1・ウヌグ
王は道を急いでいた。
8本の脚が道をたたく。白い埃が舞い上がる。後ろでなめらかに車輪が回る。
驢馬が2頭並んで、4輪の車を牽いて行く。
「どこから来た」「何者だ」「どこへ行くんだ」。
道端の農夫が口にする疑問に何も答えず、驢馬車は先を急ぐ。
あくまで空は碧い。太陽に射られ、ブラヌン(ユーフラテス河)の流れはその空の色そのままにきらめく。
岸辺には黄金色がどこまでも続いている。大麦の穂が揺れている。その間をぬう白い道を、驢馬車が進んでいく。
王の上半身はむき出しで、日に焼けた赤銅色の筋肉の上を玉のような汗がながれていく。腰には黒白まだらの、山羊の毛皮を巻いている。傍らには香柏の棍が立て掛けてある。
河が大きく蛇行する。車上の若者は手綱を操り、流れに沿って左に折れた。
行く手の彼方に、都市がある。王は目を凝らした。
白茶けた焼成煉瓦の城壁と、その向こうに、白く輝く建物が見える。「囲いの町」、約4万人が住む城塞都市ウヌグと、神を祀る「天の家」、エアンナだ。
ビルガメシュの父は先々代のウヌグ王、ルガルバンダだ。ウヌグはビルガメシュの祖父、エンメルカルが拓いた。
車を止め、ほこりにまみれた顔を腕でぬぐう。汚れは落ちず、頬のすみに固まるだけだ。足元から羊の胃袋でつくった水筒を持ち上げ、栓をぬいてしゃぶりつく。澄んだ水が口元からこぼれ、首から胸をぬらす。
館まで、あと1ダンナ(約10キロ)もない。戻れば冷たい麦酒がある。
旅のあとの麦酒ほどよいものはない、とビルガメシュはつぶやく。
ウヌグは上質の麦酒を産する。そのおおもとは大麦だ。大麦を1粒播けば、およそ76粒の収穫がある。大麦は麦焼きと麦酒として神と人の口に入るだけでなく、羊に与え、質のいい肉をつくるのにも用いられる。余剰は各地との交易に充てられる。
その豊かさが今、ウヌグに災いをもたらそうとしていた。
ビルガメシュはふり返り、河の上流に目を転じた。流れを遡れば、キシュがある。自らをアガデと称する北の民が住む。
南の民は、己が民族をキエンギと呼ぶ。アガデとは言葉が異なる。だが北に移り住んだキエンギの民、南で暮らすアガデの民もおり、文化は互いに交じり合っている。
キシュの現王は23代目のアッガ。キシュは、毎年ウヌグに貢物を求めてくる。
ビルガメシュは1月あまりウヌグを空け、キシュの内情をつぶさに見て回ってきた。畑の大麦がウヌグほど豊かな穂をつけないのを見、農民がその穂を石刃で刈り取るのを見た。増産される槍と鋲を打ったマント、驢馬車を見た。
王権にしがみつくキシュの衰えるさまと、ウヌグへの野心を見てきた。
ビルガメシュは備えてきた。今こそ備えを役立てるときだった。
ウヌグを囲む城壁は、ビルガメシュが戦に備えて建築させた。北から西への壁はほぼ直線だが、不規則な曲線のところも多い。崩れかけている箇所もある。
ビルガメシュは北西の門からウヌグに入った。大通りが町を貫き、エアンナまで続いている。通りの左右には日干し煉瓦を積み上げた民の住居がある。
通りの中央に、巨大な輿が座している。腰蓑一枚のみを身につけた奴隷が周囲に膝をついている。天蓋は見上げるほど高く、河の流れのように蒼くきらめく緞帳が周囲を覆っている。何十人もの職人が丹精を篭めなめした革の表面を、キエンギで最も珍重される蒼い瑠璃の大きなかけらが飾っている。
民はみなその場で平伏している。
ビルガメシュは唇をすぼめ、細く息を吐き出した。水も浴びていないこの姿で、女神に拝謁するはめになるとは思っていなかった。
手綱を横木に結わえ付け、驢馬車を降りる。
女神イナンナは、最高神アンの娘だ。ほとんど姿を見せない父に代わり、よく民の信仰を集めている。外見の美しさがその理由のひとつだ。
門の前に輿で来ているということは、一刻も早くビルガメシュに会いたいということだろう。長旅から戻ったばかり、いくら身がほこりに塗れていようと、今この時、汚れた姿で向かうしかない。
輿の前に、香柏製の階段が置いてある。その両脇に控えている神官は、丁寧に汚れをとって白く輝く羊の腰蓑を身につけていた。ビルガメシュはその間を通り、階段を上がった。
緞帳を引き、ビルガメシュは中に足を踏み入れた。
広々した空間に、羊の毛皮が敷き詰められている。
少女が横たわっている。イナンナだ。奥で、しどけなく脚をビルガメシュに向け。
女神イナンナの肢体は、雪花石膏のように白い。その身にはほとんど布をまとうことなく、わずかな瑠璃と黄金が、豊かにふくらんだ胸の上と腰の横できらめいている。髪は夜のように黒く、瑠璃と黄金の髪飾りが星のように輝いている。顔のつくりは幼いが、瞳は夜明けの太陽のように、賢しげに輝いている。
「なぜ、こんなところにいらっしゃるのです。民がうろたえております」
ビルガメシュは言う。だが、人目をはばかり、続けてきた1月の旅のあと、香木のかおりをただよわせ、素肌をさらした女神の姿は、何よりの褒美のように思えた。
イナンナは胸の下で両腕を組んだ。乳房がより扇情的に盛り上がる。
「お前が心配だった。どこへ行っていた?」
ビルガメシュは立てひざをついて座る。
「キシュへ。かの国の目論見を見破るために」
イナンナが小首をかしげる。
「王のおまえが、わたしに何も言わずにか?」
「できることなら、政治でお心を煩わせたくありません」
イナンナが笑う。ビルガメシュは頬の笑窪から目を離そうとし、胸の谷間、美しい曲線を描く脚に見とれそうになり、結局顔を伏せる。
「顔を上げて、わたしを見ろ。ビルガメシュ」
イナンナが可笑しそうに言う。
女神の言葉に、ビルガメシュは従う。
「国は、王と神とが共に治めるものだ。ウヌグの王は代々、わたしと契る。そして毎年の河の流れと、麦の豊穣を約束する。ウヌグの王はおまえだ、ビルガメシュ。そうだろう?」
あからさまな誘惑にも、ビルガメシュは知らぬふりをした。
「お言葉の通りです。キシュの動きは、このあとエアンナで報告いたします」
「父のアンや、堅物のエンリルや、小賢しいエンキと一緒に聞けというのか」
ウヌグには他にも多くの神々がいる。イナンナは必ずしも、彼らとの折り合いはよくない。
「お言葉の通りです」
イナンナの目つきが少し険しくなる。
「わたしはお前の妻だ。妻が夫を心配して出てきたのに、つれないではないか」
ビルガメシュは膝をそろえた。両手の指をのばして右手で左手をつつみ、胸の前で組んで、改まった儀礼の姿勢をとった。この先は、衝動にかられてしていい話ではなかった。
「恐れながら、即位の儀礼は行ったものの、それ以上はアン様に許しを得ておりません。私は王ではありますが、アン様に未だ認められていないと解しております。あなたを妻とするには、未だ不足があると」
イナンナは横を向いて、頬杖をついた。
「おまえならこんな細い身体、どうにでもできるだろう」
ビルガメシュは唾を飲み込んだ。
「神の身体に、許されざる人間が触れれば、相応の報いがありましょう」
「おまえだって、3分の2は神じゃないか」
ビルガメシュは声を出さず、少し笑った。
「たしかに、母ニンスンは偉大な女神です。しかし父が人間である私は、神ではありません」
しゃら、と装身具を鳴らし、イナンナが立ち上がる。伸びやかな脚が歩を進め、目の前に女神の白い下腹部が近づく。
「ビルガメシュ。顔を上げろ」
従うと、イナンナの顔が目の前にあった。イナンナはビルガメシュの首に両腕をまわし、唇を吸った。
甘い乳の香りが口中に広がる。しばし陶然とすることを、ビルガメシュは自分に許した。
ややあってから、イナンナが腕を離す。目を細め、頬を染めている。
「これは契りではない。誰にも文句は言わせない」
「は。……」
イナンナは片手でビルガメシュの肩を突いた。
「行ってくれ。これ以上は、空しい」
言われるままに、ビルガメシュは輿を出た。
イナンナを抱かないのには硬軟の理由があった。
イナンナの男となることは、神の代弁者となることに等しい。ウヌグのみならず、キエンギとアガデの王は代々、神の権威をもって国を治めてきた。だがビルガメシュは、人の力で国を治めようと考えている。
イナンナが非常に移り気なのが、その理由のひとつ。父アンの園丁を誘惑し、拒まれると蝦蟇のように打ち殺したという話が伝わっている。また先代の王、一介の牧夫にすぎないドゥムジという男は、イナンナの寵愛を得て王の座についた。ビルガメシュはその間数年、王子でありながら苦い麦酒を飲まされていた。ドゥムジの容色が衰えるとイナンナは彼を廃し、ビルガメシュに王杖がまわってきた。彼女の気持ち次第で、王杖は別のものに渡らないとも限らない。
それにキシュだ。天空神アンが王の中の王としているのはキシュ王アッガだ。ウヌグは豊かではあるが、位階では未だにキシュの下だ。祖父エンメルカルがキシュへの貢物に反発して兵を起こして以来、キシュとウヌグは小競り合いを繰り返している。もし敗れれば、ウヌグの民は、キシュの奴隷となる。一方、神は不死だ。キシュがウヌグを攻め落としても、神々はウヌグの富とともに北に移るだけだ。
確かにイナンナを拒み続ければ、園丁のように打ち殺されるかもしれない。だがイナンナを受け入れることは、アンの前に跪くのと同じことだ。その意をもってウヌグを治めることになれば、ウヌグはなにもせずキシュに敗れるかもしれない。そうなればビルガメシュの命はない。
殺されないためには、ビルガメシュはイナンナ抜きで王であり続け、キシュを打ち破らなくてはならない。そしてイナンナの寵愛が去ろうとも打ち殺されないだけの力を、たくわえる必要がある。
時はあまりない。危うい曲芸をいつまで続けられるか自信はない。だがルガルバンダの子として生まれ、王となった以上、生き延びる道はそこにしかないと、ビルガメシュは考えていた。
ビルガメシュは再び車上の人となった。
道に露店が出ている。大麦や干したなつめやしが細い壺一杯に詰め込まれ、道にあふれている。民の住居は日干し煉瓦を積み上げたものだ。
老女が流行り歌を口ずさんでいる。
ビルガメシュは息子をその父親のもとに行かせず、
昼も夜も荒ぶり猛る。
ビルガメシュは乙女をその恋人のもとに行かせない。
勇士の娘をも、若者の花嫁をも。
ビルガメシュは唇を噛んだ。王位についてからの3年間は、戦の準備に費やした。城壁の建造、武具の製造、兵の教練も行っている。若い男は建築現場か教練場に駆りだされている。
十分な報酬を払っているつもりではあった。だが大麦を配っても、均さねばならない畑、播かねばならない種、汲まねばならない水、刈らねばならない穂を減らすことはできない
特に水路から畑へ水をあげるため、水車を踏むのは重労働だ。若い働き手を奪われた民の嘆きは高まっていた。
館に戻り、エアンナに使いを出して帰還を報告する。
屋外の瓶には、ブラヌンの水がたっぷりと溜めてある。土器で汲んで、頭からかぶる。泥と埃が疲れとともに流れていく気がする。衣をはずし、丹念に身体を清める。
衣をよく櫛を通した新しい羊毛に替え終わったころ、使いが戻って来客を告げた。その言葉を受け、ビルガメシュは命じた。
「上等の濾した麦酒を出せ。俺にはいつものでいい。食事にも抜かりがないように。神をお迎えするのだから」
既に日が傾いている。屋内では、細く高い足をつけて焼き上げた土器の皿の上に、召使が瀝青の灯りを点していた。
食堂には、アサル(コトカケヤナギ)の木で組んだ粗末な椅子が2脚向かい合っている。一つには、青年が脚を組んで座っている。
瞼は憂い気に半ば閉じられ、瞳が長い睫毛の下からのぞいている。鼻筋高く、唇は薄く、顎は細い。細く締まった身体には亜麻布を巻き、右肩に碧い瑠璃の針を刺して留めている。
深淵と知恵の神、エンキだ。
ビルガメメシュは両膝をつき、両手を胸の前で組んだ。
「こんなところにおいでにならなくても、神殿に向かいましたものを」
エンキは柔和に笑う。
「王を神殿に招くと、手続きがややこしいからね。座ってくれ。僕らの間で儀礼は無用だ」
ビルガメシュは神と向かい合って座る。召使が大瓶をふたつ運び、エンキとビルガメシュの前に置く。神には黄金の吸い筒を、ビルガメシュには葦の吸い筒をさす。
葦の茎を通して、大麦から醸した液体を吸い上げる。喉が熱くなり、心地よい浮遊感をおぼえる。旅のあとの麦酒ほど良いものはない。
「アッガは、だいぶウヌグ攻めに傾いているようだ」
問われる前に、ビルガメシュは言う。
「バハトゥラに会えた。キシュに潜り込ませて3年、上手くやっている。大麦の実りが悪いのと、戦の準備を目の当たりにしたそうだ。それにエンキが作って広めた例の歌、アッガの反応は中々いい。おれから民の心が離れているのが伝わったようだ」
「君には悪いことをしたよ。人々の怨嗟の声を大きくしてしまった」
エンキが苦笑する。ビルガメシュは首を横に振る。
「アッガに腰を上げてもらうためだ。神々や民衆の支持を得るため、最初の一撃は」
ビルガメシュは右の拳を左手で包む。
「あちらに振り上げてもらわねばならない。神々の様子は?」
「この計に気づいている者はいないよ。幸いなことに」
召使が料理を運んでくる。エンキの前に、羊と山鶉、蕪の煮込みが並んだ。玉葱、コリアンダー、大蒜などとともに煮込み、風味をつけてある。メルスが出た。これは大麦を粉にし、なつめやしとピスタチオを入れて焼いたものだ。
ビルガメシュには塩漬け肉の煮込みと、大麦粉を練り、薄く延ばして焼いたものが出た。エンキが召使に命じる。
「王と同じものをくれ」
ビルガメシュは身体を乗り出す。
「たまには、出したものを食べてくれ。調理には自信がある」
「君のところの料理の腕を疑うわけじゃあないよ。同じものを食べたほうが美味いからさ」
召使は改めて、焼き上げたばかりの粉焼きを出す。エンキは小さめにちぎり取り、口に滑り込ませてゆっくりと咀嚼をはじめた。
ビルガメシュは太い息を吐き出し、同じ麦焼きを手にとった。
「話は変わるが。歌で、気になることがある」
「なんだい?」
「おれのことを『3分の2は神、3分の1は人間』と作ったな。おれは母が神で父が人間だ。ならばおれは、2分の1が神ということになるのではないか?」
言い終えてから、丸ごとの粉焼きにかじりつく。
エンキは軽く握った拳を口元にあて、可笑しそうに笑った。
「2分の1より3分の2のほうが大きい。ただの半神より、きみは強いと作った」
噛みながらビルガメシュは答える。
「だが、父母から受け継ぐ血は常に、それぞれ半分だろう」
笑みをふくんだまま、エンキが人差し指を立てる。
「いいかい。きみの父ルガルバンダはアラッタを攻めたとき、霊鳥アンズーに怪力を授かっている。その力でウヌグに勝利をもたらしたんだ」
「父の話だ。知っている」
「そのとき、きみの父は、霊鳥アンズーの力で3分の1ほど神の力を得たとしたらどうだい。全てが神である母と、3分の1が神である父からは、3分の2が神の子が生まれる」
「……本当か?」
「もちろん。自分で計算してごらん」
ビルガメシュは少し考え、両手を開いて見つめ、顔をしかめた。
「おれには無理だ。60までは数えられるが、その、分数の計算はよくはわからぬ」
「機会があったら教えるよ。数学は使い方によっては、強力な武器になる。特に、複利だ」
「武器? 計算がか?」
「こればかりは、学んでみないとわからないだろうな」
エンキが笑う。
神と人が肉と麦焼きを平らげると、召使は新しい大盆を運んできた。発酵させた羊の乳、巣蜜、干したなつめやしが山のように積まれている。
エンキはなつめやしの実を取った。
「いいね。大麦がなくても、僕はこれがあれば生きていけるよ」
ビルガメシュは、固めた羊の発酵乳を取る。
「近く、本当にそんなことになるかもしれん。建築と教練に人を割いているから、大麦の畑に手が回らないのだ。なつめやしの収穫を怠らないように言ってある」
「大丈夫さ。エアンナや神々の倉庫には、大麦が大量に備蓄してある。ウヌグの民が3年は食べられる量だよ」
「なぜ3年とわかる。はるか先のことだ」
エンキはなつめやしをビルガメシュに放った。
「それは、神の力さ」
ビルガメシュは片手で、琥珀色の実を受け止めた。
「……食べるだけではない。兵隊、労働者、農民への支払いはすべて大麦だ。ウヌグは大麦で成り立っている。支払うものがなければ、何もかもが止まってしまう。エンキが言うように、3年もてばいいのだが」
「僕を信じなよ」
エンキは立ち上がった。
「今日は疲れているだろうから、そろそろお暇するよ。キシュが動くまでに用意しておくことは、まだたくさんある。近いうちにまた会おう」
「待ってくれ」
ビルガメシュは座を離れ、戸口を塞ぐように立った。
「なんだい?」
ビルガメシュはエンキの瞳を睨む。
「信じろ、と言ったな。このおれ、ビルガメシュは、エンキを信用していいのか?」
「疑うのかい?」
「おれはウヌグを神々から引き離そうとしている。エンキが味方をするのは、理屈にあわん」
エンキは長い睫毛の下から、ビルガメシュを見つめ返す。
「僕は、神々が治めるキエンギをよしとしない。だが、この答えじゃ満足しないということだね」
ビルガメシュは頷く。エンキが低い声で続ける。
「何千年も積み重ねてきた神と人の営みは、きみ一人があがいたところで変わらない。ただ、きみとイナンナがそこから離れられる可能性があるのなら、それに賭けてみたいと思ったのさ」
深遠から響くようなその声に、ビルガメシュは気圧された。
「……何を言っているのか、わからないな」
エンキがビルガメシュの胸に手を向ける。
「どちらにしろ、君は僕を信用するしかないだろう。生き延びようとすればね」
ビルガメシュは体を開いた。エンキはその隙間に身体を滑り込ませ、戸を潜った。
その後1ヵ月ほどの間に、エンキとビルガメシュは打ち合わせを重ねた。神殿で会い、館で会い、城壁の上で会った。内外への体勢はほぼ整った。
大麦の収穫が終わった次の日、城壁の外にある砦から狼煙が上がった。
民と兵をウヌグの城壁内におさめ、ビルガメシュは待ち受けた。
キシュの使者がウヌグを訪れたのは、さらに2日後だった。
羊毛の腰布をまとい、革のサンダルをはいて、ビルガメシュはエアンナに入った。
白く輝く神殿は、巨きな両翼を北東から南西へ伸ばしている。中央の開口部はビルガメシュの背丈の3倍はある。焼いた煉瓦を積み上げ、北方の蛮族が住むエビフから切り出した香柏の柱を支えにした建物で、窓はない。昼間でも、中では瀝青の篝火が焚かれていた。
右翼へ向かう。王と神々が会見する際の議場がある。
ウヌグの神々は5柱が別格で、政治に大きな影響力をもっている。そのほかの神は、人間と5柱の神のあいだの仲介を行っている。
まずは豊穣と戦の女神イナンナ。ウヌグの生え抜きである。
知恵の神エンキ。もとは南方のエリドゥの国におり、イナンナに乞われてウヌグに移った。
嵐の神エンリル。本来、ウヌグとキシュの中間に位置するニップルの神だが、何が目的なのか、数十年前からウヌグに入り浸っている。
太陽の神ウトゥ。北の果てシッパルの神で、その没落とともに各地を漂泊していた。イナンナの兄にあたり、妹を頼って、ウヌグに腰を落ち着けたばかりだ。
そして、天空神アン。いつからウヌグにいるのか、神々でさえ知らない。イナンナの父として、厳然たる存在感を保っている。
足を止める。王の背丈を超える香柏の板の周囲が、燦然と輝いている。板の中央を割って扉とし、周囲に青銅を打って補強してあるのだ。堅牢な金属が篝火に照り映える様は、扉を異世界に通じるもののように感じさせる。両側に、屈強なアン神殿の神官が控えている。
ビルガメシュは両腕で、扉を左右に押し開いた。
香柏の巨木を厚く輪切りにした巨大な卓を前に、アンが部屋の奥を占め、イナンナとエンリルがその左右に座っている。部屋に入ったビルガメシュの左にウトゥがおり、右にエンキが腰を下ろした。この部屋は5柱と王が合議を行うために設けられている。
エンリルの目は細く、表情が読めない。頬骨が張り、顎は細い。そのエンリルが口を開いた。
「集まりましたね。皆さんもう知っているでしょうが、現在、キシュの兵約4000がウヌグの外に陣をしいています。さきほどアッガから使いがあり、ウヌグの民はキシュのために働くようにという要求がありました。これにどう対応するか、協議いたします」
野太い声が上がる。
「降伏勧告じゃねえか。そんなものに従うのか」
ウトゥだ。太い眉に大きな瞳、鼻は少々横にひろく、がっしりした顎をしている。エンリルは細い目をウトゥに向ける。
「それは違います、ウトゥ。シュルッパクが洪水で洗い流されてのち、キエンギとアガデの地の王権をもつのはキシュです。その年月、2万4510年と3月。ウヌグは大きな国ではありますが、キシュの臣下にすぎない。下は上に従うものです」
ウトゥが鼻を鳴らし、煩わしそうに手を振る。
「そんな言葉遊び、知ったことか。あの兵士の群れはなんだ。正論をたてに脅しにきてるじゃねえか。俺はウヌグとビルガメシュには世話になってるが、キシュに何かしてもらったことはねえ。あそこのザババは愚かすぎて、まともに話もできねえ」
ザババはキシュの都市神だ。ウトゥは続ける。
「ウヌグのものにキシュの水車を回しにやったら、ウヌグの畑の面倒は誰が見る。我々の神殿に、誰が大麦を納めるんだ」
エンリルが顎を上げ、ウトゥを見下ろすような目つきをする。
「つまりあなたは己の収入のために、ウヌグに反逆を起こせというのですか?」
ウトゥが卓に拳を打ちつける。
「言葉尻を捉えるんじゃねえよ、優等生が。俺は流れ者だけどな、今じゃあ一応神殿で面倒をみてる連中がいるんだ。そいつらにキシュまでタダで働きに行けとか、俺は言えねえよ」
エンリルが視線をイナンナに向ける。
「ウトゥ、あなたは少し頭を冷やしてください。イナンナ、あなたの意見を」
イナンナは先日と違い、羊の毛皮で身体を包んでいる。毛の房はよく櫛が通されて白く、丸くすべすべした右肩だけがあらわになっていた。
イナンナはビルガメシュを一瞥してから、立ち上がった。
「筋道をたてて話しましょう。先ほどエンリルが、今王権をもつのはキシュだと言いました。最初に王権が下ったのは、エリドゥです。次にバドティビラ、3番目にララク、4番目がシッパル、洪水前の最後がシュルッパク。大洪水が全てを洗い流した後、ようやくキシュに王権が下りました。時がくれば、王権は移るのです。そして王権を授けるのは、我々です。つまり今回の事態は、ウヌグに降伏させ、キシュに王権をもたせたままにするか、それともウヌグに祝福を授け、王権を移してキシュを打ち破らせるか、という選択です」
エンリルが片方の眉を上げる。
「キシュからウヌグへ王権を移せと?」
イナンナは右手を上げて制する。
「キシュの振る舞いは目に余ります。己の井戸が枯れたからといって、兵力をもってウヌグの民に水を揚げろと言う。これでは盟主ではなく、暴君の振る舞いです」
イナンナは腰を下ろす。
「さすが、俺の妹はわかってるぜ」
ウトゥが賛意を示す。エンリルがテーブルの上で指を組む。
「エンキ。知恵の神はどうお考えになりますか」
エンキの服装はいつもと同じ、亜麻布だ。目を落としたままエンキは言う。
「論理というのはどのようにも成り立つ。王権をもつキシュにウヌグが従うべきだという話、暴君たる王からは王権を取り上げるべきだという話、どちらにも理はあるよ。我々神としては、いずれの道がキエンギとアガデの民の幸福につながるか、考えるべきじゃないかな」
「なるほど。暴君といえば、キシュよりはウヌグで噂になっているようですがね」
「そうみたいだね。心してもらわないと困るよ、ビルガメシュ」
エンキが長い睫毛の下から、瞳をビルガメシュに向ける。この野郎、と思いながらビルガメシュはエンキに頭を下げる。
ウトゥがいらだたしげに指の先で卓を叩く。
「さっきから議長気取りだがよ、エンリル。お前は結局、降伏すべきだって考えてるんだろ。そこんとこをはっきりしろよ」
「私はニップルの神です。いわば中立の立場だから司会をしているだけですよ。ウヌグがどうするべきか決めるのは、天空の神、アン様が決めることです。我々の役目は、アン様が意思を決めるための参考に意見を出すことです」
ウトゥは頬杖をついた。
「旗色が悪いとみて逃げやがったな」
「聞こえなかったことにしますよ」
ビルガメシュはアンの様子を窺った。
アンは禿頭だ。眼窩は落ち窪んでいて、右目があるはずの場所は黒い空洞、左目はふさぎかけている。鼻は高く堂々としているものの、頬はこけ、唇は白い髭に埋もれている。
ウトゥやビルガメシュのような張りのある力は感じさせないが、この老いた神の言葉で、ウヌグの物事が決まる。
髭がもぞもぞと動いた。神々と王は声をひそめ、天空神の言葉を待った。
「イナンナに従え」
掠れた声はそう言った。
ウトゥが笑う。
「取り入る相手を間違えたな、エンリル」
エンリルが唇を噛む。イナンナが立ち上がり、座を見渡す。
「異存はありませんね?」
沈黙をもって答えとし、イナンナは右手をビルガメシュに向ける。
「ウヌグの王、ビルガメシュよ。今ここに、戦の神イナンナが祝福を与える」
ビルガメシュは椅子から降りて膝をつき、手を胸の前で組んだ。
「キエンギとアガデのためにキシュと戦い、これを打ち破れ。イナンナの加護が、お前とウヌグの兵とともにある」
ビルガメシュは深々と頭を垂れた。
「では」
エンリルが言う。
「アッガの使者はすぐにでも咽を掻き切り、屍骸をキシュ兵に送り届けましょう」
ビルガメシュは顔を上げた。
「なりません、エンリル様」
「なに?」
エンリルが細い目でビルガメシュを睨む。が、ビルガメシュはものともせずに睨み返した。
「キシュの使者を殺せば、今後はこちらの使者も殺されるでしょう。戦の終わらせ方を考えれば、得策ではありません」
「きさま、神に意見するのか」
「戦は始めるより、終わらせるほうが難しいのです。無用な殺しは避けるべきです」
イナンナが割って入る。
「ビルガメシュの意見はもっともだ。アッガの使者には、キシュには従えぬ、という言葉だけを伝えて帰らせよう。ビルガメシュはその間、兵の準備をせよ」
「はっ」
エンリルが腕を組んで鼻を鳴らす。必要以上にキシュの怒りをかき立てることは避けられたが、嵐の神の機嫌をすこぶる損ねてしまったようだ。
議論のあと、アンはエアンナの奥に溶けるように消えた。他の神々が各々の神殿へ戻るのを見送ってから、ビルガメシュは会議室を出た。
空いた部屋のひとつから、白い手が招いている。
ビルガメシュは辺りを見回してから、その部屋へ向かった。神官の控え室だが、今は5柱の神々とビルガメシュのほか、エアンナには誰もいないはずだった。
中をのぞく。火はなく、瀝青を流したように暗い。
「ビルガメシュ。わたしだ」
小さな声がして、イナンナの姿が赤く浮かび上がる。女神が灯りにかぶせていた覆いを外したようだ。
「イナンナさま?」
「そばに来い。すぐに灯りを消す」
ビルガメシュが近づくと、イナンナは彼の手を取り、灯りを覆った。
「どうされました」
「声を落とせ。誰かいるかもしれない」
姿が見えない女神の、かすかな声だけが響く。
「キシュに勝てるか、ビルガメシュ?」
「は。戦というのは、負けるつもりではやりませぬ。勝つために手をつくし、兵を鼓舞し」
「建前はいい。勝てるんだな?」
「勝てます」
イナンナがため息をつく。
「なら、良かった。だが、父に気をつけろ」
「アン様に?」
「父に戦うつもりはなかった。大麦を納めるのが誰だろうが関係ないからな。王権はキシュにあるから、ウヌグは従うべきだという考えのはずだった」
「しかし」
「父とエンリルはたぶん、お前を殺すつもりだ。身の回りに気をつけろ」
「ああ言っておいて、私を殺すと?」
「父は自らの意思が表に出ることを好まない。表にはわたしを立て、裏ではエンリルをたきつけて、最後には利益がすべて自分のものになるよう仕向けている」
少女然とした姿ではあるが、イナンナは聡明だ。ビルガメシュはイナンナの手を握り返した。
「なぜ私に警告されるのです? アン様を裏切ることになる」
「わからんのなら、おまえは大莫迦者だ」
イナンナはビルガメシュの首に手をまわし、軽く唇を吸った。
「死ぬな、ビルガメシュ」
そしてするりと腕をほどき、靴音をたてて部屋から消えた。
館に戻り、水と麦焼きで食事をとる。念のため、奴隷に毒見させた。
分厚い羊の毛皮を着込み、鋲を打った長衣を纏う。王杖を腰にさし、戦棍を持つ。
兵は2日前から装備を整えてウヌグを守っている。キシュ軍が北西に現れてからは、そちらに主力を集め、弓と矢を構えていた。今頃は指揮所に王が現れるのを待っているはずだ。
館を出て、通りを北西へと向かう。従卒が7人従う。ビルガメシュと同じ長衣を着、山羊の皮の兜をかぶり、青銅の穂をつけた槍を肩にかけていた。
「イシム。キシュ軍はどうだ」
若い男がビルガメシュの左後方につっと進み出る。
「城壁の北西に隊伍を組んでいます。ですが別働隊が、複数います。城壁の崩れかけた場所、高さが不十分な場所をさがし、侵入を試みています。これまでのところ、イナンナ様の加護を受け、これらをすべて撃退しています」
ビルガメシュは笑った。
「さすがだな。後ろにも顔があって何事も見逃さぬ、という評判がたっているぞ」
「王と神に見せるため、2つの顔を持っていると、私を誹る者もいますがね」
イシムの瞳は大きく、少女のように優しい顔つきをしている。エンキの子飼いの部下だが、ほかの6人と共に王のもとに派遣されている。幼さを残す風貌ながら頭脳の切れはよく、どんな仕事もそつなくこなすため、ビルガメシュは重用している。
「アッガの狙いは両面か。北西の本隊が勝てば良し、その間に城壁の隙間から忍び込むも良し」
「そう思います。王の策に変更はありませんか」
「あるものか。アッガの本隊を破れば、囲いのまわりをうろつくいなごは霧散する」
エンキと同じく、イシムが完全に信頼できるわけではない。早々に勝敗を決しなければ、彼らがキシュ兵を城壁の中に引き入れないとも限らない。短期決戦が肝だ。
大通りを抜ける。郊外の広場には、ウヌグの兵隊が整然と並んでいる。
長衣と槍で武装した兵士たちは、ビルガメシュが現れても隊伍を崩さず命令を待っている。左右に分かれた部隊の中央を抜け、城壁の内側に造りつけられた階段を上がった。
鋭い黄金色の輝きが、ちらちらと陽を照り返している。青銅の槍の穂だ。キシュの軍隊が、収穫を終えたウヌグの畑に陣を広げている。破城槌がいくつか、先頭に並んでいる。その後ろには、弓を持った兵の姿も見える。
それほど多くはない、とビルガメシュは一人ごちた。エンリルはキシュ兵4000と言った。どれだけの数なのかはつかめなかったが、城壁の内側の人数と比べ、そう差はない。
視界の隅で、白いものが揺れた。
城壁の上に、異形が立っている。ビルガメシュは状況を判断しかねた。
白いものは、雄牛の角だった。筋骨隆々とした男の身体に、牛の頭をした姿が、そこにいた。
背丈が自分に並ぶものを、ビルガメシュは初めて見た。いや、角を含めれば、その姿はビルガメシュより大きい。突き出た口からは涎が垂れ、目は陽の光を受けて輝いている。牛の毛皮はぴったりと人の胸に張り付いている。2体の生き物を無理やり引き裂き、つなぎ合わせたような不自然な姿だ。大きな手に、棍棒を握っている。
雄牛が身軽に跳躍し棍を振るう。ビルガメシュはとっさに戦棍を頭上に構える。棍が交錯する。雄牛が唸り、唾液がビルガメシュの頬に飛び散る。城壁の外で、キシュ兵が歓声に沸く。ウヌグ王襲撃の場をウヌグとキシュ双方の軍が見ているのにビルガメシュは気づく。駆け寄ろうとするイシムら7人の気配に、ビルガメシュは声を叩きつけた。
「下がれ」
兵士らの動きが止まる。アンとエンリルの差し金と確信する。キシュに通じていたのかもしれない。ウヌグ王が襲撃を許し、部下に助けられるようなことがあれば、ウヌグ軍は戦意を喪失する。そしてもし王が敗れれば、それは都市ウヌグの陥落につながる。イナンナの警告は正しかった。左の拳を固めて雄牛の腹めがけて打つ。雄牛が飛び退る。すかさず後を追って跳躍し、戦棍を振り下ろす。雄牛は腰を落として足を踏ん張り、角で棍を受け止める。
今、自分は蠍人間やムシュフシュ、神話に現れるような怪異と戦っている。ビルガメシュは恐怖よりも、腹の底から闘志がわき上がってくるのを感じる。雄牛の上半身の肉が盛り上がり、頭を振る。ビルガメシュの身体が大きく左右に振られる。城壁が揺れ煉瓦が落ちる。戦棍から手を離し左手をつく。キシュ軍が沸き、槍の穂が揺れ光が散る。雄牛が角を振り立て、突進してくる。角の先は鋭い。ビルガメシュは右手をのばし、逆手に雄牛の右の角を掴んだ。そのまま大地を蹴り、宙に身を躍らせる。脚を雄牛の肩にかけ、背中に乗り、左手で左側の角も握る。雄牛が大きく身体を振り、ビルガメシュを振り落とそうとする。
雄牛の背で揺られながら、ビルガメシュは右拳を天に突き上げた。
「ウヌグよ! 今こそ、門を開けて戦え!」
イシムがすぐに命令を復唱し、開門の命が何重にもこだまして伝わっていく。香柏の扉がビルガメシュの足元で左右に開いていく。
ビルガメシュは左手で角をつかんだまま、右腕を雄牛の首に回す。雄牛が苦しげにもがく。
キシュの陣がざわめく。「ビルガメシュだ」「あれこそがウヌグ王ビルガメシュだ」。
ビルガメシュは笑った。バハトゥラが上手くやったようだ。キシュの兵がどよめき始める。悲鳴が混じる。キシュの陣の後方で槍が撃ち合いを始める。
「キシュ兵が同士討ちを始めています」
イシムの声には、隠しきれない当惑が混じっている。
バハトゥラの仕掛けが功を奏しつつある。
「城壁には脆弱な部分があると言ったな。中へ入ることもできるが、外へ出ることもできる。少しずつ出した兵をバハトゥラがまとめ、キシュ兵の後方に配置したのだ」
雄牛が身体を大きく反らせ、背中からビルガメシュを城壁に叩きつける。マントが外れる。ビルガメシュは咳き込みながら距離をとり、構えなおした。
「この機を逃すな、イシム。総攻撃をかけて、前後からキシュ兵を挟撃しろ」
「王は?」
「おれが負けるというのか?」
イシムと6人の兵が、弾かれたように城壁を駆け下りていく。
門から激流のように迸り出たウヌグ兵が、キシュの陣に殺到する。キシュの槍の穂先は前に向き後ろに向き、混乱を極めている。血が跳ね雄叫びと悲鳴がこだまする。
槍の穂先となったウヌグの兵が、キシュの陣を切り裂く。
ビルガメシュの前の怪異は棍を捨て、両手を踏ん張り頭を下げて角を振り立てた。
この勝利は、すなわちウヌグの勝利だ。
ビルガメシュは腰を落とした。
雄牛の肩が盛り上がる。角が光る。
咆哮とともに、雄牛が突進してくる。ビルガメシュも雄叫びを上げて突っ込む。
雄牛はひとつの岩塊となって、ビルガメシュに衝突した。
角をつかむ。頭を胸板で受け止める。棘のような毛が腕と胸に刺さる。力比べだ。
ビルガメシュは両腕に力をこめる。身をかわすのは容易い。力でねじ伏せてこそ英雄だ。全身の肉が盛り上がる。汗と血が丸くふくれあがった腕の筋肉をつたっていく。雄牛の息が生臭い。下から突き上げてくる雄牛の首を、必死で押さえつける。
いつのまにか、槍の音が止んでいる。
ウヌグとキシュの兵が、固唾をのんで雄牛とビルガメシュの戦いを見ている。
ビルガメシュは歯を食いしばった。指先の感覚がない。肩が外れそうだ。顎と奥歯が割れそうに痛む。城壁に踏ん張っている足の親指が引きちぎれそうだ。雄牛の首は青銅でできているように粘り強く、徐々にせり上がってくる。
何かが風を切る。雄牛の右目を太い矢が貫く。ひとつの塊だった雄牛が、頭と腕、身体と脚いくつもの力へとばらばらになる。ビルガメシュは最後の息を叫びながら雄牛の首をひねり、逆しまに投げ飛ばした。
雄牛は目から血を散らし苦悶の声を上げながら、城壁から落下した。
ビルガメシュは崩れ落ちそうになりながら踏みとどまり、その場で再び右手を突き上げた。
大歓声が上がる。
ウヌグの兵が槍を突き上げ、攻勢に移る。
ビルガメシュは目を転じた。城壁の中、はるか下に、エンキが立っている。左手に香柏の強弓を構え、右手は矢を放ったままに広げている。ビルガメシュは唇をゆがめて、笑った。
「お前かよ」
城壁をウヌグの中へ戻ろうとして歩き出す。エンキが駆け出す。階段を何段か降りたところで、よろめく。エンキの腕が、ビルガメシュを受け止めた。
ビルガメシュは、あえぎながら言葉を絞り出した。
「余計なことしやがって」
エンキは肩をすくめた。
「何と言われてもいいさ。友の窮地だ。見過ごすわけにはいかないよ」
「神に友人がいるのか?」
「僕は君を、友人だと思っている」
ビルガメシュは黙って、ひらいた右手を上げた。
エンキはややあってから、そこに自らの右手を重ねた。
ビルガメシュはしっかりとエンキの右手を握り、笑った。エンキは笑い返した。
エンキが携えてきた水を浴びるように飲み、ビルガメシュは一息ついた。
「あの牛、何だったんだ?」
「たぶん、霊獣グアンナ。天の雄牛、アンの子飼いだ」
「なぜ、おれが狙われているとわかった?」
「僕がアンとエンリルなら、今が好機だと考える。そう思っただけさ」
「……奴は死んだかな?」
「あとで確認しよう」
城壁の外から、ひときわ高い声が上がる。エンキとビルガメシュは目配せをし合って、階段を上がった。
戦いは終わっていた。門の前にウヌグの兵が輪をつくり、黄金の兜を被った男を引き立てている。ビルガメシュはその男を知っていた。
キシュ王アッガだ。
戦勝を祝う声の一方、そこここで死体が山を作り、血が河をなしている。多くはキシュ兵だが、当然ウヌグ兵も混じっている。
大地でほこりにまみれ血を流しているのは自分だったかもしれない。ビルガメシュは頭を振り、その考えを汗とともに払い落とした。
エンキを門の内側に待たせ、ビルガメシュはアッガの前に進んだ。
肥え太った盟主の顔は、額から顎の髭まで血で汚れている。太い縄を何重にもうたれ、周囲をウヌグ兵が取り巻いている。
「キシュの王を殺すのか、ビルガメシュ」
憎々しげにアッガが言う。キシュの王、という言葉には、キエンギとアガデ、全世界の支配者という意味が含まれている。ビルガメシュは笑った。
「あなたは私の師であり、上官であり、指導者だ。あなたから多くのことを教わった。私が今あるのは、あなたのおかげだ。イナンナの命で盟主の座がキシュからウヌグに移ったとはいえ、そのことに変わりはない」
アッガの唇が震える。
「今、何と言った?」
「王権は、キシュからウヌグへ移ったのです」
「そんなことは」
アッガに、ビルガメシュは大音声で叩きつけた。
「アンとイナンナの加護により、キシュの王は今よりビルガメシュとなった」
ウヌグ兵たちが槍をかかげ、咆哮を上げる。ビルガメシュは右手を突き上げる。
「キエンギとアガデの王は、ビルガメシュだ!」
アッガががっくりと首を垂れる。ビルガメシュは膝をつき、その肩に手を置いた。
「キシュにお帰りなさい。兵をつけます。神々の使者が後を追い、すべきことを告げます」
これまでキシュが要求してした貢物を、これからはウヌグが求める。戦に敗れ、神の命でそれがなされたとあれば、アッガにそれを拒むことはできない。もう何年も前から、祖父の時代から、こうあるべきだったのだ。幾多の人命が失われてから、初めて人々は納得する。
長身の男が脇から進み出てくる。バハトゥラだ。ビルガメシュは彼に頷いてみせ、その場を任せた。恩賞を忘れてはならない。この勝利にバハトゥラが果たした役割は、限りなく大きい。報いてやらなければならない。
キエンギとアガデの王、などという称号に大した意味はない。裏切らない部下を得ていたことが、ビルガメシュは嬉しかった。
ウヌグの門をくぐると、エンキが歩み寄ってきた。
「イシムたちに探させたが、グアンナの死体はなかった。奴はまだ生きている」
ビルガメシュはひとつ息をついた。
「禍根を残したな」
「上出来だよ。キシュを倒し、アッガを捕らえた。後のことは、これから考えるさ」
ビルガメシュは頭上を見上げた。天はどこまでも高く、陽は傾きかけていた。
「陽が暮れるな」
「疲れたよ。館で麦酒が飲みたいね。君のと同じやつを」
ビルガメシュはエンキを見て、笑った。
「そうだな。仕事のあとの麦酒ほどいいものはない」
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