三、狐の章⑧結
洞窟を出ると、待機していた蝦名カンナと狩野辰郎が、そろって顔を上げた。カンナはいつものすまし顔だが、辰郎は怯えてしきりに周囲をキョロキョロ見渡している。ここは深海の中でも、特に奥まった、他の妖怪すらほとんど訪れない場所である。怯えるのも無理はないだろう。
こんなところで、狐と、血を分け合った双子の弟が長い間暮らしていたなんて信じられないほどに、ここはあまりにも寂れているように感じた。
「化野」
不機嫌な顔のカンナににらまれる。
「帰ったら、本当に、所長に言いつけるから」
そう吐き捨てると、彼女は背を向けてスタスタと真っ先に歩き出した。その後ろを、辰郎がついていく。
(まあ、勝手なことをしたのはオレだからね)
九十九はふたりの後ろをついていこうとして、ふと、顔だけを背後に向けた。
「何してんだよ、行くぞぉー!」
「了解!」
辰郎に呼ばれたため、九十九は前を向くと歩き出す。
不思議と、後ろ髪を引かれるような思いがないことに、内心で驚いていた。
(話せて、よかったのかな)
「表側の世界」までの帰り道、九十九は、父との会話をなんとなしに思い出していた。いい思い出ではない。けれど、忘れられないモノのような気がした。
(あ。瀬田さんの記憶を消すの忘れていた……。まあ、今度でいいか)
前もそうだった。中学生の頃、九十九はあるひとりの女子生徒を「裏側の世界」に導いてしまった。その時の処理として、所長から記憶を消すように迫られたのだけれど、その女子生徒に避けられていたこともあり、うまく記憶を消すことができずにうやむやになったままになっている。
本当に記憶がなくなったのか、それを見極めるすべはない。たとえ所長が何らかの手段を持っていたとしても、あれから数年が経っても何も言われていないということは、気づかれていないか見逃されているのだろう。だから今回も、瀬田つららの記憶は消さないでおこう。彼女の場合座敷童が傍にいることもあり、そのままにしておいたほうが都合が良さそうだ。
◆
「表側の世界」に続く出入口の前つららを見送ったあと、化野九十九は双子の弟に教えられた道を、奥へと歩いていた。弟にはつららを家まで無事に送り届けるように頼んだため、いま九十九はひとりっきり。だが歩いている途中に、思いがけない二人組と遭遇してしまった。
その内のひとりは九十九の顔を見た瞬間にいやそうな顔をして、もうひとりの方はなにかから解放されたかのように暗かった顔に安堵の笑みを浮かべた。
「九十九! 探したぞぉー!」
「辰郎と、カンナさん。どうしてここに?」
ツインテールを揺らして忍者装束を着込んだ少女が、九十九の言葉に露骨に顔を歪める。
「はあ? アンタが所長に言ったんでしょ? 人間が妖怪に攫われたから、裏側に行くって」
そういえばそうだった。いろいろあったから忘れていたが、所長にはあとからカンナと辰郎を寄こすと言われていた。
カンナが周囲を見渡す。
「で、攫われた人間はどうしたのよ」
「ついさっき、表側に返しましたよ」
「はあ? ならアンタももう裏側にいる必要なくない? ったくアタシらだって急いできたってのに、とんだ無駄足ね。はやく帰るわよ」
「いま帰るわけにはいかないんです」
カンナの顔が歪む。怒りというよりも、不愉快極まりないといった形相だ。恐らくそれは、九十九のことを――半妖である九十九を、嫌っているからだろう。
「どういう意味よ」
「これから、会いに行かないといけない【ヤツ】がいるんです」
「ヤツ? 裏側の世界に?」
「うん」
九十九は口角を上げる。
ギョッとした顔で、辰郎が一歩後ろに下がった。
「それって……居場所が、わかったのか?」
「さっき、教えてもらったから」
「詳しく話しなさい」
「ごめん。急いでいるんだ。早くしないと、もしかしたら逃げてしまうかもしれませんので」
なんといっても、これから九十九が会おうと思っている人物は、鵺が馬鹿にしてやまない【臆病者】なのだから。
鼻を鳴らすカンナ。
「また勝手なことをするのね」
「ええ。チャンスは逃したくないので」
「……馬鹿らしい」
そう囁き、カンナは盛大なため息を吐いた。
「まあ、いいわ。アンタがこれ以上、馬鹿しないようにアタシらもついていかせてもらうから」
「ついてくるのは良いけど」
「え? 僕も? もう帰りたいんすけど?」
「それなら辰郎はひとりで裏側の世界から抜け出せばいいじゃない。どうせ迷子になって妖怪に喰われるのがオチだろうけど」
「脅すのやめてくださいよぉッ!?」
一瞬で、辰郎の顔面が真っ青になった。
カンナはそんな辰郎には構うことなく、九十九の横をさっさと歩き出す。
「アンタを連れて帰らないと、怒られるのはアタシなんだから、さっさと終わらせるわよ」
九十九は頷くと、双子の弟に教えられた場所――深海に向かって歩き出す。
そして九十九は、洞窟の中に、ひとりで入っていった。さすがにこの中にふたりを連れて行くのは躊躇われたからだ。
洞窟の中は、湿気が溜まってジメジメしているように感じる。忍ばせているはずの足音が、狭い洞窟の中に反響している。
数分ほど歩いただろうか。もしかしたら、一分もかかっていなかったかもしれない。緊張感から、どれだけ時間をかけたのかはわからない。
しばらくすると、開けた場所に出たのがわかった。
臭い、獣の息を近距離に感じる。
その妖怪は、こちらを向いていた。ここは【彼】の縄張りだ。臆病者ゆえに、侵入者に敏感になっているのだろう。
その男は、ガンつけるように、九十九を見ていた。大きな丸い瞳が、九十九の眼前で瞬く。
「おまえは」
九十九は三日月形に口を開き、彼に声をかけた。
「はじめまして、父さん」
狐の瞳孔が、これでもかと見開かれた。
(想像以上に、大きい)
九十九は、目の前にいる狐の全身を眺める。
その体長は鵺と同じぐらいか、それよりも大きいだろうか。狐色の体毛に覆われている体からは、九本の尾が伸びている。これが、九つの尾を持つ狐――九尾と謂われるゆえんか。
九尾は、九十九から距離を空ける。害はないと思ったのか、それとも鵺と同じでこちらを侮っているのか定かではないが、九十九は鞘から太刀を抜くと、その九尾の顔面すれすれに刃先を突き付けた。
「九十九、か」
「うん。会いたかったよ、父さん」
「……母さんは、元気か?」
震える声で、九尾は母のことを気に掛ける。そんな九尾に、九十九は無慈悲に告げた。
「母さんは、オレが六歳の時に死んだよ」
「……ああ。あいつは身体が弱かったからな。それなのに、無理して俺の子を産んでくれて……まだ、感謝は伝えきれていなかったが」
目の前の口から紡がれる言葉に、吐き気がする。この男は、母を騙して子を産ませて、自分だけ逃げ帰ったんじゃないのか? だから母は、あんなにも苦しんで死んだ。
恨み辛みが口から次いで出る前に、九尾が口を開いた。
「俺が、憎いだろうな。あいつとおまえを置き去りにして、俺は裏側の世界に逃げ帰ったのだからな」
ポツリと、九尾は吐き出すように、次々と言葉を漏らす。
「けれど仕方なかった。一目ぼれだったんだ。裏にいるのが暇だからと表に出て、町を散策しているときに、たまたまおまえの母に出逢ってしまってな。ほんの少し一緒にいるだけのつもりだったのだが、気づいたら子供ができて、おまえらが産まれて……俺は、どこで間違えたんだろうな」
「すべてだろ」
九尾が母に逢わなければ、そもそも表側の世界に出てこなければ、母は縋るように愛を想いながら苦しんで死なずに済んだ。九十九も、双子のあいつも、半妖として苦しい思いをしなくって済んだ。すべてこの男が悪い。
「九十九」
九尾の眼には、まったくと言ってもいいほど邪気が込められていなかった。細く横長な瞳が、ジッと九十九を見つめてくる。
「大きくなったんだな」
「……うるさい」
「モモには逢ったか?」
「……ああ」
「あいつには一番、悪いことをしたと思っている。過去の歴史が物語っているのになぁ、人間と妖怪の間にはまともな赤子が産まれないなんて。俺も知っていたのだが、できてしまったら、殺せんだろ? だから、あんな姿で産んでしまって、本当に悪いと思っている」
もっとまともな姿で産んでやりたかったと、九尾は嘆いた。その語りかける言葉は、落ち着いた音色のように九十九の鼓膜を揺らしてくる。
妖怪のくせに、情を持っているなんて。
もうとっくに笑みを消していた九十九は、下から九尾をにらみつけた。
それでもなお、九尾は九十九を見る眼差しを変えようとはしない。その瞳には、既視感がある。
(ああ)
思い出して、九十九は唇を噛む。
(なんで、母さんと同じ瞳で、オレを)
ふざけるな、と、九十九は呟いた。
「何があったのかは知らない。けれど、何かがあったから、母さんを捨てたんだろ? まずは、天国の母さんに謝れ」
「悪かった」
九尾は天井を仰ぎながらそう言った。
続いて、九尾は九十九を再び変わらぬ眼差しで見る。
「九十九にも、本当に、悪いと思っているぞ」
「……いまさら」
続けようとした言葉が詰まる。
上手くまとまらない言葉のまま、九十九は九尾を睨みつけた。
「本当に……本当におまえは、母さんを愛していたのか?」
「もちろんだとも。いまでも俺は、あいつのことを想っている。あいつが一番愛しているのは、俺ではないかもしれんがな」
九尾が苦笑する。
「あいつは、おまえらが産まれた瞬間、コロッとおまえらに落ちてしまったからな。モモの姿を見ても怯えることなく、我が子だと言っていた。あの時は、本当に俺も幸せだった」
惚気るような九尾の語り。もうとっくに九十九は刃を下げていた。ため息を吐くと、鞘に戻す。
嫌悪感も、浮かばない。あんなにも父に対して抱いていた不信感も、怒りでさえ、鳴りを潜めている。
九尾はなおも、妻とののろけ話を口にする。
「あいつは、俺の正体を知っても、なんとなくそう思ってた、とかのたまったからな。なんというか、人間の男が簡単に美しい女に騙される心理を、その時俺は知ったぞ。あの笑みからは逃れられなかった。知っているか? あいつは最初、裏側の世界にきてでも、ふたりの子供を育てると言ってたんだぞ。その顔は爛々と輝いていて、まるでヒマワリのように明るく可憐な女だったなぁ」
しみじみと、懐かしむように九尾が饒舌に語る。
九十九はなんだか馬鹿らしくなっていた。これ以上九尾に語らせてなんになるものかと思ったものの、そのまま口を挟むことなく、母との思い出に馳せる九尾の語りを、静かに聞いていた。
もうなんとなくわかっていた。どうして九尾が母を捨てたのか。いや、捨てたのではないのだろう。傍を離れた。きっと、双子の弟――モモを思ってのことだったのだろう。あの姿だと、「表側の世界」で生きていくのは困難極まりない。だから母の許を離れて、九尾はモモを連れて「裏側の世界」の奥深くに隠れ住んだ。
蓋を開けてみれば、残っていたのは、あまりにもシンプルなものだった。
――けれど、過去のことはやはり変わらない。この男を、本当の意味で許せる日が来るかどうかもわからない。馬鹿らしくなっている感情に、またいつ火がつくかもわからない。
でも。――だけど。
九十九は、再び大きなため息を吐いた。
目の前の九尾は、なおも亡き母への想いを吐き出している。
アヤカシな彼の奇奇怪怪青春奇譚 槙村まき @maki-shimotuki
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