第8話 凡作
私にはこの人の書く世界が理解できないと思った。
何をどうすればこんな風に世間を見ることができるのかと思うほどに捻くれていて、それでいて寂しい人だと思った。
前作と同じように主人公は周囲に振り回されながら傷つき、後悔しながらも同じことを繰り返していく。
人を信じ、裏切られるとわかっているのにそれをやめられない。
他人に依存し続けなければ一人で立てない主人公は破滅の未来が見えているのにも関わらず、足を止めることが出来ず、最後はただ一人、不幸の中に取り残されてしまう。
最後まで読んでしまえばなんて救いのない、ひどい物語だ。
休み時間、昼休みと使って読んで残ったのは後悔しかない。
なのに不思議と読む手が止められなかったのは栗林先生からの勧めだったからという訳でもなく、決して好きなお話だとは思ってはいなくても惹きつけられる魅力を感じていたからなのだろう。
放課後。黙々と原稿用紙に文字を綴っている伏見さんの隣で私は本を閉じる。
「はー……」
ようやく、と言ってもいいほどに肩が凝った。
最後のページを読み終えるまでずっと気が張っていたんだと気づかされる。
ひどい最後だった。もう2度と読むべきではない。
なんて思いながら見つめた裏表紙はなんとも切なげで、手に取って見るとその文庫本自体が一つの生き物のようだ。
「いやいやいや……浸りすぎでしょう」
まだ少し余韻を引きずっている頭を瞬きして切り替えながら、神妙な面持ちでこちらを見ていた伏見さんに首をかしげる。
拗ねているような、恥ずかしがっているような……? なんとも形容しがたい、奇妙な顔だ。
「な……なんでしょう……」
硬くなりつつも尋ねて見るけど、当の伏見さんは「別に」って言って顔を戻すだけでそれ以上何も言ってこない。だけど、いつもより書き直しの回数が増えてたりして、なんていうか落ち着きがなくて。
「もしかして伏見さんも読みたくて順番待ちしてたりする? この本」
私なりに気を遣ってみた。
「読むの遅くてごめんね。これから返却作業してくるから。もし読むんだったら栗林先生にそう伝えとくけど……」
言いながらどんどん曇っていく伏見さんの顔に舌がもつれ始める。
あ……れー……って、自分が見当違いなことを言っていることに気が付いたのは伏見さんが立ち上がってからで。
何処までも鋭い光を宿した瞳が私をじっと見つめ返す。
ドキドキと、心臓の音が胸のうちから突き上げてきて、そのせいで上手く息が吸えずにしゃっくりが溢れ始めて。
「ヒィッくっ……あー……あはは……?」
引きつった、ヘンテコな笑顔を向ける羽目になる。
「それってわざと? それとも天然?」
「わざとしゃっくり出せる人っているのかな……?」
「……さぁ」
一歩間違えばひっぱたかれそうな、そんな冷たさを持った言葉にますます笑顔はひきつる。
無論、伏見さんはそんな人じゃないって分かってるんだけどこの人に真っすぐ睨まれると周りの空気が急に居心地悪くなるというか、逃げ出したい一心に駆られる。それはもしかすると生存戦略上の野生の勘ってやつで。伏見さんは恐らくライオンかトラに部類される肉食獣でありまして……私は良いとこ、カピパラかなぁ……、……なんて……。
どうしたらいいんだろうって沈黙にジリジリ追い込まれつつも、伏見さんからは目を離せずにいた。
怖いのに。逃げ出したいって感じるのに。
この子からは離れたいと思えない。
「……ごめん……私、鈍感だからなんか気に障ったんなら教えてもらえると嬉しいっていうか……わかんないから……その……、……ごめんなさい……」
素直に謝罪する。
謝るときは相手が何に怒っているのかちゃんと理解した上で謝罪しないと意味がないって何かで読んだよなって思いつつも、そんな曖昧な謝罪。
頭を下げて、それで伏見さんが何か言ってくれるならそれでいいからって身勝手なごめんなさいを突きつけて、自分の手が震えてることに気が付いた。
奥歯も、ガチガチ音を立てて。そんな寒いわけでもないのに骨の中から震えは込み上げてくるようで。
これ以上、無言が続いたら泣いてしまいそうなほどに気持ちが揺さぶられていく。理解できない感情に、不安と恐れを覚える。
「……はァーっ……、……ゴメン。……八つ当たりだよね、これ。……わかってる」
「えっと……?」
ぎしゃんって変な軋みを響かせながら伏見さんは椅子に座って、「面白くなかった? その本」何気ない調子でそう問いかけてきた。
さっきまでの威圧感とか、そういうのがすっと抜け落ちたような気軽さで。
こちらまで拍子抜けするかのような身の振りの変わりようについていけない私の頭は呆然とするけれど、そんな私の様子さえも受け入れるかのように伏見さんは微笑み「あんまり好きじゃないでしょ、佐久良さんは」目を伏せた。
モノクロに感じられた部室の重苦しさはいつのまにかなくなっていて、夕焼けのオレンジ色が私たちを染めていた。
ドキンドキンと、さっきまでとは違ってなんだかうまく言えないけど“嫌じゃない”ドキドキが脈打っていて、喉の奥がひどく乾いた。
落ち着いて眺めれば伏見さんはやっぱり綺麗で、一つ下の学年だとは思えないほどに大人びていて。
けれど、浮かべた表情はどこか子供っぽくて私は落ち着けない。
どうにかしてあげなきゃって思うけど、言葉が出てこない。
ふと指先に触れたのはフカミツカサの『眠りの春景色』。
伏見さんの言い方だと彼女はこれをもう読んでいて、……もしかして私が面白くなさそうに本を閉じたから……?
せいいっぱい考えを巡らせて、私なりに傷付け無いようにってなんとか言葉を考え出して。
告げた言葉は陳腐なものだった。
「き……嫌いじゃないよ……? 私も……」
お世辞にも好きとは言えないけど、って付け足してしまいそうな私のセリフに伏見さんはハッと顔を上げ、
「ウソ」
驚いたような、戸惑っているような、曖昧な顔をして見つめ返して。
けど、その大きく見開かれた目があまりにも透き通って見えたから。
あまりにも、潤んでいたから。私は。
「き……嫌いじゃないかな……うん……。割と……本当に……」
しどろもどろに転がりながらも言葉を重ねる。
「……そっか……」
伏見さんはそれっきり俯いて、原稿に向き直ってしまったからどういうことだったのか私には分からなかったのだけど。本を返すために部室から出て行くとき、ちらっと盗み見した横顔は、なんだか笑っているように感じた。
私がこれまで見てきた伏見さんからは想像がつかないほどに柔らかな、年相応の笑みだったので……もしかすると見間違えだったのかもしれないけれど。
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