三、狐の章③
「こっちだよ、瀬田さん」
九十九に連れられるまま訪れたのは、薄汚れた小さな公園だった。平日の夕方だというのに、遊んでいる子供の姿が全くない。遊具が少ないからだろうか。それとも、単純に綺麗に手入れをされていないからかもしれない。
九十九は公園の遊具には見向きもせずに、小さな建物に向かって行く。近づいて、それがトイレだということにつららは気づいた。
これから裏側の世界に行くからか、なんだかドキドキしてくる。
九十九は迷うことなくトイレの中に入っていった。つららも続く。
「じゃあ、行こうか」
鏡はすでに青白い光を放って輝いている。
「今日は公園のトイレから行くの?」
何気ないつららの言葉に、九十九がきょとんとした顔になる。
「前は、私の家の鏡からだったから」
「あー。そういえばそうだったね。今日は趣を変えてみようかと思ってね。オレは、公園のトイレから裏側の世界に行くのが好きなんだよ」
笑顔の九十九に、つららは特に疑問は持たなかった。
「そうなんだ」
変わってるなーと思う。
「そうそう。道を繋ぐところは慣れているところのほうが楽だからねー。ここは人気がなくって、なにかと使いやすいし」
ニコニコと九十九が微笑んでいる。ここまで九十九が楽しそうな笑顔を浮かべているのを見るのは、初めてのことだった。なんだか新鮮で、九十九が笑顔だとつららまで楽しくなってくる。
「じゃあ、早く行こうか」
「あ、でもやっぱり私の家の鏡からのほうがよくない? あっちのほうが、あっちゃんの家近いよ?」
「あっちゃん? って、あー、もしかして、犬神の」
「そうだけど、九十九くん、あっちゃんの名前忘れちゃったの?」
「違う違う。とっさに名前がでてこなかっただけだよ。ま、確かにつららさんの家から行った方が近いかもしれないけど、もうここまできたんだし、裏まではすぐだからさ。君も、早く行きたいだろ?」
「うん。そうだけど……」
「けど?」
「なんだか九十九くん、いつもよりテンション高いねー」
「……そう? 多分、急に暇になったからだと思うけど。昨日までけっこう忙しかったし。おかしいかな?」
頬を掻きながら、困った顔を向けてくる九十九に、つららは首を振って答えた。
「そんなことないよー。九十九くんって、いつも眠そうな顔しているし、ここまで明るい笑顔を見るのははじめてで私も嬉しいなぁ」
「そう。ならよかった」
安心した顔で、ホッと息をつく九十九。
つららは、いまも青白く輝き続けている鏡に近づいた。
九十九が手を差し出してきたので、つららはその手を握る。
「準備は良い?」
「もっちろん!」
頷いたつららを見て、九十九が右手を鏡についた。
二人の体が青白い光に包まれる。そして瞬きをする間もなく、つららは約二週間ぶりに、光のない「裏側の世界」にやってきた。
◇◆◇
化野九十九は、父の正体を知らずに育った。よく母が、いなくなった父のことを話してくれたが、父の顔を知らない九十九にとって、それはまったく知らない他人の話にしか思えなかった。
九十九が小学校に上がってすぐに、母が病気で倒れた。もともと体が弱かった母は、それを九十九に隠して、母の手ひとつで九十九を育てるために、たくさん無理をしたのだという。
母の両親はとっくの昔に亡くなっていて、頼れる親戚もおらず、九十九の看病も虚しく、間もなくして母は亡くなった。亡くなる直前まで、母は九十九に対してやさしい言葉をかけてくれた。父の話も、してくれた。
けれど九十九は、その時から自分の父だという人に対して、不信感ばかり募らせていた。
どうして母がこんなにも苦しんでいるのに、父という人は会いに来てくれないのだろうか。母は、父は遠いところにいるといっていた。もう会えないとも。理由は教えてくれなかった。
だから余計に、不信感しか湧かない。
あんなにも息が荒くて苦しそうだった、決して恨み言を口にしなかった母。九十九にはやさしく話しかけ、父の話を、それはもう幸せそうな顔で語っていた。
それだというのに、母が亡くなっても、その【父】という人は、会いに来ることはなかった。連絡もなかった。写真すらなく、父の顔さえわからない。
母が亡くなった後、九十九はひとりで生きていかなければいけないのだと思っていた。母の入院中にお見舞いに来るのは九十九だけで、頼れる存在なんかないのだから、ひとりで生きていかなければ、そう九十九は思っていた。
だけど、母が亡くなったその日の夜、母を訊ねてくる人物がいた。それはまったく予想していなかった人物で、だけど父ではなかった。
「なんだい。子供がいるなんて聞いてなかったんだけどねぇ。ま、みんな、おまえのことを、畏れていたからねぇ。知りたいとは思わなかったんだろうさ」
和装をまとっているその女は、ニヤニヤと口元に笑みを浮かべ、ベッドに寝かされて顔に白い布をかけられている母に話しかけていた。九十九をちらりと一瞥しただけで、それ以降見ようとはしない。まるで存在を無視されているかのようだった。
まだ二十代後半に見えるその女は、母に対してグチグチと囁くようになにかを言っていた。傍に九十九がいるにも関わらずに。
後から知ることになるのだが、その女――【妖怪退治屋紅坂支部所】の所長である妙齢の女は、母の叔母らしい。年齢はとっくに五十を超えているのに、怖ろしいほどの美貌を保っているため、他の親戚からは文字通り怖れ、敬えられている。
その日、九十九は知ることになる。自分の父の正体を。どうして父が会いにこないのか。どうして母の親戚が母を畏れて距離を置いていたのか。
それもすべて、九十九の父――妖怪だということを隠して母に近づき、母と交わって子供を産ませた後、「裏側の世界」に逃げ帰った――【狐】の所為だった。
「え? 瀬田さんが、まだ帰っていない?」
「うん。いつもより遅いから心配しているんだ。誰かと遊ぶときは、いつもボクに一言あるんだけど」
オロオロと、座敷童が動揺した様子で、玄関の内側をグルグル歩き回っている。外に出て探したくても、座敷童は住み着いた家からでることのできない妖怪だ。もどかしくて、仕方がないのだろう。
もう外は夕闇から、夜に変わろうとしていた。時刻は十八時過ぎ。学校から真っ直ぐ帰ったのなら、もう家にいてもおかしくはない時間帯。
九十九はスマホを取り出すと、つららに短いメッセージを送った。
すぐ既読にはならなかったので、続いて九十九はつららの親友の愛海にもメッセージを送る。新太にもメッセージを送りたかったが、彼の連絡先を九十九は知らなかった。
愛海のメッセージにも既読がつかない。そういえば彼女はスーパーでバイトをしていると言っていたので、スーパーに行った方が早いかもしれない。
そう思い立ち、座敷童に背を向けると、九十九は町中のスーパーに向かって歩き出した。
「つらら? 知らないよ。あたしは今日学校終わったら速攻バイトだったからさ」
「そう」
「なんでつららを探しているの?」
「……ちょっと約束があってね」
嘘だが、そういった方が信憑性があるように思った。
「約束、ねぇ。まあ、そういうことなら、おかしな話だね。つららが約束を破るなんて」
「だよね。あ、オレ急いでいるから。ごめんね、仕事中に」
「いんや。あたしはバイトに戻るから、つららが見つかったら連絡してね」
「了解」
九十九は頷くと、今度は学校に向かった。この時間だと、おそらくまだサッカー部が練習しているかもしれない。
紅坂高校の校門に近づくと、ちょうど運動部らしき生徒たちが出てくるところに遭遇した。
数人ごとに、生徒たちは各々の自宅へ向かって行く。そんな中、ひとりで校門を超えてくる生徒を見つけた。新田新太だ。
「化野?」
「ごめん。えっと、新田くん?」
よくよく考えると、新田新太と面と向かってまともに話すのは初めてのことだった。なんて呼ぶのが自然かわからなかったので、「あっちゃん」と呼びそうになったのを寸前で押しとどめて、九十九は彼のことを「くん」付けで呼んでみた。
不愉快そうに、新太が眉を潜める。
「くんとか、気持ちわりぃ」
「ごめん。じゃあ、あっちゃんの方がいい?」
「ふざけてるのか? ニヤニヤしやがって」
九十九は思わず自分の顔に手をやった。癖になっている笑みのままだったらしい。至極真面目に、九十九は彼の呼び名を考えていたのだけど。
しばらく迷い、九十九は呼び名なんてどうでもいいな、と思った。だから彼のことは、これからは苗字で呼び捨てに呼ぼう。
「新田。瀬田さんが、いまどこにいるか知ってる?」
「つ、瀬田が? 俺はいままで部活だったからな。しらない」
「そうだよね」
「……瀬田が、どうかしたのか?」
「いや」
九十九は迷い、愛海にしたのと同じように嘘をつくことにした。
「今日、瀬田さんと遊ぶ約束をしていたのだけど、待ち合わせ時間を一時間過ぎてもこなかったんだよね。家に行ったら、まだ帰っていないみたいで」
新太の目が真ん丸に開かれる。
「行方不明ってことか?」
「まだそうだとは決まってないけど」
新太は鞄からスマホを取り出すと文字を打ちはじめた。
「既読がつかねぇな」
メッセージを打っていたようだ。
「オレも数分前に送ってみたけど、まだ既読がついていない」
「なにをしてんだ、あいつ。転んで事故にでもあったか?」
「笑えないね」
「冗談じゃねぇからな」
「そうだね。じゃあ、オレはもう少し探してみるよ。もしかしたらひょっこりと家に帰ってるかもしれないし」
「そう、だな。俺もそこらへん探してみる。見つけたら連絡してやるから、連絡先教えてくれないか?」
「いいけど」
確かにそっちの方が効率いい。新太の連絡先を知っておいて損はないだろう。
連絡先の交換を終えると、九十九は町中を探すことにした。
「おや、あんた。つららちゃんとこの彼氏さんだろう?」
声をかけられたのは、つららの家にもう一度行こうと通りを歩いていた時だった。
顔を向けると、どこかでみたことのあるおばあちゃんがいた。少しして思い出す。確か、つららの家の近くに住んでいるおばあちゃんだ。名前は、田部だったか。
「彼氏ではないですよ」
九十九の言葉に、田部のおばあちゃんは口を空けて快活に笑う。
「あははっ。つららちゃんもそう言っていたけどねぇ。でも、あんたら一時間前ぐらいも、仲睦まじく腕組んでその通りを歩いていただろ?」
「え?」
九十九は驚いて、笑みを消した。
(オレと瀬田さんが、そこを歩いていた?)
覚えはない。つららとは話し合いの後、校門で別れてから会っていない。おばあちゃんの見間違いではないだろうか。
そう思ったが、どうやら違うらしい。田部のおばあちゃんは、笑顔でふんぞり返ってこう言う。
「わたしはねぇ、一度会った人間の顔は忘れない特技を持っているんだ。あれは、確かにあんただったよ。それは間違いない」
「そう、ですか」
いまいち腑に落ちないが、九十九はとりあえず頷くと、おばあちゃんにお礼を言ってから背を向けた。最後に「つららちゃんを幸せにするんだよ」とかそんなことを言われてしまったが、九十九は頷けなかった。
(収穫は、あったのか?)
正直まだわからない。けれど、もうひとりの自分が、瀬田つららの連れ去ったのだということはわかった。
問題はそのもうひとりの自分の正体は、なんなのかということだ。
(オレと瀬田さんが仲いいと知っている人物かな)
いや――。
九十九は目を細める。
(ただ見た目だけのオレと、瀬田さんが仲良さそうに歩いているとは思えない。となると、オレの性格、口調、それから瀬田さんとの間にある秘密や約束までも知っている可能性がある)
そんな人物は、ひとりしか思い浮かばない。
(ま、オレだけど。でも、オレのことを観察している人物がいたら、別だろうね)
人間ではないのかもしれない、と九十九は直感で思った。ただの人間が、九十九と全く同じ顔に変装して、全く同じ背格好になり、全く同じように喋られるとは思えない。あの純粋なつららを騙すことは簡単かもしれないが、それでも彼女はああ見えて、他人の目をきちんと見ている。なにか不自然な点があったら見破るのも容易いだろう。
九十九はますます目を細めた。
(人間ではないのなら、それはやっぱり――)
九十九は踵を返すと、つららの家とは別方向――【妖怪退治屋紅坂支部所】に向かった。事務所のある雑居ビルの三階。そこは九十九の家でもあった。
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