第11話 都心の羊

 「都心の羊」はフカミツカサの本の中でも異質な存在で、他の2冊とは違い、まだ私でも分かる範囲の物語だった。以前読んだ「気だるげな羊」とタイトルが似ているのは偶然だとしても、中身も少しだけ似ているような気がした。


 才能溢れる若きピアニストと挫折の中に沈んでいく教師の交流を描いた物語。

 自分の教え子がどんどん成長し、受賞を重ねていく中、かつては自分もそうだったのにどうして片田舎で私は教鞭を振るっているのかと苦悩するお話だった。

 振るうのは指揮棒でもあるけれど、本当は彼女は演奏者になりたかったと。


 自分のかつての面影を生徒に重ね、どれだけ順調に歩みを進めたとしてもいつかは挫折する。してほしいと何処かで願いつつも、自分自身が表に出ていきたいと悩み続け、そして最終的には自分の才能を思い知らされる結果となる。

 自分の物差しで測りきれなくなった生徒は彼女の元を卒業し、そして彼女もまた、生徒を卒業する。

 自分の気持ちに折り合いをつけ、そして今の幸せを見出す。

 そんな終わり方だった。


 私がそれを読み終えた時、最初に感じたのは違和感だった。

 これまで暴力的なほどに暗い終わり方をしていたフカミツカサは突然とってつけたような「幸せな結末」を用意したように思えたのだ。

 本来であれば、彼女の性格を何一つわかっているとは言えないのだけど、それでも私は彼女なら「決してそんな終わり方はさせない」と思った。

 何処か不気味で、しかし諦めきれない執念に突き動かされ挑み続ける。

 ある種の「力強さ」をフカミツカサの作品からは感じていたから。

 この1冊は何処かが違う。何かが。

 それが作家としての挑戦だったのか、それとも気まぐれだったのかはわからない。

 けれど、あからさまに「変だ」と私は思った。


「三咲さん? 三咲さん?」


 顔を上げると栗林先生が困惑した様子で私の肩に手を置いていた。


「えっと……どうかしましたか……?」

「それは私のセリフよ。……大丈夫? 立てる?」

「ぁ……はい……?」


 どれぐらいの間、そこでそうしていたのかわからなかった。

 立ち上がると立ちくらみがしてふらっと倒れそうになったのを先生に支えてもらって、窓の外がすっかり薄暗くなっているのが伺えた。

 下校時刻まではまだ時間がありそうだけど、大分長い間ぼんやりしていたらしい。


「伏見さんは……」

「伏見さん……?」


 先生にそう聞いてから、聞いたってどうしようもないと首を横に振った。

 彼女を傷つけたのは私だ。私が余計なことを言ったからあんな風に部室から出て行ってしまったんだ。

 そのことを思うと申し訳なさとともにやっぱりどうしたらいいのか分からなくて悔しくなってくる。

 いつからは私はこんな風に人と話すのが苦手になってしまったんだろうって惨めになってくる。


 泣き出しそうな私に先生は静かに椅子を勧め、ケトルでお湯を沸かし始めた。

 しばらくして部室に甘い香りが立ち込め、それを受け取るとポロポロ涙がこぼれ落ちてしまう。


 頭から、大きな涙を浮かべつつも睨みつける伏見さんの顔が剥がれなかった。そんな表情を私がさせてしまったことを思うと体が小さくなっていく。

 先生の淹れてくれた紅茶が唯一温かいのが救いだった。

 辛うじて私をここに繋ぎ止めてくれているような錯覚に陥る。


「あの子はね、少し特別だから」


 そういって栗林先生は向かい側に座ると私の手にそっと両手を重ねた。

 顔を見上げれば先生もまた、困惑したような、どうしたらいいのか分からないと言いた気な表情で私をみている。垂れ下がった眉が私と写し鏡のようだ。


「生徒のことをあんまり勝手に話すのは良くないって分かってるんだけどね。三咲さんみたいに共通の話題のあるお友達ができればいいなって、ちょっと思ってたのよ」


 先生はゆっくりと、戸惑いながらも噛み砕きながら説明する。

 伏見さんと、私の関係を。先生がそう、望んでいたらしい形を。


「ご家庭の事情が複雑だっていうのは少し聞いていたんだけど、それを除いたとしても少し他の子達とは距離を置く癖があったから。三咲さんが文芸部に顔を出すようになってくれた時は私嬉しかったの。コンテストだってそう。良いように使うようで申し訳なかったんだけど、話すキッカケになればなって」


 悪気があってのことではないのだろう。

 私に良くしてくれるように、伏見さんに対しても良くしようと先生は動いていたんだ。

 それは他の先生とは違う、栗林先生だからこその気遣いなんだろう。


「……別にそれは……良いんですけど……。……先生は伏見さんから何か聞いてるんですか?」

「何かっていうと、何をかしら」

「……書いてる……お話について、……とか……?」


 生徒のことはあまり勝手に話したくないと言いつつも、試すような口ぶりに私も手探りで引き出しのとってを探してみる。伏見さんとの会話はそれほど多くなくて、ーーそれでもやっぱり、あるとしたら執筆についてぐらいしか思いつかない。


「フカミツカサさんの本を読んでみてどうだった?」


 しかし、先生の返答は少し予想していた方向とは違うところからやってくる。


「面白かった?」

「面白いっていうか……その……、……綺麗な文章だなぁとは思いました」

「うん。……他には?」

「他には……?」

「誰かに似てるって、……思ったりしなかったかしら」


 先生の意図を探り探り考えてみる。だけど、だとすれば、先生の言いたいことは多分そういう意味で。でもそんなの。


「……そうなんですか……?」

「……私が気づいたのは名前が似てるなーっていうので少し話題に出したことがあってね、その頃、まだ伏見さんは入学したてで、図書室で本を読んでたの。その本のチョイスが独特っていうか、何か調べ物をしてるような感じだったから気になってね? それでカマかけてみたら大当たり。家で書く時間が取れないなら、部室を使ったら良いわ? って、勧誘したのよ」

「へぇ……」


 なんとなくその光景は目に浮かぶようだった。

 先生はとにかく良い人だから。


「あんまり驚かないのね」

「こう言っちゃなんですが……だから、どういうことなんだろうって……」


 伏見椿とフカミツカサ、確かに似た名前だとは思ったけれどイコール同じ人物だとは思わなかった。いや、そうだと知ったところで今と変わらない反応だっと思う。


 だから、なんなんだろう。


 フカミツカサが伏見さんで、私よりも先に本を出してて。だからこそあの熱量だったんだと思うぐらいで、それがどう繋がるのか私には分からない。けれど、先生は少し困ったような顔をして「うーん……?」と首を傾げてしまった。


「……伏見さんはね、努力家なの。すごく、すごく努力して頑張って、それでようやく中学三年生の時にデビューしたそうなの。親御さんの援助も期待できないからって自分にはこれしかないからって必死にプロになろうとして、なって、プロでいようとしてる。……だからね……? 少しだけ、ほんの少しだけーー。……三咲さんが悪いってわけじゃないんだけど。……貴方が簡単にその入り口に立っちゃったことにショックだったんだと思うな……?」


 丁寧に、絶対に、私が傷つかないようにと言葉を選んだ上での発言だった。

 鈍感すぎる私に対しての、めいいっぱいの気遣いで。私が知らずうちに伏見さんに被せていた、プレッシャーの招待だった。

 そんなの、私は全く気がついていなくて。むしろ、私なんかが受賞したのは運とか偶然の産物で、なのに伏見さんはそれに、……嫉妬した……?

 彼女にかけた言葉を思い返していた。

 努力を重ねてきた彼女に対して、なんの頑張りもなくスルッと結果を出してしまった私はなんて酷い。言葉を。無責任にも。


「伏見さんに謝らなきゃ……」


 その思いで自然と体が起き上がった。

 カップを机に置いて、カバンを拾うとぼんやり消えた彼女の後を追い始める。


「謝んなきゃっ……」


 何をどう、どうしたら許してもらえるのかわからないけど、私が賞を捨てれば良いのか、出版を取りやめてもらえれば良いのか、わからないけど、謝らないと……。傷付けたことには変わりないのだから。何より、そんなの、……ーー私がいやだ。


 いやだ、嫌だ嫌だ。


 私は、そんな自分が辛い。


「多分、購買の裏のベンチだと思うわ。……何かあると、いつもそこでぼんやりしてるから」

「……ありがとうございます」


 先生はまだ何か言いたそうだったけれど、それより前に私は廊下に飛び出していた。

 伏見さんになんて声をかければ良いのかわかんない。

 なんて励ませば良いのかわかんない。

 私は彼女のことを何一つ知らなかったから。

 何一つ分かっていなかったから。

 だけど、これだけはわかる。これだけは知ってる。

 私は、多分。クラスで友達がいないからとか、そういう消極的な意味ではなく。きっと。


 伏見さんと、友達になりたかったんだと思うから。


 ーーだから、もう一度、踏み出してみようと思う。


 今度こそ、とってつけたような言葉ではなく、彼女にとって、私にしか、かけてあげることのできない言葉で。……励ましたいと、思った。

 理不尽なほどに残酷で、どうしようもなく一方的に暗闇の中に沈んでいくような物語ばかり書くフカミツカサという作家に、私は、「嫌いじゃないよ」と、声をかけたいと心から思った。


 だから、


「書いたら良いんだよっ……」


 ベンチで一人、すっかり冷めてしまったらしい紅茶の缶を片手に夜空へと変わっていく空を見上げていた伏見さんに対して私は叫んだ。


「伏見さんは書かなきゃダメだよ!」


 目を、赤く張らした彼女が私を見つめる。ぼんやりと。しかし、鋭い光を持った眼差しで。見つめて、一言、二言、出てきたらしい言葉を飲み込んで。


「……うるさい、ちょっと声のボリューム下げてよ」


 困ったようにはにかんで、ベンチの隣を少し開けた。


「……良いの……?」

「……その為に来たんでしょ?」

「うん……」


 彼女の隣に、初めて、私は座る。


「……伏見……椿ちゃん……」

「……はい……?」


 甘い、女の子の香りがふんわりと少し肌寒くなって来た夜風に混じって鼻先を漂っていた。


 今夜私は、……一線を越える。



 ーーっていうと、なんだか変な感じだな。

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