第4話 狐耳

 ぼぅっと、何かをするわけでもなく椅子に腰掛けてチャイムが鳴るのを待っているっていうのはなかなかに突き刺さる。


 ああ、これが嫌だったから私は本を読むようになったんだよなーって教科書をパラパラめくりながら思った。中には予習に時間を使う人もいるけれど、ああいう人はなんか凄いなって思う。それでいて友達が話し掛けに来たりするからやっぱり凄い。

 勉強してることと友達がいることは関係なくて、本を読んでいようがいまいが、やっぱり私に声をかけてくる人なんてもういなくて。


 いないことに何処か安心して。


 だけど、そんな状態がピリピリと胃を締め付けてくるようで。


「はぁ……」


 窓の外を眺めようにも、どちらかといえば廊下側の。教室の真ん中ちょっと後ろの方に位置する私の席からはそれもできなくて。ここから見えるのは窓際で楽しそうにおしゃべりしている名前もわからないクラスメイト達だけだった。


 文庫本を部屋に忘れてきた。


 寝る前になんとなく手にとって開いてみたのが一貫の終わりというやつで。あまりにも文体が硬く、そこに綴られている言葉が難しかったので早々に頭が痛くなったのだ。そのまま数ページすら読み進めることなく枕元に投げ出し、忘れてきた。つまるところ、暇だった。何かするわけでもなく、何かをできるわけでもない。まだ予鈴すらなっていない朝の時間は苦痛でしかなかった。


「…………」


 優等生を気取るつもりはなく、禁止されているからと言って携帯を学校で持ち出さないわけでもないので他にすることがないしーー、と思ってカバンにしまっておいたそれを取り出し、機内モードを解除する。当然のようになんの通知もなく、当たり前だよねって思いつつニュースアプリを起動してパラパラと新聞の見出しを眺めた。


 いつもと変わらない。同じことだ。やっているのは。


 このどんよりした空気から少しでも目をそらしたくて、文字を追う。

 中身は重要じゃない。何かしてる、そのことが私にとっては重要だった。

 だったら予習でもしていればいいのに。頭の中で誰かが囁く。


 でもそれってなんか嫌。私は視線を落とす。


 ああやって友達がいる子は昨日の夜、課題をやり忘れて今頑張ってますみたいなのが許されるけど、私みたいなのはそういうの似合わないし、そもそもやっぱりそういうのって……、……キツイ。と、私は思う。

 本を読むのと勉強をしているの。

 どっちの方がマシかって言われると、私は本を読んでいる方が好き。

 惨めだな、って、わかってる。

 誰かの目を気にして、耳を塞いでるくせに塞いだ手の向こう側をキョロキョロ探って。ーー気持ち悪い。


 落ち込んでいく気持ちを振り払うように適当に記事のタイトルをタップして開くと机の向こう側でこちらを見つめる目に気がついた。

 ギョッとして体が跳ねる。

 当然のように周りの子たちもこちらを気にして、だけど私はそんな余裕なくて。


「……伏見……さん……?」


 突然やってきた彼女に、呆然と体を強張らせた。


「何してんの」


 明るい前髪の向こう側でギラつく瞳が私を貫く。


「それは私のセリフっていうか……伏見さんこそなにしてるの……?」

「栗林先生に頼まれて、……ハァ……」


 すっと立ち上がると当然のように周りの視線を集める。

 身長はそう高いわけでもないけど基本的に髪を染めてる子なんて皆無なこの学校で彼女の存在はあまりにも目立つ。気だるげに立っているだけなのに存在感っていうか、周囲から浮いている、いや、馴染めてないって表現のが正しいのかな……。

 この場にふさわしくない。そんな言葉がしっくりくるような気がした。

 というか、そんな相手と話している私も視線が辛い。

 それまで当たり障りなくその他大勢の中に溶け込もうとしていた私が急に色を塗られて浮かび上がる。こそこそと交わされる感覚に耐えきれなくなって思わず俯いてしまった。


「ちょっと場所変えよ」

「へ」

「ほら、来て」

「ああっ……!!」


 下級生だよね? 後輩だよね?! なんて言葉が溢れそうになるけど強引に引かれた手に連れられて廊下に出るとそこでも視線を浴びることになって。

 ようやく落ち着けたのは屋上に続く階段に差し掛かったあたりだ。

 殆どの生徒が教室に向かう中、二人、流れから逸れて踊り場で足を止めようやく向き直る。

 ドキドキと急に歩いたからだけじゃない心臓の音がうるさかった。


「もし文芸部続ける気があるなら出してみればって、せんせーが」


 差し出されたのは文芸コンテストと銘打たれたプリントの束だった。


「そんな、私は別にそんな……」


 横書きに記された文字には小説やエッセイなどを募集しているということ。また対象が高校生以下であることなどが長々と書き記されており、恐らくは栗林先生が書き加えたのであろうかわいらしい丸字が「いわゆる春の大会ですねっ(くまさんマーク」などと踊っている。

 このコンテストに関しては知らないわけでもない。

 去年入部したばかりの頃にも伝えられ、一応文芸部だし……ってことで短い俳句を一本提出した。

 今にして思えばなんのひねりもない、面白くない内容で。当然の如く、一次審査すら通らなかった。そのこと自体は悔しくもなんともなくて、ああ、そうですよねって感じで流して。……ああ、もうそんな季節か。と伏見さんからプリントを受け取る。


「私はいいよ。伏見さんが出してみたら?」


 仮にも文芸部に入ったんなら、と私なりにフレンドリーなかえしをしたつもりだったのだけど、そのときの彼女は心底つまらなそうな顔をしていて。


「いや、良いし、そういうのは」


 心底軽蔑したような眼差しを向けてきた。


 訪れる沈黙。


 私が気に触るようなことを行ったのかなーとは思ったけど、そういうのは特に思い当たらなくて。

 心臓を掴まれるような感触っていうのはこういうことを言うんだろう。蛇を思わせる視線にぷるぷるとプリントを持つ指が震え、涙目になりそうな自分に不甲斐ない。子供じゃないんだからと叱咤しつつも「ど、ど、どうしよう」と頭の中が混乱する。


 第一、なんで伏見さんが先生からのプリント持ってくるの? 図書室寄った時に渡してくれればいいじゃん! と憤りさえ覚えるが部長なのに部室に顔を出さないのは私の責任だ。だとしても昨日の今日で面識の殆ど無い伏見さんにお願いするっ……?! 普通っーー。


 栗林先生の考えていることは良く分からない。何か事情のあってのことだろうけど第一なんで伏見さんがーー、と思考がループしかけたところで伏見さんが不思議そうに私を覗き込んでいることに気がついた。


「な……なんでしょう……」


 震えながらも精一杯先輩らしく声を絞り出した所で虚勢にしかなっていなくて、


「そんな怖がんなくてもいいでしょ……」


 口先を尖らせる伏見さんに耳が生えたように見えた。


「き……狐……」

「は?」

「いえっ!!?」


 震え上がって距離を取る。耳はおろか尻尾も生えてない。ただのイメージだった。なんと言うか彼女のその態度というか髪の色が、その。……狐っぽかった。


「もしかして悪い人じゃありません……?」

「日本語でお願いしてもいいかな。Excuse me?」

「発音ばっちし……」

「誰でも言えるでしょこれぐらい……」


 とそっぽを向くとまた口を尖らせる。長い髪で表情は見えないけど仄かに頬が赤らんでいるような気がして。今度は耳だけじゃなく尻尾も見えるようなーー。


「……ツンデレ」

「誰が」

「いっ……」


 あなたです、とは言えないほどに鋭い目つき。

 しかしよくよく見てみればそれは蛇というよりも狐で、睨んでいるように見えるのは伏見さんの顔の作りというか雰囲気がそうさせているらしく。落ち着いて眺めた彼女はそれほど怖い顔をしているわけでもなかった。

 眉を寄せ、不満そうに口を尖らせながらも目つきは鋭い。

 ばくばくと心臓がうるさいのは私だけど、落ち着きがなく見えるのは彼女もだ。組んだ腕の先で指が無意識にうずうずと動いていた。


「んじゃ、渡したから」

「ぁ」


 鳴り始めた予鈴に背を押されるようにして伏見さんが告げ、私は呆然とそんな彼女の背中を見送る。

 人は見かけによらないんだなぁ……ってぼんやり思って、本鈴が鳴り始めてから慌てて教室へと戻った。


 なんとなく、足早に去っていった伏見さんの後ろで揺れる長い髪が印象的で。しばらくの間、先生の話し声は頭に入ってこなかった。


「部活かぁ……」


 足を運ぼうという意欲は、全くと言って良いほど湧いてはこなかったけれど。伏見さんともう少し、話して見たかったな、という気持ちは少しだけ浮かんできていて。

 そんな自分を嗤う自分もいる。


 話すって一体何を。


 久しぶりに人と話したからと言って調子に乗るのはよくない。彼女が思っていたような悪い子ではないのは事実かもしれないけれど、それと私が彼女と友達になれるかというのは別問題だ。というか、友達になりたいの? 私は。


 ぼんやり現れた疑問に、胸の奥が締め付けられるようだった。


 今更友達なんて、という予感さえある。学校で話す相手がいないからと言って何も困ることはないし、あの子と話すようになればきっと私もあの視線のマトになるんだろう。教室で伏見さんに注がれた腫れ物に触るような好奇心を思い返すだけでお腹が痛くなりそうだ。私はその他大勢の目立たない存在でいい。


 ぼんやりとそのまま一限目の授業は化学室に移動で、渡されたプリントのことなどそのまますっかり忘れてしまい、再び思い出したのはお昼休み。お弁当を取り出そうとした時に一緒になって出てきたのを手に取ってからだった。


 一年生の間はなんとなく教室に居場所がなくなって行くのが怖くて時間になると部室でお弁当を食べていた。

 そんな私を栗林先生は何も言わず迎え入れてくれて、お茶をいつもご馳走になっていた。


 二年生になってからはそれももうない。


 慣れたと言えばそれまでなのだけど、居場所がなくなって行くことと、居場所が元からないのではまた違ったように感じる。

 最初から誰にも相手にされていないからこそ教室で昼食を済まし、図書室へ向かう。時間を潰すためだ。大抵は窓際のソファー席でうとうとするのが日課になっていた。

 他にも机で突っ伏して寝ている生徒もいるし、昼間の図書室とはそういうものなのかも知れない。


「受け取ってもらえたかしら」


 しかし今日は例のプリントの件もありどうにも眠気が襲ってこなかったので適当に抜き取ったハードカバーを膝に広げ文章のうわべをなぞっていると栗林先生が隣に腰掛けて来た。

 甘い紅茶の香りが毛先から膨らんで、少しほっとする。


「伏見さんは部室ですか?」

「ええ?」


 頷いて尋ねると案の定そう返される。

 自然と図書管理室からは一番遠くーー、けれど扉の様子がうかがえるソファーを選んで座っていた。

 気にならないかと言えば気になるのだ。というか、不測の事態を避けるためでもある。

 一体どういう事態なのかわからないけど。


 ポケットに折りたたんで入れておいたコンテストに関するプリントを取り出すと「あらまぁ」先生は嬉しそうな声を上げる。わざとらしく両手を合わせたりして。可愛らしいとは思うけど、いや、歳。

 まぁ、若いなぁ、とか思ったりもしたりしなかったり。

 先生の期待を裏切るようで悪いのだけど「いえ、出しませんけど」と釘を刺してから本題に入る。


「伏見さんが応募したらいいのに」

「それは難しいかなぁ」

「どうしてですか」

「んゥー?」


 んふふーと笑って曖昧に誤魔化す先生に肩をすくめて持っていた本を棚に戻した。どうにもこの本は目でなぞる気さえ起きない。そう意味ではヤマアザラシと同じかも知れない。

 自然と視線が部室の方へと向いて、あの扉の向こうに彼女がいるのだと思うとムズムズするような、落ち着かない。


「恋、かしらね」

「何言ってるんですか……」


 耳元で甘く囁かれるけれどドン引きだ。

 確かに伏見さんのことは気になるけど、これは恋とかそういうんじゃなくてーー、


「……怖いんですよ」

「?」

「なんでもないです」


 得体の知れない何かが顔を覗かせてくるようで、怖い。

 夜。暗闇の先に何かがいるのを想像して勝手に怖がっているような、そんな感覚に近い。


 同世代の。言ってしまえば一つしたの学年の女の子。

 それが少し不良っぽくて、ツンツンしているだけの馴染みのないタイプだから気になるだけで、あの子が悪い子だとは私自身思っていなくて。だからこそ、期待してるーー……?


 どきっと、心臓が跳ねたような気がした。


 気がしたからカッと熱くなった頬を振り払うように鼻で一度深呼吸する。

 やめてよもう……。

 友達なんていなくたって平気だ。話す相手がいなくても大丈夫。

 ズキズキとあり得るかもしれない未来の傷口が幻覚となって心をえぐる。

 独りでいるなら何も感じずに済む。

 独りになる辛さは、もう味わいたくないーー。

 思い出したくもないような記憶が顔を覗かせ、それに必死に蓋をして図書室から出たところで「ぁ」「ん?」彼女に出くわした。


「ふしみ……さん……」

「……ぁー」


 言葉を失う私に彼女は、


「なによ」


 彼女は睨みで返えす。


「…………」


 ゴゴゴゴゴだなんて、漫画とかなら効果音が描かれそうな表情で。

 文字通り毛を逆立てて威嚇しているようにも見えるのだけど。

 その前髪の向こうで揺れる瞳があまりにも臆病に見えたから、だから、私は、


「ぷっ……」

「はッ……?!」


 思わず、吹き出してしまった。


 結果的に、それが彼女とのハジマリになった。

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