三、狐の章⑦


「離せ!」

 もがき、つららの腕から逃れようとする少年。つららはそれでも力を振り絞り、少年の腕を抱え込んだ。

「絶対に嫌だからッ! 九十九くんが、あなたに用があるみたいだから、少しぐらいお話ししようよ!」

「オレは、こいつと話すことなんて、なんにもないッ」

「そんなことないでしょッ」

「あるんだよ!」

「だ、だったら、わざわざ九十九くんの姿をして、私を裏側まで連れてくる必要ないじゃんっ」

「オレは……オレはッ、ただ人間を騙したかっただけだ! 妖怪だからな。人間を唆して、裏の世界に置き去りにして、他の妖怪に襲われるのを傍観して、楽しもうと思っていただけだよ!」

「嘘ッ!」

「嘘じゃない」

「だったら、なんで、鵺と会った時に驚いていたの? あの時、ずっと盗み見ていたなら鵺が現れたのも知っていたはずでしょ? あと、九十九くんと会いたくないなら、ずっと傍観して出てこなければいいじゃん。私が襲われるのを陰で見ていたなら、九十九くんが私を助けに来たのも知ってるはずだもん」

 鋭いつららの指摘に、狐姿の少年が、言葉を詰まらせる。

「そ、そそそそんんなこと言ったってなぁ、オレは……オレは、本当に、こいつと……【表側で母さんと幸せに暮らしているこいつなんか】と、会うつもりなんてなかったんだ。どうせ父さんの苦しみも、オレのこともしらないんだから、話すことなんて、なんにもないッ」

「オレが、幸せに?」

 九十九の呟きに、狐がこちらを向く。

「そうだっ。おまえなんて、表側の世界で、なにも知らずにのうのうと暮らしているんだろっ。父さんのことも、オレの存在なんか、いまのいままでしらなかったくせに」

 鼻息荒く捲し立てる少年を、九十九は仮面の下から睨みつけた。もし仮面がなければ、冷酷な瞳が露わになっていたはずだ。

 動揺が無くなり、自分の中で感情が、いっきに冷めていくのを感じる。

(なにも知らないんだ)

 オレのことも。母のことさえ、彼は何も知らない。父が母を捨てたせいで、もう何年も前に母親が苦しんで亡くなっていることも。

「母さんなら、オレが六歳の時に死んだよ」

 淡々と、九十九は事実を告げる。

 驚愕の表情になる少年。すっかり大人しくなった少年の腕を抱えたまま、瀬田つららが目を見開いてこちらを見ていた。

「オレの母さんって、どうして死んだと思う? 最初っから最後までね、ずっとあの男のことを……想いながら死んでいったんだ。あの男に捨てられたくせに、あの男のせいで、母さんが親戚中から嫌われてしまったというのに」

 九十九自身もそうだった。半妖の彼は、その出自を知られるたびに、周りから疎ましがられて距離を置かれた。どうして半妖なんかが討伐師をやっているのか。そう攻めてくる大人もいた。肩身が狭く、圧迫されて、もう無理だと思ったことも、過去にあった。

 けれど、これまで九十九は、母を捨てた父を探し出して問い詰めるてやることを目標にして、いままで突き進んでくることができた。――それだというのに。

 目の前にいる狐の姿をしている半妖は、自分のことを羨ましいのだという。母と一緒に暮らせて、幸せだったんだろと言ってくる。

 冷めた感情に、ふつふつと静かに怒りが湧いてくる。九十九の力の源だった、怒りの感情が。

(おまえだって、オレの苦しみなんかわかるはずがない)

 いままでどれだけの人間に、半妖だからと、コケにされてきたかもしらないくせに。

 九十九は狐面を右手でとった。それから露わになった瞳で、少年を睨みつける。

 ビクッと、少年が身を震わせる。つららは、どこか悲しそうな眼差しをしていた。

「おまえが誰なのかは知らないよ。自分だけが不幸だと嘆くのも勝手にすればいい。けれどね」

 九十九は息を吐くように、言う。

「苦しんでいるのは、おまえだけじゃない」

 突き放すような物言いに、つららが「九十九くん」、と小さな声で囁いた。それをあえて無視すると、九十九は冷たい眼差しのまま少年をにらみつける。

 口をわななかせる少年。

 狐の顔が歪み、細い瞳から、ぽとり、と雫が零れ落ちた。

 嗚咽を漏らし、少年が悔しそうに、九十九に吐き捨てる。

「そんなこと、わかってんだよ!」



     ◆



 苦しんでいるのが自分だけじゃないなんて、そんなことわざわざ言われなくても、少年はわかっていた。

 ずっと苦しんでいる妖怪を知っている。父であるその人は、苦しみゆえにお酒をあおり、泣き上戸になっては喚き散らしていた。それを身近で見てきたのは、他ならない少年自身なのだから。

 けれど、この十五年間。父以外、誰とも関わらずに過ごしてきた少年は、その淀みのような感情を、自分で許すことでしか生きてきてこられなかった。

 人間の血を自分の父親に否定されて、ヒトにも妖怪にもなれない醜い身なりをしている自分。

 そんな自分とは違う、きちんとヒトの姿をしている化野九十九。自分と血を分け合っているはずの彼のことが、ただただ羨ましくてしょうがない。彼は妖怪の力を持っているにも関わらず、きちんと人間の姿をして、人間世界で生きている。学校に通い、他の人間にも好かれて、きちんと人間として生きている。

 そんな彼の苦しみを知ったところで、自分には関係がない。――そう思っていたのに。

 「くそっ」と少年は悪態を吐く。

 何も言い返せない自分に腹が立っていた。

 父が言っていたから。「母は、おまえの兄と幸せに暮らしているだろうさ」、とそう言っていたから。彼は、いまも幸せに暮らしているのだと思っていたのに。

「ふざけるなよ」

 震える唇から声が洩れる。湧き上がる羞恥心と、自己嫌悪に吐き気がする。

 嗚咽が、とまらない。塞き止めるものがないから、意味の分からない涙が、止まらない。

 地面を睨みつけるように、悪態を吐き続ける。そうすることしかできなかった。

 ――その時だった。

「あったかい」

 少年の腕を抱え込んでいた瀬田つららが、その腕に顔を寄せて、そう言葉を溢したのは。

「なんっ」

 なんだよという前に、顔を上げたつららが、こちらを見てニッコリと笑った。

「あったかいよ。あなたのこの毛、人間の体温のように温かい。私、狐に触れたのは初めてだけど、こんなにあったかいものなんだねー」

「離せ」

 狐の体毛に覆われている腕を振るが、すでに遅かった。

 瀬田つららが、その真っ直ぐなまんまるの瞳で、少年を見ている。

 邪気を知らなそうなその笑みは、あまりにも真っ直ぐで。

(なんなんだよ)

 唇を噛み、少年は彼女と目を合わせ続けるはめになった。

 瀬田つららは、なおも言い続ける。

「あなたが九十九くんの姿をしていた時に、手を繋いでいた時も思ったんだよ。手があったかいってことは、体温があるってことでしょ。体温があるってことは、生きているってことじゃん。なら、生きているのなら、笑顔にならなくっちゃ。私のパパとママはもう死んじゃったけれど、生きているときはいっつも笑顔だったよ。だから、私もなるべく、笑顔でいようと思ってるんだ」

 だから、と彼女はなおも笑顔で、それはもうキラキラの素敵な笑顔で、言った。

「すべてを吐き出したら、一緒に笑おうよ」

 彼女を騙して、「裏側の世界」に連れてきたのはこの自分だ。それだというのに、この少女は自分を責めることなく、やさしく温かな眼差しと言葉で、この自分を包み込もうとしてくれている。

 涙が止まらないのに、少年はそんな彼女に対して、怒りよりも、「なんだこいつは」という謎の笑みが零れそうになっていた。泣いているのが馬鹿らしくなるぐらい、彼女の真っ直ぐな瞳は、あまりにも馬鹿らしい。

 それが、とても心地よく感じた。

(ああ、もしかして。オレは、誰かに自分の存在を認めて欲しかっただけなのか?)

 他の妖怪は、おまえは半端モノだと嘲笑ってきた。

 実の父には、人間としての部分を否定された。

 兄である化野九十九は、妖怪を、自分の感情を否定してくる。

 けれど、この少女は。この少女だけは、少年をあったかいと、生きようよ、と言ってくれた。

 それがあまりにも嬉しくて――少年は、ゆっくりと口角を歪めた。

 傍で、化野九十九のため息を吐く音が、小さく響いた。



     ◇◆◇



「つらら!」

「愛海ちゃん。どうしたの?」

 【九十九】に連れられて自宅に戻ってきたつららは、家の前で待っていた顔ぶれに驚いた声を上げる。

 美浜愛海は、そんなつららのとぼけた顔を見た瞬間、大げさなため息を吐いた。

「はああ。もう、化野からつららがいなくなったって聞いて、うちらがどれだけ心配したのか、わかってないって顔ね、この子は」

 頭を、乱暴な手つきで撫でられる。

「無事でよかったけど」

「ごめんね、愛海ちゃん」

「謝るぐらいなら、今度から気をつけなさい」

「心配してくれて、ありがと」

「はぁ。どういたしまして。今度から長時間外出するときは、ちゃんとトウジさんに一言いうんだよ。一番取り乱していたのは、トウジさんなんだから」

「うんっ。トウジ兄ちゃんは?」

「家の中で待ってるって言ってたよ。外で待っていたらすぐ会えるのにね」

「多分、ふたりきりがいいんだよー」

 ボサボサに乱れた髪を整えながら、つららは笑顔で答える。

 それから、愛海の後ろで、居心地の悪そうにしている、新田新太に駆け寄った。

「あっちゃんもありがと」

「あっちゃんはやめろ。まあ、どうせどこかでフラフラしてたんだろうし。……まあ、何もなくて、よかった」

 不器用なその言葉に、つららはなんだか嬉しくなってくる。

「なーに、ニヤケ面してんだよ」

「つい」

「くそっ」

 新太はそう悪態を吐くと、顔を歪めて、そっぽを向く。

「あれ、あっちゃんも、ニヤニヤしてる」

「るっせー」

「うふふ、本当に、ありがと、ね」

「ああ。……そうだ、化野」

「なに?」

 つららの背後で黙って成り行きを見ていた【九十九】が、新太に顔を向ける。

「瀬田のこと、ありがとな」

「あたしからもお礼言っとくよ。化野が見つけてくれたんでしょ?」

「……そうだけど。別に、お礼を言われるようなこと、してないけど」

 困ったように頬を掻く【九十九】。愛海がなんか驚いた顔をしたものの、特に【九十九】の言葉を修正することはなかった。

 もう夜も遅いということで、愛海と新太とは、そこで別れることにした。おのおの自分の家に帰っていく。

 残ったつららは、【九十九】に向き直ると、ニヤ、と笑みを浮かべた。

 彼の名前を呼ぶ。

「【モモ】くん」

「……なにかな、つららさん」

「ううん。なんでもない。呼んでみただけ」

 なんとなく、彼の本名――化野九十九の双子の弟である少年、モモの名前をもう一度呼ぶ。

 モモは眉を潜めたものの、咎めることはなかった。代わりに、ここにいない兄の名前を口にした。

「九十九は、いま父さんと会っているんだよね」

「そうだねー。仲直りできるといいね!」

 天真爛漫なつららの笑みに、モモが軽く頭を縦に傾ける。

「うん。そうだね、……オレももう少し……」

 最後の方はボソボソと言っていてよく聞こえなかったが、そんな彼の表情が和らいでいることに気づき、つららはますます笑顔を浮かべる。

「じゃあね、つららさん。ちゃんと送り届けたから」

「うんっ。ありがと、モモくん」

「別に、いいよ。オレの所為だし」

「でもモモくんのおかげで、九十九くんがお父さんと会えることになったんだし、よかったよー。あと、またあっちゃんの犬神にも会えたし」

「……そうだね。じゃあ」

 改めて片手を上げるモモに、つららも同じように右手を上げる。

「またね! バイバイ!」

 手を振り合い、遠ざかっていく背中を見送ってから、つららは玄関の扉を開けた。

 すると、入り口で待機していたのか、小さな影がつららに体当たりするように抱き着いてきた。小学校低学年ぐらいのおかっぱ頭の少年を、つららは抱き返す。

「ただいま、トウジ兄ちゃん」

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