深淵を覗き見たもの
@kamishiro100
4・ディルムン
「人の死と、神々の不死について教えてほしい。ジウスドラに会わせてくれ」
酌婦シドゥリは微笑み、素焼きの壺から、金の杯にきらめく液体をそそいだ。
「そう、あせらずに。まずは、渇きを癒してください」
王は礼を言って杯をとった。薄めたなつめやし酒だ。冷たくて美味い。
シドゥリは壺を置き、しどけなく卓に両腕を着いた。肩から腰が美しい線を描く。そのままじっとビルガメシュを見つめている。
彼女は美しかった。年のころは20過ぎぐらい。木の実形の大きな目、彫りが深く鼻が高く、豊かな唇をしている。丸い右肩をむき出しにして、瑠璃色の布を身体に巻いている。胸のすぐ下と腹のくびれに巻いた帯が、豊かな胸と腰を強調している。
「ジウスドラは商人です。なぜそんなことを聞きたいのです?」
「美しい女よ。それは、あなたには話せない」
「会えるかどうかはわたし次第。あなたが何者で、なぜ問うのか、ここで伺います」
ビルガメシュは女を見つめた。
「おれはウヌグ王のビルガメシュだ。伝説について聞きに、ここまで来た」
首の革紐をとり、円筒印章をぶら下げてみせる。両腕に一つずつ雄牛の首を抱えた男の姿、狩りの図が刻んである。シドゥリが前かがみになって印章に顔を近づける。
「質のいい瑠璃。それに、紋様もウヌグ王のもの。どうやら嘘ではない」
「印章に詳しいようだな」
「猛き雄牛のビルガメシュさま。あなたはキシュのアッガを倒し、キエンギとアガデの王となられた。香柏の森に住むフワワを従え、天牛をその手で打ち据えられた。それなのになぜそんなにやつれ、みすぼらしい格好で、地の果てを彷徨っておられるのです?」
ビルガメシュは手の中の杯を、しばらくもてあそんだ。
「友人が死んだのだ。かけがえのない親友だった。キシュとの戦、天牛との戦い、フワワとの交渉も、彼がいなければ成し遂げることはできなかった。だが彼は死んだ。死なぬ身であったはずなのに、彼は死んだ。そしておれは、彼を葬ってやることすらできなかった」
「でも、あなたは生きています」
シドゥリが王の肩に手を乗せる。ビルガメシュは頷いた。
「ああ。おれだけが生きている」
「神々は人に死をあてがい、生は自らの手におさめたのです。それがさだめ」
シドゥリは、両腕をビルガメシュの首に回した。
「ウヌグで起きたことをみな忘れて、ここで暮らすことを考えてみませんか?」
柔らかい胸が肩に当たる。
「肉と麦焼きで腹を満たし、麦酒を飲む。宴を開く。毎日衣を清く保ち、髪と身体を洗う。その日を精一杯生きるのが、人にできる唯一のこと」
シドゥリは、ビルガメシュの目を覗き込んだ。豊かなくちびるがうごく。
「私を悦ばせ、子を産ませてください。人としてここで生きましょう」
ビルガメシュはシドゥリを見つめ返した。
「おれがここに留まれば、ジウスドラは武力を手に入れることになる」
王が移住すれば、都市間の勢力図が変わる。
シドゥリは微笑した。
「そのかわり、私を与えます。私は家庭と、その安らぎをあげられます。足りなければ側女を抱えなさい。ジウスドラにはそれだけの財力があります」
「ウヌグとの関わりを絶ち、美しい妻を娶って、生きろというのか?」
「私を、美しいと言ってくださるのですね」
ビルガメシュはシドゥリの肩をつかみ、しずかに身体から引き離した。
「あなたを拒むつもりではないのだ。だがおれは苦しんでいる。道だと信じていたものは陽炎だった。我々はどこから来て、どこへ行くのか。我々は何なのか。それを知らずに、どうしてその日を懸命に生きることができよう。例え家庭にあっても、安らぎなど感じない」
大きくため息をつき、シドゥリは笑った。
「ダメか。ふられちゃったわね」
壁の布を一枚取り、肩を覆い隠す。ビルガメシュの向かいに腰かけ、脚を組む。
「残念だわ、猛き雄牛のビルガメシュ。夫としてこれ以上望みようのない人なのに」
落ち着き、その場に馴染んだ仕草。ビルガメシュは身を乗り出した。
「あなたが、ジウスドラか?」
女が笑みを浮かべて頷く。ビルガメシュは細く息を吐き出した。
「伝承では妻がいると。男だと思っていた」
ジウスドラは面倒臭そうに、目を閉じて右手を振った。
「しょうがないじゃない、事実なんだから。私だって望んだわけじゃないのよ」
背筋を伸ばして、卓に両手を乗せる。白い指がとても美しい。
「酌婦のふりをしたのは謝罪します。スルスナブの見立てが誤っている時もあるの」
「ジウスドラとして会いたくない者は、シドゥリとして酔わせて帰すというわけか」
「そういうことよ。それで、ビルガメシュさま。キエンギとアガデの王。力になれるかしら? そもそも、友人が亡くなったからここへ来た、と言ったわね」
ビルガメシュは黙って頷いた。ジウスドラが両肘をつき、組んだ手に顎を乗せる。
「誰が死んだの? あなたの友人って誰?」
「……エンキだ。知恵の神。エビフからの帰路、天牛に殺された。だがウヌグに戻ると、エンキは甦っていた。ただしそれは、おれの友人ではなかった。別のものだった。そもそも神は死なぬはずではないのか。標を示す神々が永遠でないなら、我々人間はどこへ向かえばいい」
「なぜそれを、私に聞くの?」
「人間の中で、あなただけが不死だ。そう聞いている」
「不死というのが何か、あなたは理解していないわ」
「だから来た。それを理解したい」
ジウスドラはため息をつき、王の杯に酒を注ぎ足した。
「あなたのことは人づてにしか知らないわ。何があったのか、最初から話して頂戴」
「それで、願いが果たされるなら」
ビルガメシュは杯を置いて、語り始めた。
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