第2話 雨具らしのチャッピー。

 この学校にも不良っているんだ……。そんな風に思いながら胸を抑えて見るとまだドキドキしていた。

 長い前髪越しに見えた目はなんだかギラついていて、しかも髪は茶色に染めていた。


 パラパラと、図書室の棚から適当に本を取り出しては捲って見るけれど内容が頭に入ってはこない。隣の教室にあの人がいるって思うと妙に落ち着かなかった。

 昨日まで何事も感じなかったその一角が突然異質なものを発しているように感じられる。どよよーんとした重いオーラを思い浮かべて流石に小説の読みすぎかと馬鹿らしくなるけど、ゴトリと物音がするたびにあの人が何か落としたのかとビクッと体が跳ねてしまった。

 思っているより私は酷く臆病なんだなぁとか、なんだかいつもより興奮気味なのも少しは察して居て、ドキドキと、視線が図書管理室に向く。


「何か探し物?」

「ぁ……」

「ん?」

「いえ……」


 振り返れば図書室を管理している司書の栗林先生が首を傾げていた。


「次はどの本にしようか悩んでいただけです……」

「三咲さん随分借りてくれたものねー……。んー……」


 私とそう身長も変わらず、柔らかい物腰で話しかけてくれるこの人が私は好きだった。明るい色の髪をした癖っ毛がふんわりと夕焼けで踊って見える。

 綺麗だなーって見とれてしまうほどに大人で、だけど子供っぽくもあって。これでもうすぐ30だと教えてもらった日はとても驚いた。彼氏ができないことが悩みの種だとかいうのも。

 絶対嘘だ。


「三咲さんは恋愛ものはお好きかしら」

「嫌いじゃないけど好きでもないです」

「なるほどなるほど」


 多分、この人は本が好きなんだろう。私とは違って本当に。

 いつだったか本の世界は不思議だと話して聞かせてくれたことがある。その時の表情でわかった。この人も私とは違うって。

 私はただ周りの視線が怖くてページをめくっていた。何もしていないことが辛くて何かしてなきゃいけないような気がして、こうして毎日文庫本を手に取る。だから、そこに何が書かれているかなんて重要でもなかった。


 気だるげな羊。


 今日、読み終わった本のタイトルだ。

 内容はイマイチ覚えてない。

 音楽の才能に恵まれず、それでも歌うことを諦めきれなかった女子高生が校舎の上でライブをするお話だった。

 味のしないガムを噛み続けるような味気ない感覚。面白いわけでもない。楽しいこともない。

 ただ消費して、浪費している。時間を。

 そんな私に真剣に本を選んでくれて、なんだか申し訳ない気分でいっぱいだ。

 人に本を勧めるのが心底嬉しそうだから何も言わないで頷いておくけれど。……面白いと思ったことは未だにない。


「これなんかどうかな?」


 雨具らしのチャッピー。


 鮮やかな紅葉に包まれた森の中で、独り、傘をさして佇む良く分からない生き物のイラストが添えてあった。表紙を見るにライトノベルっていうよりも一般文芸に部類されるものなんだろうけど、見たことのないタイトルだった。


「面白いんですか?」

「私のイチオシ。興味深いって感じかな?」

「へぇ……」


 なるほど、そうなんですね。

 ごにょごにょと断る必要もなく。じゃあこれを、と貸し出しカウンターで事務的な手続きを済ませると既に日が暮れていた。


「感想、聞かせてね」

「はぁ……、まぁ……??」


 そんなこと、今まで一度も言われたことがないのにそう告げる先生はなんだか楽しそうで。そんなにこの本が好きなのかなーとか思いながら帰りの電車では携帯をいじって過ごした。

 翌日は土曜日で、その本を開いたのは週開けの月曜の朝になってからだった。

 私は、この本を受け取ったことをすぐに後悔することになる。

 だってあまりにも、


「…………」


 あまりにも、くだらなかったから。

 読んでいて腹が立つほどに理不尽で、暴力的で、振り回される主人公の女の子は表示のイラストからは連想もできないような暗闇の中にいて。

 思わず表紙がすり替えられて違うものになっているんじゃないかって確認してしまうほどに、思っていたお話とは全然違って。

 なのに、すごく文章が綺麗だと思った。

 そんなこと今まで思ったことなかったのに、驚くほどに滑らかで、キラキラしていた。

 確かにそこに描かれている物語は活字で、文字の羅列でしかないのだけど、その文字の並びそのものが芸術的とでも言うんだろうか。私は初めて、すごいなって、思った。

 思ったから、目が離せなくなった。

 ムカムカと胸焼けしそうなほどに辛いお話が流れ込んできて、なのにその語り口調はとても自然で、塞き止めようとしても流れ込んで来る。そんな、有り体でいえば信じられないようなお話を閉じることができたのは予鈴が鳴り終わり、本鈴の掛け声と共に周りの生徒が立ち上がってからで。……周りが見えなくなるってこういうことなんだと周囲が椅子に座り直していく景色を眺めながら思った。


 フカミツカサ。


 そう書かれた著者の名前がしばらく頭の中で浮かんでは消えていった。



 それまでなんとなく。本当になんとなく読み終えていただけの本を初めて「はーっ……」と言うため息とともに読み終えて、放課後。私は屋上に設けられたベンチで空を見上げた。

 空っぽになったような、それでいて不思議と満たされた、妙な感覚だった。


「ひどい話だった……」


 そう呟くしかできないような残酷で、辛い物語だったのだけど、だからこそ最後に少女が見つけ出した「安息」がとても輝いて見えた。

 透明な言葉の向こう側から溢れ出した湧き水の様に、サラサラと、そこに至るまでに痛めつけられた躰をいたわるように、優しく、傷口を塞いでいくような。ヘンテコな感じがした。


「……私には文才ないなぁ」


 膝の上に置いた文庫本。


 ここに綴られた物語を言い表すことすら私にはできはしない。できないからこそ物語に落とし込むのだと昔の偉人が言ったそうだけど、多分本当にそうなんだろう。

 この感覚は、読み終えたからこそ溢れてきたこの気持ちはーー……決して、数行にまとめられるものじゃない。

 フカミツカサ。

 どんな人なんだろうと思う。

 それまで作者なんて誰でもよくて、少しでも文字の並びが読みやすい人を選ぶ基準みたいなものだったのに凄く気になった。表紙裏のプロフィールには簡潔に期待の新人みたいなことが永遠と綴られていて、あとがきに至っては付いていなかった。代わりに何処かのおじさんの解説が添えられていて、だけど、そのおじさんの解説はなんだか的外れな感じもして。

 そう言うところもあってか、妙に気になった。


「栗林先生なら知ってるのかな……」


 おすすめだっていってたし、先生ならこの人のことを詳しく調べてるかもしれない。

 たった1日で読み終えたといえば驚かれるかもしれないけど、腰はすでにベンチから上がっていて、自分でも驚くほど軽快に、と言うか足早に、図書室へ向かっていた。ドキドキと、こんな風に「嬉しくなった」のはいつぶりだろうってなんだか楽しくて、だからこそ、前が見えてなかった。


「わっ!!?」


 その横からぶつかって来た影に、私は弾き飛ばされて。


「ちょ」


 腕を掴まれたかと思ったらぐるりと景色が一転し、私は、ーー甘い香りの中にいた。


「……?」


 春先の草むらに立ち込めるような仄かな蜜の香りが、鼻先をくすぐる。

 僅かに傾き始めた夕日の光は埃をきらきらと浮かび上がらせていた。


「あだダダダだ……」


 私の下で呻くその人の顔には私の持っていた文庫本が乗っかっていて、おでこが少し赤いから多分角がぶつかったりして、って言うか、私はその人を押し倒してるって言うか抱きかかえられてて、


「え、え、えっと!! すみません!!!」


 慌てて体を起こすと短いスカートから覗く細い足にドキっとさせられた。

 明るく染められた髪越しに瞼が開く。


 鋭く、野犬を思わせるような刺々しい光ーー。


 それだけでぎゅっと心臓を握りつぶされたような気がして息ができなくなる。「あ、あの、えっと」だなんて言葉に詰まりながら必死に息を繰り返して、そのせいで自分の体温がどんどん上がっていくのがわかった。


 怖い、恥ずかしい、逃げたいっーー。


 なんでちゃんと前を見てなかったんだろうとか、どうしてこんな風にぶつかっちゃったんだろうとかいろんなことが浮かんでは消えて、「っーー……」体を起こしたその人が私の顔を真っすぐ見つめて来た時には思わず顔を逸らしてしまった。

 逸らしたところでどうしようもないのはわかってるのに。


「…………」


 沈黙が、重くのしかかってくる。

 ぶつかったのは私だ。悪いのが私ならちゃんと謝らないといけないのもわかってる。なのに、


「っ……?」


 ちらっと視線を戻した先のその人を見るとぎゅっと瞼をつぶってしまう。

 本能的に、この人が怖いって体が言うことを効かない。

 子供のころに犬に追いかけられたとか、そもそも不良って人たちが苦手だとか、そう言うのもあるのかもしれないけど、「この人が怖い」。ただそれだけだった。


「伏見さん? いま何か凄い物音としたけどーー」


 だから、隣の図書室に続く扉から栗林先生が顔を覗かせてくれた時、私は泣きそうだった。

 と言うか、泣いていた。


「え、え、えっ……! 三咲さんっ?!」


 子供みたいに、うえーんって泣いて。


「……いや、泣きたいの私の方なんだケド……」


 その人の声を、初めて聞いた。

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