したね。良かったのかい?」

「エンリルが言っていたな。香柏はただの木材以上のものだ。それにおれの考えだが、スビルをまとめるフワワの力は、必要だ。あれだけ出す価値はある」

 荷台から、イシュタルが子供たちに手を振っている。一晩のうちに、少女は異民族の少年少女たちと打ち解けたらしい。ビルガメシュは後ろを振り返った。

「イシュタルは、どんな魔法を使ったんだ?」

 エンリルが可笑しそうに笑う。

「お話さ。物語だよ。神殿には過去の神々や英雄の説話がたくさん伝わっているからね。女神イナンナが、かつてここ、エビフを訪れたという話をしたようだよ」

 ビルガメシュは口笛を吹いた。

「そりゃあ知らなかった。事実なのか?」

「もう少し北西に、数百ダンナにわたって大地が引き裂かれたあとが残っている。イナンナにそれが可能かどうかはともかく、アンに逆らってエビフの山を崩したという話は残っているよ」

「すさまじい話だな。神話というのがどこまで真実を伝えているのか、疑問だよ」

「確かに誇張や脚色はあるし、原型を留めないほどに変形してしまったものもある。一方で、確かな知恵も伝えているのが神話ってものさ。イナンナにしたら、自分の力を北方に広めようと言う魂胆があるんだろう。将来は、ここまで信者を広めるつもりなのかもしれないね」

 ビルガメシュは驢馬車を進めた。

「信仰が共通になれば、統治がしやすくなるな。そこまで考えているのだろうか?」

「そうだな。彼女は彼女なりに、ウヌグのことを考えているよ」

「後ろはついてきているか?」

 エンキが後ろを振り向く。

「大丈夫だ。名残惜しいが、来られて良かったよ」

 ビルガメシュは頷いた。まず目指すのはキシュだ。

 イディギナの支流を下る。半日ほどは、何事もなく過ぎた。川沿いは隔てるものもなく、耕すものもない荒地が続いている。まばらに、低い潅木が生えているだけだ。

 砂混じりの風が吹く。潅木の葉が揺れる。ビルガメシュは驢馬車を止めた。

「気づいたか?」

「……いや。やはり来たのかい?」

「そのようだ。風とは逆方向に、木が揺れた」

 ビルガメシュが飛び降りるのと、砂の下から兵が現れたのは、ほとんど同時。

 30人近い兵は、みな牛の頭をしていた。棍棒を持っている。道の前方、両脇、後方にも。ビルガメシュたちは囲まれていた。地面に皮をしき、砂をまいて、その下に隠れていたようだ。

「グアンナだ」

 驢馬車の脇に吊るしていた棍を手に取り、天にかざす。

「全員、驢馬車を降りろ!」

 イシュタルが顔を出す。ビルガメシュは言葉を叩きつける。

「イシュタルは例外だ。奥で革をかぶっていろ! 頭から足の先まですっぽりとだ」

 彼女の身に傷がつくようなことは万が一にもあってはならない。少女が目を丸くし唇を結んで奥に引っ込む。代わりに太陽神の兵士が棍を突き出す。後方の驢馬車からばらばらと革の衣を纏った姿が飛び降りエンキとイシュタルが乗った驢馬車を取り囲む。ウトゥの兵ではない。その数約40。いずれもエビフの若者だ。天牛たちがわずかにひるむ。

 ビルガメシュの横に、フワワが並んだ。王は長に軽く頷いてみせた。

「襲うとしたら帰路だ。予想が当たった。助力に感謝する」

「エビフに野心を抱かないという約定は、遵守していただく」

 棍を右手で前にかざし、半身になってフワワが構える。

「約束する。正面をこじ開けて驢馬車を通すぞ」

 ビルガメシュの正面、道の中央には二十人ほどの天牛が固まっている。中央の一人は、右目がつぶれて大きな傷跡になっていた。

「貴様か」

 苦い思いがこみ上げる。ウヌグ防衛戦で棍をまじえ、エンキが右目を射抜いた。隻眼の天牛は手にした棍を差し上げ、ビルガメシュを指した。牛の口が開き唾液が歯の間で糸を引く。張りのある声は、その牛の口から発したものらしい。

「天に弓を向ける愚か者どもめ。辺境の塵と化すがいい」

 ビルガメシュは大股に間合いを詰めながら、叫び返した。

「黙れ。私の前に立ち塞がるのは、イナンナに戦いを挑むのと同じことだ。身の程を知れ」

 天牛が棍を振りかぶる。

「我々こそがキエンギとアガデの支配者だ。この身に傷をつけた報い、思い知れ」

 ビルガメシュは一気に踏み込み、棍を振り下ろした。隻眼が退き、別の天牛兵が棍を受ける。後ろからフワワとエビフ兵が殺到する。天牛兵の列が肉弾の打撃を受け崩れる。ビルガメシュは肺の奥まで熱い大気を吸い込み、大音声に変えた。

「走れ! 絶対に振り向くな!」

 頭のすぐ後ろを驢馬の足と車輪が走り抜けていく。知恵の神が短く叫ぶ。

「死ぬな、友よ!」

 ビルガメシュは笑った。身体の芯に熱いものが満ち四肢へとめぐって力に変わっていく。棍を振るうと天牛の頭が飛んだ。エンキとイシュタルの驢馬車が道を進んでいく。満載した太陽神の兵が神々を守るだろう。天牛の群れがそちらに向きを変えようとする。ビルガメシュはその背中に棍を叩きつける。背骨が折れ血液と骨髄が王の半身を汚す。

「絶対に追わせるな、ウヌグは黄金と美女で報いる。ついでにウヌグ王ビルガメシュからの生涯にわたる感謝も付けよう。この一時が、ウヌグとエビフの将来を変える」

 打ちかかる棍を撥ね返す。風で倒れかかる葦のようにしか感じない。棍を振るうたび天牛の身体がはじけ飛び血が噴き出る。

 ビルガメシュは、全身朱に染まりながら咆哮を上げた。


 隻眼が呪詛の言葉を叩きつける。

「ビルガメシュ。貴様は天と神と人について、何も理解していない」

 牛の口からは血が垂れている。天牛兵は隻眼を入れても、4人にまで減っていた。

「貴様が人である限り、勝つのは我々だ」

 2人を殿軍に残し、隻眼は背を向けて撤退を始めた。

 追おうとして、ビルガメシュは疲労の重さを感じ、その場に膝をついた。大地に棍をついて身体を支える。

「待て」

 声が枯れている。大きく肩で息をするビルガメシュに、フワワが皮袋を差し出す。

「ここまでだ。我々の勝利だ」

「追わなくては」

 あがくビルガメシュの前でフワワは袋の紐を解き、ビルガメシュの口に突っ込んだ。清水が咽に流れ込んでくる。ビルガメシュはむさぼるように飲み、咳き込み、腰を下ろした。フワワは隣に膝をついた。

「あなたがその体たらくでは、どうにもなるまい。今は妹御の驢馬車と合流するほうが先だ」

「こちらの損害は?」

 フワワは目を落とした。

「二人やられた。浅手が5人」

「あとで戦死者の名前を教えてくれ。敬意をもって報いる」

「スビルの長として感謝する」

 フワワは王の瞳をのぞきこんだ。

「猛き雄牛のビルガメシュの戦いぶり、しかと見せてもらった。怪異の兵を一人で20も葬るとは、聞きしに勝る勇猛さだ。あなたでなかったら、我々の犠牲はもっと大きかっただろう」

「おれは、そんなに倒したか」

「怪我はないか?」

「痛みはないが、ひどく興奮しているからな。服を換え、身体を洗ってみなくては」

 フワワがぐっと顔を寄せる。

「あなたは尊敬されて然るべき王だ。この3日で、それがよくわかった。にも関わらず、あなたは部下に恵まれていないようだな」

 ビルガメシュは苦笑した。

「そう思うか?」

「王を守る兵が誰もおらんではないか」

「おれは自らの身を守れる。マルトゥはそうではない」

「わずかな手勢で僻地に来たことを言っている。王なのに兵を動かせぬのだろう」

 フワワがいっそう声をひそめる。

「身辺に気を付けよ。あなたの周囲には、深淵より深い権謀が渦巻いているようだ」

 ビルガメシュはフワワの肩に手を置いた。

「エビフが栄えるのもわかる。民は父のようにあなたを慕っているのだろうな」

 若者たちが、散ってしまった驢馬車をかき集めて戻ってきた。ビルガメシュはフワワの手を借り、荷台に身体を引きずり上げた。

 道をゆく。ビルガメシュは麦の袋に背を預けた。疲労から、ついうつらうつらとする。

 驢馬車が大きく揺れた。大きな手が肩に触れる。

「起きてくれ、ビルガメシュ殿」

「眠ってしまったか。追いついたか?」

 目をこすり、頬を軽くたたく。フワワが王の顔を覗き込んでいる。

「ああ」

 言葉が少ない。初老の男の顔に深い疲労のようなものが浮かんでいる。ビルガメシュはにわかに胸騒ぎを覚え、荷台を飛び降りた。

 先行していた驢馬車が道端に止まり、ウトゥの兵士が周囲を固めている。幌がない。イシュタルがうずくまっているのが見える。

「イシュタル!」

 呼びかけると、少女は顔を上げた。両頬が濡れている。涙だ。

「ビルガメシュ!」

 応じた声は、半ば悲鳴だった。

 大股に進みながら見回したが、エンキの姿がない。

 荷台に上ると、食料や水の袋はなくなっていた。代わりに横たわったエンキの姿がある。汗で額が光っている。目を閉じ、呼吸は早く浅い。脇腹から左の脚にかけて、衣が赤黒く、重そうに汚れている。右手側にイシュタルがしゃがみこんでいる。

「天牛の矢を受けたの」

 イシュタルが震える声で言う。

「あいつ笑ってた。報いだって。神に向かって。何なの、あいつ。何のつもりなの」

 神、とフワワの声がつぶやいた。振り向くと、スビル族の長は目を伏せた。

 ビルガメシュはエンキの、傷のある体の左側に膝をついた。矢は既に抜かれ乱雑に布を巻いてある。その下から血がにじんでいる。人ならば肝臓がある位置だ。神はどうなのか。

 なぜここに驢馬車を止めた、誰が手当てをした。なぜエンキが矢を受けたのか。神は死ぬのか。不死なのか。様々な疑問を胸にしまいこみ、ビルガメシュは叫んだ。

「キシュヘ急ぐぞ。水をこちらに移せ。麦はいらん。お前たちは後から来い」

 ウトゥの兵が走る。

 エビフに戻っても手当てする用意はない。数日かかるが、都市に運ぶしかない。

「ゆっくり話をしたかったが、フワワ、そうもいかなくなった。ここで戻ってくれ」

 フワワが水袋を抱えて御者台によじのぼる。

「キシュまで同行する。彼のそばについていろ」

 ウトゥの兵が次々に水袋を荷台に投げ込む。フワワが手綱をとり驢馬を走らせた。

 それから一昼夜、フワワは眠らずに驢馬車を駆り続けた。

 イシュタルは膝を抱え、腕に顔を埋めて動かない。ビルガメシュは行く手を睨みつけ、姿を現さないキシュの街に苛立ち、叫び出したい気持ちを堪えていた。

 エンキの顔から汗はひいていたが、唇が青く、肌は白く、生気を感じさせなくなりつつある。

「ビルガメシュ」

 細い声に呼びかけられ、王は知恵の神の右手をとり、親指の付け根を堅く握った。

「ここにいるぞ、エンキ」

「少しだけ車をとめて、河から粘土を採ってくれないか。それに、葦の筆が欲しい」

 途切れ途切れ、苦しげな息をはさみながらの言葉だった。

 ビルガメシュはしばし唇を噛んだ。

「いま、医者のところへ急いでいる。まじないは、それからだ」

 エンキの蒼い唇に、薄笑いが浮かぶ。

「君のために、今、どうしても、書いておかなくてはならないことがある」

「今夜にも死ぬようなことを言うな。神は不死なのだろう」

 ビルガメシュは手に力を篭めた。エンキは握り返してこない。

「神は不死だ。だが、それは君が理解している意味とは違う」

 車輪が道の砂礫を叩く。ビルガメシュとエンキの身体が驢馬車とともに揺れる。

「どうしても、必要なのか?」

「君にやってほしいんだ。お願いだ」

 エンキの指に、ほんの少しだけ力がこもる。

 ビルガメシュは声を張り上げた。

「すまない、フワワ。車を止めてくれ」

 フワワが手綱を絞り、いぶかしげに振り返る。ビルガメシュは車から飛び降りた。

 満月。砂漠をイディギナが音もなく流れる。熱のない光で、流水が銀のようにきらめく。

 履物を泥で汚しながら進む。膝を突き、両手をさしあげる。

冷たく濡れた川辺に指をさし込む。細かい土の粒が指をつつむ。慎重に取り上げ、革袋に流しこむ。

 掌中の土に水滴が落ちた。

 ビルガメシュは自分が落涙しているのに気付いた。

 エンキは死ぬ。

 止まらない腰の出血と弱まる手首の拍動、先を急がない知恵の神の言葉。神は死なない、という言い伝えを、何度も戦場に出てきたビルガメシュの経験ははっきりと否定した。

 ビルガメシュは革袋をかつぎ、葦を何本か引き抜いた。車に戻り、挑むようにエンキに言う。

「なぜ死ぬのだ、エンキ。神は不死のはずだ」

 月明かりに、エンキの唇が柔らかく笑った。

 イシュタルが前髪の下で目を光らせ、二人を眺めている。ビルガメシュは語気を強めた。

「ここはウヌグではない。アンやエンリルに聞かれることはない。お前はおれを友と呼んでくれた。その友に語れぬことがあるのか」

 エンキがただ、言った。

「土を板に、葦を筆にしてくれ」

 ビルガメシュは大きく胡坐をかいた。乱暴に土をこねて固め、葦を石のナイフで切断する。

「これでいいのか」

 エンキは笑みをたたえたまま、肘をつこうとし、苦しげに息をついた。ビルガメシュは手を貸し、神の姿勢をうつ伏せに移した。エンキは粘土板を下に、急ごしらえの筆を手にとって、書き付けを始めた。

「やめろ。身体に障る」

「どうしても、書いておかねばならないんだ」

 葦を粘土に、エンキは押し付けていく。ひと筆ごとに、全身の力を振り絞っているようだ。

 ビルガメシュは横に腰を下ろし、腕を組んだ。

「出してくれ、フワワ。もう急がなくていい。ゆっくりだ」

 ビルガメシュは微かな眩暈を感じた。フワワが振り向かずに、手綱を鳴らす。

 粘土板を紋様で埋め尽くすと、エンキは次を求めた。葦筆も何度か交換した。月明かりだけを頼りに、エンキは紋様を刻み続けた。

 東の空が紫色に染まり始める。ビルガメシュは目を細めて東を見遣った。砂漠の彼方から、ウトゥの光輪が姿を見せようとしていた。

「終わったよ」

 エンキの指から葦筆が落ちる。夜明けまでの短い時間で、頬が肉を削いだようにこけて見えた。周囲に何枚も粘土板が散らかっている。ビルガメシュは問う。

「何を書いたんだ?」

 エンキの唇が動くが、声は車輪が石を乗り越える音にかき消された。ビルガメシュは、知恵の神の口元に耳を寄せた。

「誰にも、見せるな。読むのは君だ」

 そう言うと、知恵の神はゆっくりと細く長い息を吐いた。

 エンキの胸は大気を吐き出したまま、再び膨らむことはなかった。

 イシュタルが黙って目を閉じる。

 ビルガメシュはまた眩暈を感じ、荷台の板に手をついた。

 唐突に腹の底から鋭い痛みが突き上げてきて、口を覆う。驢馬車の外に身を乗り出し、胃液を吐き出す。酸い液体が顎の両側に染みる。汚物が砂の上に散った。吐き気は収まらず、ビルガメシュは何度も嘔吐を繰り返した。

 暖かいものが背中に触れた。きしむ首で振り向くと、イシュタルが背に手を添えていた。

 少女の顔がぼやける。暗い。夜明けで七色に染まっていた空が、漆黒に落ちている。ビルガメシュは目を擦り、頭を叩いた。

「大丈夫。ゆっくり、大きく息をして」

 イシュタルが深呼吸をしてみせる。

 ビルガメシュは母に従う子供のように、少女の動きにならった。痛みは胸に移った。ビルガメシュは痛みに耐えながら、ただ呼吸することに神経を注いだ。

 かなりの時間の後、世界が色を取り戻した。空はすでに濃い青に変わっていた。

 驢馬車がゆっくりと進んでいる。肩にイシュタルが頭を乗せ、胸をさすっていた。少女の身体は柔らかく暖かく、心地よかった。

「おれは、気を失っていたか」

 イシュタルが頭を上げる。

「いいえ。でも、ひどく取り乱していた。胸が痛いと何度も言っていた」

 錯乱した王を正気に戻そうと、少女は自分の身体でビルガメシュを温めたようだ。

つい先ほどまでは、少女自身が前後不覚に陥っていた。あるいはイシュタルも、人肌の暖かさに癒しを求めたのかも知れない。

 汚れた口元を、ビルガメシュはぐいと拭った。エンキの身体が、うつ伏せのままそこにある。

「葬ってやらねば。……いや、ウヌグに戻ってからだ。誰にも知られてはならぬ」

「そうね。ほかの神々には私から説明します」

 まっすぐに背を伸ばし手綱を握っているフワワに、ビルガメシュは言葉を投げた。

「フワワ。すまないが、ウヌグまで来てもらおう。状況が変わった」

 異民族の長は前を向いたままだ。

「どういうつもりだ?」

「あなたは、この夜明けに起きたことを見聞きした。このまま別れれば命を獲られるだろう。アンやエンリルにな」

「心配はいらん。自分の身は自分で守ってきた。これからもそうする」

 ビルガメシュはイシュタルの両肩を押し、身体からそっと離した。大股に御者台に近づき、フワワの肩をつかむ。

「そうはさせぬ。誰にも会わせぬ。話させぬ」

 初老の男はため息をついた。

「まさか、こんなことになろうとは」

 驢馬車は沈鬱な空気をまとった。

 町ともいえぬ集落で食料を補給し、河の水を飲んで進むこと数日。その間にビルガメシュはエンキの遺体を清め、調達した羊の皮でくるんだ。

 ビルガメシュは改めて沈痛な思いに打たれた。深淵を統べる知恵の神が死んだ。

ブラヌン(ユーフラテス河)は毎年晩秋、「鯉の洪水」と呼ばれる氾濫を起こす。河の水が畑に溜まった塩を洗い流し、代わりに肥えた土を運んできて、翌年の収穫をもたらす。

 深淵と水を司るエンキが死んだならば、鯉の洪水も止まるのではないか。

 そうなれば、ことはウヌグだけに収まらない。どの都市でも大麦の生産が滞り、キエンギとアガデの滅びに繋がりかねない。

 対策を練らなくてはならない。

 驢馬車はキシュにさしかかった。

 羊毛のマントをまとった一団が道を占拠している。最前列、フードをかぶった男が驢馬車に向かって、広げた右手をさし上げた。

「止まれ」

 フワワが従い、振り返る。ビルガメシュはその脇から顔を突き出した。

「こちらは交易の帰りだ。咎められるようなことはしていない」

 男はフードをとった。その右目は、醜くつぶれていた。

「私はアンの神官、アンドゥだ。エンキ神が乗っているはずだ。こちらに移っていただく」

 隻眼の男は最後の一句を、唇をゆがめながら口にした。笑みのようにも見えた。集団の後ろには、4頭立ての驢馬車があった。

 ビルガメシュは荷台を降り、慇懃に礼をした。

「キシュにアン神殿はないはず。ウヌグからおいでか」

 アンドゥは、首にかけた瑠璃の印章を掲げた。

「言葉を交わしたことはないが、あなたとは、エアンナの扉の前で何度も顔を合わせている。ウヌグ王、ビルガメシュよ。天空神の勅だ。従っていただこう」

 ビルガメシュは返答に窮した。

 嘘はつけない。だが、エンキを渡すわけにはいかない。

 不死のはずの神の遺体を神官に渡したなら、彼らはどう応じるのか。

 イシュタルが降りてきて、ふらりと王の背に手を添えた。

「乗っていてください。危険だ」

 少女は左右にゆっくりと頭を振った。

「言うことをきくしかないわ。アンの意に逆らえば、あなたは王ではいられない」

 ビルガメシュは必死に声を抑えた。

「エンキは友だ。この手で埋葬してやりたい」

「彼らに任せれば、またエンキに会えるわ」

 ビルガメシュは目を見張った。

「馬鹿な。エンキは死んだ」

 イシュタルが囁く。

「話したわよね。神は死んでも、冥界から帰ってくる」

「神話の通りにか」

 アンドゥが右手を上げる。

「拒むなら、棍にものを言わせることになるぞ」

 その背後の集団が、一斉に棍棒を構える。

 ビルガメシュは腰の棍に手をかけた。イシュタルがそれを上から押さえる。

「駄目。向こうはアンの神官よ。印章も持っている。逆らえば反逆者だわ」

 ビルガメシュは奥歯を噛み、拳を固めた。

「このまま見ていろと言うのか」

 イシュタルはやや早口になった。

「はっきり言うわ。イナンナは、あなたが王でなくなったら困るの。アンとエンリルは敵。ウトゥも信用できない。ビルガメシュを失ったら、イナンナはウヌグでの発言権を失う」

 ビルガメシュは唇を噛んだ。

「……それは、わかっている」

「エンキを渡して」

「死体を渡して納得するものか」

「何度も言わせないで。神は冥界から戻ってくる」

 ビルガメシュは大きく息を吐き出すと、その場に膝をついた。

「エンキ神においては、深い眠りについておられます」

 深々と頭を垂れ、声を張り上げる。

「その旨、十分ご承知おき頂きたい」

 砂を踏む足音がする。神官団の脚が、ビルガメシュの左右を通り過ぎた。

 胸の鼓動が激しくなる。神殺しの汚名を負わされることも有り得る。

 目を上げると、不安そうなイシュタルをよそに、神官団がエンキの身体を粗末な板に乗せて運び出していた。

「大儀であった。我々はウヌグへ戻る。ビルガメシュも早々に帰還し、遠征について報告せよ」

 ビルガメシュは再び視線を大地に落とした。

 驢馬車の車輪が回り出す。王と少女を、そして異民族の長を乗せた驢馬車を尻目に、神官団は南東へと去っていった。

 砂塵が落ちついてから、やっとビルガメシュは立ち上がった。

「彼は、どうなる」

 フワワが短く疑問を投げかける。

「そんなこと、俺にもわからんよ」

 ビルガメシュはイシュタルを荷台に押し上げ、御者台に戻った。

「本当にエンキが蘇るのなら、問題はない。そうだよな、イシュタル」

 イシュタルは答えなかった。

 南東へ神官団が下っていく。その先には暗雲が垂れこめていた。

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