第5話 文豪シリーズ・斜陽

「伏見さんってなんでそんな風なの」

「は? なにそれ」

「んーん? 面白いなって」


 目の前に小さな小川があったとして。失敗すれば大変なことになってしまうと足がすく見つつも飛び越えてしまえば案外容易だったみたいなことは現実よくあるらしく。


「意味わからんし……」


 昼休み、私はふてくされる伏見さんと部室で過ごすようになっていた。

 彼女が見た目ほど悪い人じゃないのはわかっていて、自身の好奇心が悪い風に転がったのがこの結果だ。

 チグハグな態度の伏見さんに思わず吹き出してしまい、色々弁明の意を込めてあれこれ話しているうちに打ち解けてしまった。


 否、話すことへの欲求が理屈を上回ってしまっていた。


 あの日はそのまま放課後に図書室に立ち寄ることもなく。逃げるように家に帰ったのだけど、翌日、昼休みになると自分の席に座っていることが苦痛で、それまで「平気だ」と言い聞かせて誤魔化してきたはずの時間が重くのしかかっていて。

 ふらふらと何処か時間を潰せる場所を求めて彷徨った挙げ句、たどり着いたのが部室だった。

 他に行く宛もなく、このまま宙ぶらりんでいてもお昼ゴハンを食べる時間がなくなる。


 ドキドキと張り裂けそうになる心臓を抑えつつ扉を開けるとそこには伏見さんがいて。長机に独り、椅子に体育座りしながら文庫本片手にサンドイッチを摘んでいる姿があまりにも小動物のようだったので、


「えっと……私も……いいですか……?」


 きょとーんと事態が飲み込めない彼女に滲み寄る形で近づいた。


「好きに……すれば……」


 ツンケンと、口を尖らせて告げる彼女はやっぱり思っていたよりも怖い人じゃなくて。多分、この子も同じなんだと、


「うん」


 部室に私が入り込むのに抵抗を感じなかった。

 それから二人。文芸部としての活動はなに一つしていないし、放課後は部室に立ち寄ることはないけれど。一応、昼休みの間だけは文芸部の部員が二人、部室に揃う時間となっていた。

 それを文芸部と呼んでいいのかは疑問だけど。図書室に並べていない、古い本が部室内には保管されており。ここ最近はそれの中から文豪シリーズを拝借していた。理由は単純で伏見さんが読んでいたからだ。ならば私も、と郷に入りては郷に従ったまでだった。


「……」


 かといって話に華が咲くわけでもなく。お互い本を読んでいるだけだ。

 私も彼女も、時折チラチラと相手のことを見ているようでごく稀に視線がぶつかると私は笑って、彼女は俯いて返えす。

 しかし不思議と居心地は悪くなかった。

 友達と、先輩後輩と呼ぶにはいささか疑問のある関係だけど。それでもここにいることを許されているというのはどうにも落ち着く。

 それを依存だと、ただの現実逃避だと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけど。少なくとも今は、思い出していた。思い出されてしまっていた。

 誰かと時間を共にするという楽しさを。


「それじゃ、教室戻るね」


 予鈴がなり、午後の授業が始まることを告げている。

 伏見さんが私と同じにように教室に戻るのは稀だった。そういうところが不良らしいというか、なんともしっくりくるようなそれはどうなんだろうと思うような気がしないでもないのだけど、踏み込むべき話題ではないことは重々承知していて。お互いに曖昧な距離感でいることが現場を維持する上で大切なんだと否応無しにわかっていた。


 飛び越えるのは余裕だった。

 だからこそ、それを壊さない方法と言われると疑問が浮かぶ。

 私は彼女のことをなに一つ知らず、知ろうともしない。否、できない。

 一度上手くいかなかった経験が不安を煽ってくる。失うことを恐れていた。またあの教室、一人で過ごすことへの抵抗が。


 ーー馬鹿みたい。


 そんなの、気にしてどうするんだろう。私。

 第一、伏見さんを利用してるみたいで性格悪い。

 自己嫌悪。ずるいと分かりつつもぬるま湯に浸かっているような感覚が心地よく、このままじゃいけないと分かりつつも現状維持に努めてしまう。

 放課後、相変わらずというか案の定、部室には寄りつかずに図書室に足を運び、いつものように栗林先生に微笑みかけられて笑い返し。文庫本コーナーを眺めていると新刊コーナーに並ぶ一冊の本で目が止まった。


 フカミツカサ。


 新刊出てたんだ……。

 別に読みたいと思ったわけじゃない。ただ知り合いにあったから軽く会釈した。その程度の感覚だった。


 なんとなく手に取り、表紙を眺める。

 今度は冬のテーマらしい。雪景色。雪山だろうか。急な斜面には枯れ木が並び、そこに脱ぎ捨てられた防寒具がちらちらと降り注ぐ雪によって白く染められている。

 持ち主はどこへ消えたのか。足音が表紙外に向けて描かれており、その足取りは異様に軽いように思えわれた。

 裏面には簡潔なあらすじ。鬼才の新人の描き出す繊細でいて残酷な世界と煽りが付いていた。

 見るからに暗そうなお話だ。雨具らしのチャッピーがそうであったように、この本も人の闇を描いたものなのだろう。相変わらず主人公は都心に暮らす女子高生で愛情に飢えていそうな設定だった。


「それ、借りるのかしら?」


 当然の如く顔をのぞかせたのは栗林先生だ。


 私が見つければ手に取ることは容易に想像できたらしく、私が「借ります」というのを目を輝かせては待っている。

 だからというわけでもなかったのだけど、私は躊躇してしまう。

 この人の本は嫌いではなかったけど、好きでもない。

 私にとって「本」とは独りでいることを誤魔化すためのものであって、読書のために好き好んで選んでいるものじゃない。


 揺さぶられたくない。


 と、思う。


 この人の本を読んでいると教室で独りで本を読んでいる自分を俯瞰で見せつけられるような気がしてくる。他人事ではないと。思い知らされてしまう。


「いえ、やめときます」


 先生は意外そうな顔をしたけどやっぱりそれを読む気にはなれない。

 本を棚に返して他のものにしようかとも思ったけど、新刊コーナーに良さそうなものはなかった。ーーなら、と向かったのは文芸部の部室だ。


 たまには違うジャンルにしようかと思っていたのだけど、結局は文豪シリーズを踏破するハメになりそうだ。そのことを先生に告げカウンターから部室に入ると伏見さんの姿はなかった。

 少し、というよりも露骨に落ち込む自分がいて、何だかそれが恥ずかしく思えた。


 部屋の中はいつかのように夕日でオレンジ色に染まっていて、お昼休みにやってくる部室とはまた違った印象を受ける。心なしか空気がごそっと丸ごと入れ替わっているような、異世界にでも迷い込むっていう想像はこういうところから来てるんだろうなとか。他愛のないことを思いつつお目当の文豪コーナーに手を伸ばして、カバンの中の4巻と棚の5巻とを入れ替える。太宰治とか、夏目漱石とか。教科書とかで見かけた内容の作品が掲載されていて、全体を通して触れてみれば「なるほど。こういう話だったのか」なんて思ったり思わなかったり。


 だからと言って流石文豪は違うなーとか思ったりするわけではないのだけど。


「伏見さんは面白いて思ってるのかな……」


 並んでいる文豪シリーズからは5巻と8巻が抜けており、片方は伏見さんが持っているはずだ。

 文芸部に入るぐらいだからよっぽどの本好きなんだろうけど、何が面白いのか私には分からない。分からないからこそ部室で話をしようとしないのかもしれない。だって、どの作家が好きだとか聞かれても答えられないし。じゃあなんで読んでるの? ってなったら困るし。


 こんな風に考えていることを知られたら彼女は気味悪がるだろうなって、ちょっと沈んだ。もしかしたら夕暮れがそうさせているのかもしれない。このままだと悪い方向へ引きずり込まれるような気がして大きく鼻で息を吸い込んだ。深呼吸っーー……。


「はーっ」


 と吐き出して気持ちリフレッシュ。


 悪いものは外に出しちゃって、忘れよう。うん。


 それにしても伏見さんがいないなんて珍しいなって辺りを見回すとカバンは置いてあった。部屋の隅に纏められていたから気がつかなかったけど、上着も脱ぎ捨ててある。どうやら席を外してるだけらしい。


 そう思えばこそ早くここから出た方が良いような気がし始める。うまく説明できないけど、放課後は文芸部の活動をするための時間であって、幽霊部員の私がいちゃいけないような気がしたから。

 廊下に通じる扉から出ようとしてそれで伏見さんと鉢合わせしたら気不味いなってくるっと方向転換。

 元来た道を戻るようにして長机を回り込むとそこに広げてあった原稿用紙に目がつく。書かれている内容に興味があったわけじゃない。ただ「なんだかんだいってコンテストには応募するんだ」って思って中身を覗き込んだだけだった。


 ただそれだけで、私は後悔した。


 伏見さんの文字が思ったよりも達筆だったとか、それに似合わず文房具が可愛らしいとか、そういうのもあったけど、私はそれを。それらを。手にとってしまったから。


「これって……」


 小説……?


 言葉は出てこなかった。自然と目が文字をなぞっていた。


 机の上に積み上げられていたのは400字詰の原稿用紙の束で、何度も修正を重ねているのか付箋があちこちに貼られたそれらはとてもではないけれど「良い加減な気持ちで」応募するようなものでは無いように感じられたから。


 なんなんだろう、これは。


 冷静な頭とは裏腹に目で追った文章から映像が流れ込んでくるようだった。

 とても綺麗で、引っかかる要素がない。

 スラスラと読み進めてしまい、それは雪解けの小川を思わせた。

 清く、爽やかな、冬の朝の景色ーー。


「なにしてんの」

「へっ」


 ハッと、我に返ったのは声をかけられてからだ。


 そう何枚も目を通せたわけじゃない。枚数にして2、3枚。3枚目の前半を読み終えるかという具合の時に伏見さんが扉をあけて立っていた。

 静かに、部室の温度が下がっていく。

 夕焼けが、校舎の向こう側に消えて、影に塗り替えられていった。


「わ……わたしは……あの……」


 うまく言葉が出てこない。これだ。これだから嫌になる。

 色を感じさせない瞳が私を見つめ、しかしその奥で鋭く光る物が私を貫く。ただそれだけで私の心臓はありえないぐらい早くなって。うまく、息ができなくて。


「ぶ、文庫本借りに来たら、あ、えっと……気になって……だから、その……」


 あたふたと説明できるだけはしようと重ねてみるけれど声はどんどん小さくなって、足元へと落ちていく。こんなことを言っている場合じゃないのはちゃんと理解していて、弁明じゃなくて弁解でもなくて、こういう時に私はちゃんと、


「ごめんね」


 って言えればいいのに、私は、


「ふしみ……さん……?」


 相手に許しを求めてしまった。

 顔色を伺うように、下手に出て。だからそれは、いけないことだと知っているはずなのに、


「えっと……?」


 曖昧に、済ませてしまおうとした。

 笑って、なんとなく雰囲気で「ごめんね」と告げ、ますます重くなる空気に押しつぶされていく。

 きっと伏見さんは許してくれる。平気だと、過信どころか盲信していて。


「ごめんね」


 泣きそうになりながら、そうこぼした。


「……いいよ、別に」


 絞り出した言葉はちゃんと届いたのかどうなのかすら分からないほど冷静に。ただ、冷淡に彼女は私の元へとやって来て。

 まだ手に持っていた原稿をそっと抜き取ると机の上に散らばっていたそれらをまとめ上げてからカバンに片付ける。

 淡々と。私のことなど気にしていない様子で驚くほど美しく、一連の動作を終えた。

 ただそれだけで伏見さんが怒っていることがありありと伝わって来て、締め付けられるような感覚に胸の内から何かが溢れ出しそうになる。

 部屋の電気をつけなくては少し薄暗い。それほど時間は経っていないはずなのに現実へと私は引き戻されていて。


「それじゃ、鍵閉めよろしく」


 あくまでいつもと変わらない態度を貫く伏見さんをただ、見送るしかできなかった。

 そういえば、彼女が帰る姿を見るのは初めてだったと。後になって気がついた。

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