三、狐の章④


 見知らぬ公園。そこから「裏側の世界」に入ったつららは、手を繋いで導いてくれる九十九を頼りに歩いていた。

 九十九の足取りは軽い。いまにも鼻歌を奏でながらスキップしだしてもおかしくないテンションに、不思議に思いながらもつららはついて行く。いつもよりも楽しそうな顔をしているので、それはそれでいいのかもしれない。

 公園からでると、九十九は迷うことなく歩き出す。

 道すがら、彼はこんなことを訪ねてきた。

「ねえ、つららさん。ここ――裏側の世界が、どうして表側の世界に似ているのか、知ってる?」

「ううん。しらない」

 首を振ると、嬉々としながら、九十九が語り出した。

「この裏って、本当になんにもないでしょ? 暗くって、光すら差し込まない。薄闇ばかりが続いているし、そんじょそこらには淀みが溜まっている。不気味だよね」

「う、うん」

 九十九の言う通り、見渡す限り薄闇だ。光すらないこんなところに、もし自分ひとりが取り残されたらと考えると、とても心細くなってしまう。

 けれどいまは、隣に九十九がいてくれるから大丈夫。彼が一緒にいてくれるから恐怖心は和らいでいた。

「昔。ほんとのほんとに昔の話なんだけどね。人間世界から追われた妖怪は、暗闇の世界に住むことにしたんだ。その暗闇はなんっにもなくてね、闇ばかりでこの世界はつまらない。いろいろな光のあふれる世界が羨ましい。そう思ったとある妖怪が、表側の世界を模して、裏側の世界に街を創ることにした」

 光が恋しくって仕方がない。そんな妖怪もいるのだと、九十九は目を細めながら語った。

「けどねー、いくら表側の世界を模したところで、裏側の世界に光が生まれることはなかった。街灯を作っても光が灯らず、途方に暮れたその妖怪は、裏側の世界の奥の奥の奥に隠れて閉じこもってしまった。だからオレも、その姿を見たことはないんだけどね。ほとんどの妖怪が、その姿を見たことがないんじゃないかな。多分だけど」

「……どうして、裏側の世界には、光が差し込まないの?」

 つららたち人間の住む表側の世界には、朝も夜もある。太陽の光があれば、裏側の世界のように暗い夜もある。それなのに、おかしいね、とつららは思った。

 ふと、九十九の顔から表情が抜ける。すぐに目は逸らされてしまったのでその真意は分からないけれど、続いた彼の声はすこしかすれていた。

「表にある夜は、裏の闇とは違うよ。月の光があるからね」

「え?」

「光と闇は、けっして共存できないんだよ。人間と妖怪が、そうだったようにね」

「……どうして、難しいの?」

「どうしてだろうね。多分、どうしようもないから、なんじゃないかな」

 一緒に暮らしていけないから、それぞれ別の世界で暮らすことにした。ただそれだけのことなのだと、九十九は口にした。

「どうして?」

「ねえ、つららさん。君は、これまでの人生で、出会ったすべての人と仲良くなることができた?」

「え?」

 突然の問いに、困惑するつらら。

「学校でも、日常でもいい。仲良くなりたいと近づいた人、すべての人と仲良くなれた? たまにはいたんじゃないの? 自分を拒絶してくる人。いくらこちらが仲良くなりたいと思っても、相手もそう思っていなきゃ意味がない。――それと同じでね、いくら君が妖怪と仲良くなりたいと願ったって、妖怪が君のことを嫌っていたら、仲良くなれやしない。君はまだ、妖怪のことなんて知っちゃいないんだよ」

「でも、トウジ兄ちゃんや、犬神だってッ」

「トウジ兄ちゃん? ああ、あの座敷童のことだね。座敷童はもともと子供が大好きな妖怪だからね、どんな悪ガキだろうが、仲良くなろうと思えばできるよ。犬神は、あれはまあ、別だろうね。いままで犬神と仲良くなった人間なんて聞いたこともないし……あれと他の妖怪だって喋ろうとしたことないのに……。まあとにかく、君はただ運がよかっただけなんだよ。運が……」

 こちらを向いた九十九が、つららの目を見た瞬間、言葉を止めた。

 つららは、そんな九十九に問いかける。

「ねえ、九十九くんって、本当に九十九くんなの?」

 彼の瞳を見つめて、問いかける。

「へ?」

 つららは、ジッと彼の眼を見た。彼はいまとても冷たい目をしている。それはいままでも、トウジや犬神、それから妖怪を語るときなどもそうだった。

 けれど、いまの彼は違う。

 いまの九十九は、妖怪のことを語るとき、なんだか誇らしげだった。最初は気のせいかと思ったけれど、徐々に違和感が沸き起こる。九十九は妖怪のことを憎んでいると思っていたから。

 そしてまた別の違和感を覚えていた。目を細めてこちらを見つめる九十九の、その瞳。

 その瞳に、とても鋭利な感情がともっていることに。

 これではまるで九十九が、つららのことを……いや、人間のことが憎くて仕方がないように思えた。

 ふいっと、【九十九】が視線を逸らした。

 つららの手を離すと、彼はこちらに背を向けて、まるですべてを投げ出すかのように意気揚々と声を張り上げた。

「あーあ。ここまでか。ちゃんと、騙せていると思ったんだけどね。それじゃあ、まあそういうことで。さようなら、つららさん。少しだけど話せて楽しかったよ。君は気をつけて表側の世界に帰ってね。だって、ほら、妖怪には、人間が憎くて食べちゃいたいほど大好きなのもいるからね。せいぜい喰われないように、気をつけて」

 首だけで振り向いた【彼】は、唇を三日月形に吊り上げると、つららの傍から離れて行った。



    ◇◆◇



 部屋に戻ると、九十九は服を着替えた。制服から、死神のような真っ白な白装束に。

 それから九十九は壁に掛けてあるお面を手に取る。お祭りの屋台とかで売っていそうな狐面。それで顔を隠すと、刃先が湾曲している太刀を手に取り、部屋から出た。

 階段を降り、事務所の前を通り過ぎようとした時だった。タイミングの悪いことに、中から人が出てきた。

「足音がしたと思って出てみれば、おまえはいったい何をしているんだい?」

「……所長」

 冷ややかな眼をした妙齢の女が、口角を吊り上げる。その眼は、明らかに笑っていなかった。

 冷たい眼を見返しながら、九十九はうっすらと笑う。

「裏側の世界に行ってきます」

「ほう。……なぜ?」

「……妖怪を狩りに」

「ふむ。おまえの今日の予定に、妖怪を狩ることは入っていたかな?」

「どうだったでしょう?」

 すっとぼける九十九。

 所長が口元の笑みを消した。

「九十九。おまえ、なんの妖怪を狩るつもりだい?」

「さあ? けど、多分……【狐】だと思います」

 目を細め、九十九は言う。人間に化けてヒトを唆す妖怪といえば、狐しか思いつかなかった。いや、そうであって欲しいと九十九は願っている。

「狐、ねぇ。それは、なんの狐なんだろうね」

「さあ?」

 はぁ、と所長が重いため息をついた。

「理由を詳しく説明する時間はあるかい?」

「多分、ないと思います。結構前に、彼女は連れ去られてしまいましたから」

「彼女が連れ去られた?」

「はい。オレが記憶を消そうと思っていた、人間ですよ」

「それは大事件じゃないか。もっと早くに伝えてもらいたかった情報だ」

「そうですね」

「で、おまえは、その少女を救うために、裏側の世界に行くと?」

 頷く九十九。

「それはわかった。私の地域で人間が妖怪に連れ去られたのなら、私のところから討伐師を裏に派遣してもおかしくはない。九十九が自ら進んで行ってくれるのなら、それに越したこともない。……けれどね、九十九」

「……」

「相手の正体もわからないのに突っ走るところは、感心しないよ。たとえ相手が、【狐】かもしれないとしても、ちゃんと私に報告してもらわないと」

「急いでいたから、忘れていたんです」

 悪びれなくいう九十九。

 ははっと、所長は声だけで笑った。

「そう言うと思ったよ。まあ、急務のある事件であることはわかった。おまえを、裏にやることは許可しよう。だが、ひとりではない。あとから、カンナと辰郎もよこす。先に行って、慎重に偵察だけに徹するんだ。わかったかい?」

「はい。わかりました」

 淡々と言う九十九を見て、所長は困ったようにニヤリと笑う。その眼は、何もかもを見透かしているようだった。



    ◇◆◇



 遠ざかっていく背中を、つららは追いかけた。いまここで彼を見失ってはいけない。そう思ったら、いても経ってもいられなかった。

 ――けれど。

 先を走る彼は速く、裏側の世界のことも熟知しているのか、閑静な住宅の間を走っている間、気がついたら九十九と名乗っていた人物の姿を見失っていた。結局【彼】の正体はわからずじまい。どうして九十九の姿をしていたのか。どうしてつららを裏側の世界まで連れてきたのか。なんにもわからない。

 走るのに疲れ、立ち止まったつららは、肩で息をする。

 息を整えている間、ふと、つららは周囲を見渡した。

 暗い暗い夜道。道の先を見ると、建物の間にある闇は、奥に行くにつれて濃くなっているように見える。ところどころにある街灯は、電球はあるものの光を放っていなかった。空には月も見えない。

 ぶるりと、体が震える。

 暗くて、生き物の気配のしない通り。

 そこにいま、つららはひとりで取り残されている。

 唐突に、どうしようもない孤独を感じた。先ほどまで九十九がいたから気づかなかった暗い闇に。誰もいない建物の間に、つららはひとり取り残されている。

 怖い、とつららは思った。

 怖くないわけがなかった。

「と、とりあえず、九十九くんを探さないと」

 身を奮い立たせるために、つららは声に出す。それから気づいた。

「あ、九十九くんじゃなかった」

 ならいったい彼は誰だというのだろうか?

 疑問に思ったことを考える前に、どこかから物音が聞こえてきた。すぐ近く。道の先だろうか?

 耳を澄ませる前に、道の先、右側の路地の闇が濃くなった。

(誰?)

 問いかける前に、その影は正体を現す。

「ッ」

 そこから現れたのは、赤ら顔の猿……いや、違う。続いて現れた手足は、虎のような模様をしていて伸びる爪は長い。そして、最後に現れた尻尾は蛇のようなまだら模様だった。

 動物、だろうか? それにしては大きく、つららの四倍以上の大きさがある。大きな口は、つららを丸呑みしてしまいそうなほど大きく思えた。表側の世界でもみたことのない生き物だ。もし動物ではないのなら、あの生き物はやはり――。

 こちらを向いた猿顔が、目を細める。ざらついたような声が響いた。

「なぜ、人間が、こんなところにおるのだァ?」

 低く響くその声に、つららは身震いした。

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