第3話 ヤマアザラシの一生

 文芸部の部室は図書室の隣にある図書管理室で、文芸部の顧問は図書室を管理する栗林先生が受け持っている。先生というけれど司書の資格を持った契約社員的な奴らしくて、特に勉強を教えてくれたりはしていない。専攻は化学で、見た目に寄らず日々実験に明け暮れる日々だったと聞いたことがある。普段ふんわりしてるから務まるのか不思議だけれど、それはそれ、これはこれって感じなんだろう。


「落ち着いたかな……?」

「す……すみませんでした……」


 えぐえぐと涙をこぼしながら私はその栗林先生に慰められていた。


 久しぶりに足を踏み入れた文芸部の部室・図書管理室。

 私が入部した頃と殆ど何も変わっておらず、新しく入荷した本の他に先生の私物などが溢れかえっていて、私が落ち着いたのを見計らうと先生はケトルで沸かしたお湯をポットに注ぎ、紅茶を淹れ始める。

 立ち込めた甘い香りに、私があの人にぶつかった時嗅いだものを思い出す。


 ーーこの匂いだったんだ……。


 ぼんやりと反対側の隅で椅子に腰掛ける姿を追って、目が合いそうになり慌てて逸らす。

 ドキドキと、やっぱりこの人は苦手だと心臓が高鳴っていた。


「こちら伏見椿さん。そして幽霊部長の佐久良三咲さんね?」

「ど……どうも……」

「……ふーん」


 紹介され、会釈するけど突き刺すような視線に肩が上がった。なんだか本当に犬っぽいなぁとか頭の隅で思うけど口には出せない。怖いし。

 この部室にいるってことは文芸部なんだろうけど、……もしかして図書委員とか……?

 って思うけど、図書委員の仕事はお昼休みの本の貸し出しとかで放課後にやってくることはまずない。第一、図書委員って感じでもないし。

 いや、流石にそれは失礼かな……。

 校門でいきなり先生に声をかけられそうな着崩しといい、何よりも髪の色が悪目立ちしていて良い印象を全くと言っていいほど受けない。なんなんだろう、この人……って栗林先生に助けを求めると先生はただ微笑んで見せる。


「悪い子じゃないから仲良くしてあげてね?」


 ティーポットからカップに注いだ紅茶を私たちに差し出し、自分は図書室へと戻っていく。

 何をよろしくすればいいのか分からないまま何もしないというのも気まずくてカップに手を伸ばす。だけどやっぱりというか、当然それはまだ熱くて。口先でふーふーと息を吹き付けてさますけれど、そんな光景もなんだか気まずくて。


「えっと……大丈夫でしたか……?」


 勇気を振り絞って声をかけてみる。


「倒れそうになったの助けようとしてくれたんですよね。ありがとうございました」


 軽くお辞儀をし、何を考えてるのか分からない瞳に身じろぐ。じっと見つめられて変なこと言ったかなって心配になる。

 紅茶は変わらず熱いままでそれでもちびちびと唇をつけてすすって、さっきまではいい香りがしていたのになんだかそれもよく分からなくて。


「それ飲んだらでてってよね」


 あからさまに棘のある言葉に汗が吹き出しそうだった。

 視線を上げてみれば溜め息混じりに彼女もティーカップに口をつけていて、ちっとも熱そうじゃなくて。よくよく見て見なくとも鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしていて、私とはえらい違いだとなんだか恥ずかしくなった。ちびちびと紅茶をすすりながらも全部飲まずに置いて行こうかとも思う。ただそれは先生に申し訳なくて結局最後までちびちび飲んだ。その間、伏見さんは私の方を見たり見ていなかったりで自分の心臓の音が耳まで届いてきそうな緊張感で、生きた心地がしなかった。


「それじゃ私はこれで……」


 流しでカップを洗って窓際の定位置にそれらをなおしてから扉を開けようとすると「図書室ならそっちだけど」と気だるげに顎で示される。

 飲み終わっているらしいカップを両手に包んで椅子の上で三角座りをする彼女は害意がなさそうに見えるのにピリピリしていて辛い。


「あ……うん……?」


 ていうか、サンダルの色が緑だから一年生だった。

 二年生は青、三年生がオレンジだ。

 今年入った新入部員……? 文芸部に?

 形式上は部長ってことになっているけど殆ど廃部寸前だし、その気がなかったから新入生の勧誘とかもやって来なかった。それは学校側もわかってたし、栗林先生も「三咲さんがそれでいいなら、そうしなさい」って。

 なのに、文芸部……?


 不思議な子だった。不思議だとは思うけど怖くて聞けなかった。聞く必要もなかったし。


「あ、どうだった?」


 カウンターで作業をしていた先生は扉から出てきた私に気がつきそう笑い、私は部室へ続く扉をしっかり締めてから小さく溜め息がこぼれた。緊張がほぐれて自然に溢れ出したって感じが正しい。

 はぁ〜……ってその場で崩れ落ちそうになりながらもトボトボカウンターの外側に回って、「文芸部に入ったんですか……?」当たり前のことを確認する。


「うん。三咲さんの後輩よ?」

「部長交代ですね」

「それは貴方が引退してからでいいんじゃないかしら」


 引退も何も幽霊部員なのにどうしようというのか。

 結局は形式上のものなのでどうこうしたところで何も変わらないのだけど、まさか後輩ができるとは思っていなかったので戸惑う。だからと言って文芸部で何かしようってわけでもないし、今日はたまたまアクシデントでああなったけど基本的には寄り付こうとも思えない。あんな怖い子がいるなら尚更だ。


「苦手みたいね」

「そんなんじゃありませんけど……」


 クスクス笑って見せる栗林先生はひとごとだ。ひとごとなんだけどそれにしたってヒドい。彼女と私を二人っきりにして軽い嫌がらせのようにも思えた。無論、そんなことをする人ではないのだけど。


「それで? どうだったかしら」

「どうって……別に私はこのまま幽霊部員でいさせてもらえればって思うんですけど……」

「ううん? そうじゃなくって。読んだんだよね? あの本。どうだった?」


 ふと、灰色の景色の中で舞う紅葉が頭の中に浮かぶ。ひらひらと、風に流されて落ちていく赤とオレンジの景色。地面に散らばった落ち葉は色あせていて、ドロドロで、そこに佇む一人の女の子は睨むようにこちらを振り返る。


 あの小説の、扉絵だ。


 ざわつく木々の音色が静寂を掻き乱し、しかし風が収まれば虫の音さえ聞こえてきそうな静けさと、それでもなお、何も聞こえてこない不安さが辺りを満たしていく。


「不思議な感じでした」


 素直に感想を告げる。


 描かれていた物語は好きではなかったけど、あそこに出てきた人々は嫌いではなかった。誰も彼も自分勝手で、周りの迷惑など気にしないで保身に走るのだけど、それでもそんな彼らを嫌悪しながらも何処かで「仕方ないよね」って思ってしまった自分がいる。

 むしろそんな彼らのしわ寄せを受け、最終的に孤独の中で壊れていく主人公の方にこそ苛立ち、可哀想だとは思えなかった。


「先生は、あの本が好きなんですか……?」


 人が好きだというものを嫌いだとは言えない。言ってから流れた微妙な空気感に身動ぐ。苦手だ、こういうのは。

 恐る恐る先生の顔を見上げてみると満面の笑みで私を見ていて、「私は苦手よ? ああいうお話」悪びれもなく、そう言った。


「私は楽しいお話が好きかなー? 読んでいてほっこりするような。ワクワクしてポカポカして。でも時々ぎゅーんって締め付けられるような寂しさがあったりしてそれでも最後はよかったーって肩の力が抜けて自然と笑えるようなお話が好き」


 指先を合わせて笑顔で告げる栗林先生は本当に楽しそうだった。そしてそれは本当に本が好きなんだなってことを私に思わせた。


「だからあの本はちょっと苦手。とても綺麗な文章だけど、ちょっと痛いもの。指先が。……薄い氷ですぅって切られるみたいな。わかるかな」

「わかるような分からないような……」

「だよねっ?」


 変なこと言ってごめんねと苦笑しながら先生は腰掛けなおしてカウンターで仕事を再開する。本の内容について先生が語ることは珍しくないけど、こんな風にいろんな表情を見せてくれたのは初めてかもしれない。それに、先生の言った「薄い氷」って表現が私の中でもぴったりはまっていて、頭の中であの本の映像が流れ続けていた。


 薄氷の上に落ちたもみじ。

 それを摘まみ上げる指先。

 そんなシーンはなかったはずなのにそれがとてもしっくりくる。


 ーー変なの。


 ざらざらとささくれ立った指先が胸の内側を弄ぶようで気持ち悪い。

 カウンターから外に出ていつもの習慣で本棚に向かおうとして「その本」が手元にないことに気が付いた。

 ここに来る途中、カバンと一緒に手に持っていた。けど、あのとき確かーー。


「…………」


 静かに閉じられた図書管理室への扉を振り返る。多分、あの中だ。

 赤く、文庫本がぶつかって染まったおデコを思い出す。


 あの後あの本、あの子が拾ってくれたのかな……?


 だとすればそのまま文芸部に置いてあることになるし取りに行かないといけない。けど、気が進まないなぁ。

 いつか返却しなきゃいけないのは分かってるけど出来れば自分で取りに行かずに済ませたいと思う自分がいる。

 どうしようかとモタモタしているうちに向こうから扉が開いてくれた。というか開いた。

 不機嫌そうな顔をして出てくる伏見さんと目が合い、やっぱりというか当然のように俯いてしまう。


「これ、落ちてた」

「あら」


 私にではなく先生にそれを手渡すと再び部室に帰っていく。

 ちらりとこちらを見たような気がしたから、私が落とした本だってことは気付いてたらしい。

 悪いことしたかなぁって思うけど声はかけられなくて、そのまま閉まる扉を見ていた。


「返却ってことでいいのかしらね」

「すみません……」


 本当はちゃんと自分で持ってこなきゃいけなかったのに。

 事情を察してか苦笑気味の先生に甘えて私は本棚に向き合う。

 背表紙に書かれたタイトルは頭に入ってこなかった。

 苦手だ。やっぱりああいうタイプの人は苦手だと思う。


「三咲さんはどうして文芸部を選んだのかしら」

「はい……?」


 他に生徒がいないのをいいことに手を動かしながら栗林先生が投げかけてくる。


「帰宅部はないけど、幽霊部員になるならもっといい部活もあったんじゃない?」


 例えば科学研究部とか写真部とか。

 殆ど活動していない文系の部活は確かにあって、校則上何処かに所属しないといけないけれど、部活に参加したくない生徒のための受け皿というものは暗黙の了解で設けられていた。

 英語研究部なんて年に一度海外旅行に出かけるのが部活動だと説明された。


 なのに文芸部だ。


 私が一年の時には既に部員は誰もいなくて、誰もいないならって思って入ったら部長に任命された。

 いや、自然な流れなんだろうけど部長会議とか出たことないし予算もないから幽霊部って感じなんだけど。


「部室が暖かかったので……」

「……へぇ……?」


 率直に思ったことを答えたつもりだったのだけど、先生は目を丸くして可笑しそうに笑った。


「確かに日当たりいいものね。部室」

「はい」


 他の幽霊部は化学準備室であったり階段下の物置だったりと居心地が悪そうに思えたのだ。

 入部当時活動するつもりもなかったのだけど、それでも身を置くなら少しでも立地の良い部室にしたかった。


「おかしい……ですかね……」

「ううん?」


 私も好きよ? あの部屋。と付け加えて視線を送る先生。

 扉は閉じられたままだけど向こう側から夕焼けで照らされた窓が赤く染まっていた。

 あの子は部室で何してるんだろう、と関わりたくなんてないのに思ってしまう。

 とても本を読むようなタイプには見えなかったから。


 ……幽霊部員か。私と同じ。


 部活動をやりたくなくてどこでもいいから席を置いてる。そんな感じ……?

 だとしても私よりちゃんと部室にいるし、良くわかんない人だなって手元にあった本を取る。


 ヤマアザラシの一生。


 なんだか退屈そうなタイトルだけど明日から教室で読む本がないのは苦痛だ。

 先生に言って貸出手続きを済ませる最中も部室に続く扉が開くんじゃないかと気が気でなかった。

 そんな風に気になる自分がなんだか意外だった。

 このまま退部届け出しちゃおうかな、なんて思いながら後にした校舎は良い色に染まっていて、図書準備室の窓からは椅子に腰掛ける彼女の明るい髪が覗けて見える。しばらく彼女が何をしているのか伺おうとしていた自分がいて、なんだいけないことをしているような気になって何事もなかったふりをして校門へと向かった。

 徐々に暮れ落ちていく夕日の空は青く染まり、夜の冷たい風が頬を撫でる。


 ヤマアザラシの一生は、なんだか退屈なお話だった。

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