夏の大三角形(1)

 夏だ。

 よく夏は男の季節、とかなんとか言って、やれ海へ行くだのやれ山登りするだのと、人によっては全力で楽しむ季節だ。女の子でも水着を着てビーチでエンジョイする(死語?)姿をテレビで見かけたりする。


 しかし私にとって夏は、あまり気分のいいものではなかった。私が冬生まれだからというのももしかするとあるかもしれないが、とにかく暑いのが嫌い。せっかくクーラーがついた部屋でゴロゴロできるのに、なぜそうしないでわざわざ暑い屋外へ飛び出すのか、と私は思う。

 もちろん私が昔からそうなのかと言われると、正確には違う。私にだって夏休みは外で遊ぶ小学校低学年という時代はあった。だが大きくなるにつれ新陳代謝がよくなってきたのか、やたらと暑いことを気にするようになってしまった。特に小学校高学年になって(曲がりなりにも!)胸のふくらみを意識するようになると、「蒸れる」ことをびっくりするくらい不快に感じるようになった。


 ちなみに今も不快だ。今ちょうど体育の授業が終わって着替えている最中なのだが、体操服を脱いだ拍子にぶわっ、と自分の身体から湯気が出るのではと訳の分からない心配をしている。そんなことが起きるわけがないのは知っている。知っているが、どうにも形容しがたい心配があるというかなんというか。

 そんな私の腕を、ひたっ、と冷たい手で触る輩がいた。くせ者、と私は身構えたが、触ってきたのは蕗塔さんだった。


「二の腕が細い……何かトレーニングでもしてるの?」

「してないよ。もともとそんなに太りやすい体質じゃないのかも」


 それが体質なのかどうか分からないが、もともと少食ということもあり、私はこれまでの十三年あまり、標準のやせ型寄りの体型でずっと過ごしてきた。


「ま、私もそうだけどねー」


 蕗塔さんが呑気な声で返した。じゃあさっきの質問はなぜした。

 ちなみに蕗塔さんは下着姿だった。私は体操服を脱いだ直後に二の腕を触られたから仕方ないとしても、蕗塔さんはどういうわけか裸一歩手前みたいなその姿を隠そうともしなかった。ほら。周りの子たちも好奇の目で蕗塔さんを見てるじゃないか。ちょっと待って、私もついでに哀れな目で見るのをやめて。


「もうすぐ期末テストかぁー」


 かと思ったら急に話題を変えて、蕗塔さんが再び私に話しかけてきた。


「舞ちゃんはどうなの?」


 出た。どうせ蕗塔さんが準備万端でないわけがないのだ。準備していないにしても、そこから追い上げてしれっと一位を取りそうな気がする。


「まだ準備はしてないかな。そういう人が今は多いと思うけど」

「人と同じことしてても進歩しないよ」


 ずいっ、と蕗塔さんが近付いてきたので何事かと思ったら、そう耳打ちされた。そうだよ。確かにそうなんだけれども。


「その、もしよかったら、うちで一緒に勉強したり……しない?」


 今度は急にもじもじして蕗塔さんが言った。やめろ。なんか女の子を家に誘う男子みたいな言い方するな。


「別にいいけど……」


 とはいえ私の方も断る理由があるわけではないので、そう言っておいた。やったあ、と蕗塔さんはすごく喜んでいた。



 いいよ、とは言ったものの、よくよく考えてみれば蕗塔さんの家は私の家の隣だった。

 住宅地の一角に私の家はあるので、その隣の蕗塔さんの家のつくりがまるで違うはずがないのだ。しかしどこか私は楽しみにしていた。それは蕗塔さんの家だから、とかではなく、単に同級生の家にお邪魔するのが久しぶりだったから。少なくとも中学校に入ってからは、やったことがなかった。


 いったん家に帰って荷物を置いて、適当な私服に着替えて勉強道具を持ち、隣の家のインターホンを鳴らした。


「はーい?」


 以前と同じように蕗塔さんのお母さんの声がして少しすると、ガチャリ、とカギの開く音がした。


「彩から聞いてるわ、さ、入って入って?」


 蕗塔さんもそうだが、お母さんまで何だか嬉しそうだった。今日は何かあるのだろうか。

 予想通り家の中の間取りはそれほど私の家と変わらなかった。玄関を入ればすぐ階段が見えて、その横の廊下からリビングやキッチンにつながっていた。そして蕗塔さんの部屋は階段を上がったいちばん手前の部屋だった。蕗塔さんの部屋だから何が来るか分からん、と私は身構えていたのだが、特にそれっぽいこともなく私は用意してくれていたらしい座布団の上に座った。


「ようこそ、蕗塔家へ!」


 お、おう。


「ごめんね、友達が家に来てくれるなんて初めてだから、私もお母さんもうきうきしてて」

「誰かの誕生日ってわけじゃないんだ」

「明日はお母さんの誕生日なんだけどねー」

「明日が?」


 そんな話をしながら、私は教科書やら問題集をテーブルの上に広げた。蕗塔さん用の机は別にあったのだが、今回のために組み立て式の小さめのテーブルを出してきてくれたらしい。ちなみにとりあえず、と思って持ってきたのは数学。結局のところワーク課題も含めて勉強量が一番多くなるのが数学なのだ。と思っていたら、


チンッ!


 とオーブントースターのような音がした。それからジジジジジ……と機械仕掛けのような音とともに、二人分のショートケーキと飲み物を乗せたお盆がリフトに乗って私の目の前に現れた。


「……何これ」


 何が起きたのか分からなくもなかったが、私は蕗塔さんに一応説明を求めた。


「ああ、驚かせちゃった? これはね、一階と二階をつなぐリフトだよ。キッチンと私の部屋とがリフトでつながってて、天井に埋め込まれた滑車のおかげで、ちょっとの力で引っ張るだけで持ち上げられるの。耐荷重もけっこうなものだから、下の階で取り出した洗濯物を入れたカゴも持ち上げられるよ」


 ありがとうお母さん、と蕗塔さんは下の階に向かって呼びかけた。蕗塔さんのお母さんがわざわざ用意してくれたらしい。私も遅れてありがとうございます、と下の階に向かって言った。


「さ、食べよっか」


 とも言い終わらないうちに、蕗塔さんはもう食べ始めていた。見る限り駅前のケーキ屋さんのものだ。地元ではおいしいと評判なので、ここに来て食べられるとはありがたい話だ。


「……あ」


 しかし私はここで、あることに気付いてしまった。わざわざ飲み物まで用意してもらったのだが、その飲み物は紅茶だった。

 どうしたの、と蕗塔さんが尋ねてきたのでそのことを言うと、


「あー、苦手だったかー。仕方ないよねー」


 と分かる分かる、とでも言いたげな共感の表情を浮かべて蕗塔さんはぶんぶんうなずき、それから私の分の紅茶をリフトに置いて


「オレンジジュースにしてほしいー」


 と言いつつ近くにあったスイッチを押した。リフトはしゅるしゅるしゅる……と階下に降りていった。下から上は手動なのに、上から下に行くのは電動らしい。

 いったいどうなってるのか、と思っているうちに代わりのオレンジジュースが届いた。こんなわがままにも付き合ってくださり、ありがとうございます。


「ごめん、紅茶がどうしても苦手で、わがまま言っちゃって……」

「いいよいいよ、ショートケーキには紅茶が合う、っていうのが多数派の意見なだけで、みんながみんな紅茶飲めるわけじゃないしさ」


 昔紅茶を飲んだことがあるのだが、私にとってはどうも苦味じゃないけど、独特の味というか、それが苦手だった。砂糖やミルクを入れてみてもあまり変わらなかった記憶がある。

 ジュースを一口飲んで一息ついたところで、私は先ほどのリフトのことを尋ねた。


「このリフトはね、私とお父さんで作ったの。前の家にいる時から設計図も一生懸命書いてたんだけど、いざこっちに来てみたら全然フィットしなくて……もう大変だったよー」


 でも本人はすごく楽しそうに語っていた。お父さんと一緒とはいえ、こんなものを作ってしまうとは。頭の中どうなってるんだろう。


「……このケーキおいしいねえ」


 私もそうだが蕗塔さんはこのケーキを食べるのが初めてだったようで、目をキラキラさせながらパクパク食べていた。しつこすぎないクリームの甘さと絶妙な酸味の効いたイチゴが口の中を支配し続ける。私も負けじとパクパク食べているうちにあっという間にケーキはなくなってしまった。


「……ふう」


 つかの間だったが、幸せなひと時だった。蕗塔さんも紅茶を一口飲んでふう、と息をついた。


「勉強しよっか」


 蕗塔さんの家に来た本来の目的を忘れてはいけない。私はテーブルに広げた数学のワークに目を向けた。しかし今度は、ケーキのおかげでどんな問題がかかってきても大丈夫な気がしていた。



「……無理」


 私の限界は所詮その程度か。

 その程度だ。


 本来こんなところでつまずく予定はなかったのだが、文章題ゾーンに入った瞬間スピードが衰え、ついには完全に手が止まってしまった。一方蕗塔さんはちゃかちゃかちゃか、とでも音がしそうな勢いで宿題やら課題を片付けていた。


「どうしたの? 分からないの?」


 私は正直にうん、とうなずく。するとずいっ、と蕗塔さんがにじり寄ってきて、どれどれ? とワークを見てくれた。内容は連立方程式で、普通の計算問題なら何とか解けるのだが、文章題になった瞬間どうすればいいか分からなくなっていた。


「これは、……」


 それをどの辺りが分からないかを正確に把握して、蕗塔さんは丁寧に教えてくれた。それまで分からなかったところが分かるようになり、効率がすごく上がった。


「すごい……教えるの得意だったりする?」


 私は感動して特に考えることなくそう尋ねた。しかし蕗塔さんはなぜか、少し暗い顔をした。


「……まあね。昔から得意だったといえば、得意だったよ」

「……どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 ここで私はようやく、何かまずいことを聞いたんじゃないか、という考えに至った。


「……そっか」

「私ね、昔、先生になりたいって、お父さんに言ったことがあるんだ。さっきみたいに教えるのが好きで。けどお父さんはその時苦笑いして、少しだけ首を振ったの。横に」


 お父さんは先生になるのに、反対しているということか。


「今でもあれがどういう意味だったのか、教えてくれないし聞けない。断固反対だったのかもしれないし、少し考えてほしい、ぐらいのものだったのかもしれないし」

「私は、蕗塔さんがなりたいものになればいいと思うよ」

「……?」


 蕗塔さんは突然とも言える私の言葉にきょとん、とした表情を浮かべてみせた。私自身も意見をそんなにはっきり言うのは初めてな気がした。


「そりゃ、お父さんやお母さんが言ったことが重圧になることもあるかもしれないけど、でも自分がなりたいものを目指すのは、悪いことじゃない。私はそう思うよ」

「……お父さんが大学教授だっていう話は、したっけ」

「え? してたような、してなかったような」

「小さい頃よく、お父さんの研究室に出入りしてたの。だから大学の勉強を教えてもらう機会があって、そのうちにいつか自分もそうしたいって思ったのかも。別にその時の思いをねじ曲げようとは思わなかったんだけど……」

「私はいいと思うよ。蕗塔さんは、いい先生になると思う」


 私はこういう時どう言えばいいのか分からなかったので、少なくともそれだけは言わないと、と思って言った。


「……ありがとう」


 真正面からそう言われたのが嬉しさ半分、照れくささ半分だったのか、蕗塔さんは少し笑ってそう言った。



 それから私はテストまで毎日、蕗塔さんのヘルプのお世話になったのだった。

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