Issue1.雪うさぎの約束
「……つまり、です。このシュレディンガー方程式は電子の挙動の記述に役立つ。一般的な物体では運動方程式によってその挙動の記述が可能ですが、電子の場合ではそうはいかない。……」
とある大学の、昼前の講義室。工学部の一年生に対して行われる、物理化学の講義。たくさんの学生がいる前で、まだ若い教員がそう説明していた。若く顔立ちもいいことから主に女子学生に人気な教員だが、少し変な点があるとすれば雪のように真っ白な髪をしているところだろうか。そのことに触れようとする学生はいない。何かとんでもない秘密を抱えているのでは、と皆いろいろ考えるのだ。
「今日はここまで。次からは電子の挙動が関係する、半導体について見ていこう」
講義時間終了の合図であるチャイムを聞き、彼はそう言ってこの日の講義の締めとした。そして器用に講義資料を映し出していたプロジェクターの片付けを終わらせ、質問に来る学生がいないことも確かめて、すぐに教室を出た。彼がまっすぐ向かった先は、そこから少し歩いたところにある部屋。大きくて無機質な機械たちが幅を利かせ、人の通るところの方が少ないのではないか、と思わせるほどのその部屋が、彼の居室だ。
彼の名前は、
「パパおかえりー」
「うん、ただいま。大人しくしてたか?」
彼は娘を前にすると急に甘くなってしまう。結婚五年目でようやく授かった我が子ということもあって、かわいがらずにはいられないのだ。
「おとなしー」
「そうかそうか。パソコンも、変なことしていないか」
彼の居室に置いてあるパソコンはいくつかあるが、講義の際に持ち出す用のパソコンを娘にいじられてしまい、講義資料が一部消えていたことがあった。それ以来カギのかかる引き出しで管理するよう彼も気を付けているのだが、娘のことだからカギを開けてしまうかもしれない、とも思っていた。
「してなかったですよ。僕が余計なことをしないよう、構っていましたから」
奥から今年大学院に入ったばかりの、彼の研究室に所属する男子学生・春川が姿を現してそう言った。
「構うって君、それはありがたいんだけど、また変な入れ知恵をしていないか?」
「仕方ないですよ、彼女の方からおねだりしてきたんですから。今日はコーシー・シュワルツの不等式から、三次元積分までを一通り」
そう言って春川は机に置いてあった大学生用の微分積分の教科書を手に取って彼に見せた。
「それを九十分で理解したのか?」
「分かったよ!」
彼が驚きの声を上げると、彩が嬉しそうにそう言ってホワイトボードにすらすらと式を書いてみせた。それはラグビーボール状の立体の体積を計算する式だった。ひとまず基本はおさえているらしかった。
「まったく……」
彼の心の内は嬉しさ半分、心配半分だった。
彼の家は、共働き。妻は商社で事務の仕事をしているので、日中の家には誰もいない状態だ。そこに幼稚園にも通っていないほどの幼い娘を置いていくのはあまりにもかわいそうだということで、娘を研究室で預かっている。
預かり始めて以来蕗塔研究室に行けばかわいい子どもに触れあえる、と別の意味で人気になったし、娘自身はすごく楽しそうだった。しかし、彼は悩んでいた。
「(こういう育て方でいいのか?)」
研究室にいれば、見たこともないような機械や本たちに囲まれ、それらに興味を持つ。初めの頃は学生が実験の合間に読み聞かせてやるので満足していたが、最近は内容まで理解できなければふてくされるまでになってしまった。こんな歳の子どもが複素関数や微分方程式のことを語り出すなど、誰が予測しただろうか。もっと普通の女の子として育てた方がよかったのではないか。そういう不安が、彼の心の中にはいつもあった。
しかし一方で、そうやって勉強に関心を持ってくれる娘を誇らしくも思っている。こういう時間がこのまま続いてほしい、とも彼は心のどこかで思っていた。
「ハルさん!」
「なに?」
「こんどはこれ! ……ふーりえかいせき?」
そうこうしているうちに彩がまた本棚から教科書を引っ張り出して春川に渡した。しかし春川は苦笑して首を静かに横に振った。それを見て、彩が露骨に不機嫌な顔になる。
「ダメだよ、彩ちゃん。もうすぐお昼ご飯の時間だし、また帰ってきた後にしよう。そうですよね、教授?」
「……ああ、そうだね。そうしよう」
春川以外の学生はすでに昼食を済ませたらしく、彼は娘と春川の三人で、食堂に向かった。
* * *
「いやー、すごい雪ですね」
とある冬の日だった。普段彼の住んでいる地域はそれほど雪の降らない気候なのだが、その日はびっくりするぐらいの雪が降り、下り電車がストップしていた。幸い本数は少なめながら上り電車は動いていて、警報も出なかったのでその日は研究室に来れる学生だけ来ればいい、という形にした。するとその日は彼と彩、そして春川だけになった。春川も服に山ほど雪をつけながら部屋に入ってきた。
「今日こそいろいろ動かしてやろうと思っているから、部屋の中は暖かいだろうけどね」
いつもは彩が不用意に触れてケガなどしないよう、部屋にある機械には赤いテープを張って塞いでいたのだが、この日はそのテープをはがしてメンテナンスをしていた。彩は別の部屋で幼児番組を見ていた。
「春川君、早速で悪いんだけど、そこの装置のキャリブレーションが終わったようだから、作動を手伝ってくれないか?」
「分かりました」
メンテナンスが終わった装置から順に、彼と春川はいろいろと操作を始めた。時々窓の外で止むどころか降る勢いを増してどんどん積もってゆく雪を見ながら、二人は話していた。
「……彩を、ここに置いていていいんだろうか」
「彩ちゃんをですか?」
「複雑な気持ちなんだ。機械工学でなくても勉強に関心を持ってくれることはすごく嬉しい。しかしそれで例えば小学校に上がった時なんかに、周りの女の子と価値観が違い過ぎては困るだろう、その点が心配なんだ。妻に聞く限りでも、一度周りの女の子たちから仲間外れにされると、その関係を修復するのは難しいらしいからね」
「……それは僕にも、難しい話ですね。僕も女子といくらか話したことはありますけど、そんなに多くの女子と接した経験はありませんから。ですけど男子でも友人と縁を切られるのは怖いですし、女子であればなおさらなのかな、とは思ったりします。……結城に聞いてみればいいかもしれません」
結城、というのは春川に同じく彼の研究室に所属している学生の一人で、学生の中では唯一の女子。春川の手が空いていない時は彩の面倒を見る役をしているが、この日は大雪で電車がストップした影響か、まだ来ていなかった。しかし、
「なに? わたしに聞きたいこと?」
「結城!」
その結城がいつの間にかやって来て、部屋の入り口近くに息を乱しつつ立っていた。いましがた雪をかき分けて来たばかりらしい。
「今日は生憎こんな天気だけど、先生ならまたいつも通り来て、彩ちゃんを置いていそうな気がしたんですよ。春川君が来てないとあれだと思ったから、わたしも来ることにしました」
「電車は大丈夫だったのか?」
「ええ、それより彩ちゃんの方が心配ですから」
彼が尋ねても、結城から無理やり来たという様子は一切感じられなかった。
「すまない、わざわざ」
「いえいえ。お気になさらず」
そう言って結城は奥の部屋、彩がテレビを見ている方の部屋へ向かった。その時、プス、プスと装置の方から音が上がった。
「オーバーヒートか? やはり一度に装置を動かしすぎたか」
それぞれの装置の規模が大きいせいで熱を持ち始め、正常に動作しなくなっていた。何かで冷やす必要があると、自分は装置を見守りつつ冷却用の氷を持ってきてくれ、と彼は春川に頼んだ。
「パパ!」
しかし春川が返事をして部屋を出ようとする前に、奥から彩と台車を押した結城が出てきた。台車には雪が詰め込まれた大量のプラスチック製の箱が積まれていた。
「冷やすの、どうぞ!」
どういう目的があったのかは知らないが、その大量の氷とも言える箱を彩は持ってきてくれたのだ。それをこれでもか、と四人で装置の周りに置いたり積んだりして、なんとか事なきを得た。
雪は相変わらず降り続き、その後夕方の段階になって皆帰れなくなってしまったのはまた別の話である。
* * *
「彩」
「なに?」
「クリスマスプレゼント、だ」
「クリスマスプレゼント? サンタさんは?」
「今年は特にいい子にしてたから、サンタさんには内緒でお父さんからもプレゼントをあげよう。開けてごらん」
それから少し日が経って、クリスマスになった。蕗塔家ではクリスマスの日には彼も妻も仕事を休み、娘と三人でチキンとケーキを食べると決めてあった。その席で、彼は小さな、しかしきれいに包装された箱を娘に渡した。
彩は少し苦労しつつ、箱を開けた。中には一つの髪留めが入っていた。雪うさぎの形をしていて、かわいらしさを前面に押し出したデザインになっていた。突然のプレゼントを前にきょとんとして固まる彩に対し、彼はその髪飾りを手に取り、そっと彩の髪に留めてやった。
「あなた、これは?」
妻もサプライズに首をかしげていた。彼は恥ずかしそうに少し笑い、そのプレゼントをした理由を話した。
「彩は研究室にいて、勉強にすごく興味を持っている。これは仕事柄としてもお父さんとしても、すごく嬉しいことだ。けれども、あまり勉強にのめり込みすぎて周りの女の子と馴染めないのは彩にとってよくないことだ。この間の彩を見て、ぼくは改めて思った」
そこまで思うのなら保育園に入れればよかったのでは、とも彼は何度か思ったことがある。しかし両親と過ごす時間が少なかった子どもはどうこう、という話を聞いて不安になっていたのだ。
「彩にはその名前の通り、彩り豊かな人生を送ってほしい。君と一緒に決めた名前だから、なおさら大切にしたい」
彼は伝えたいことがたくさんあるあまりどれをどう伝えるか少し混乱し、言葉に詰まった後苦笑した。そして、ひとつ咳払いをして言った。
「……要はぼくは、彩を甘やかしたかったんだ。彩がこれから先大切にしてくれそうなものを、今のうちにあげたくてね」
まあ、と妻が言って笑顔になる。彼もつられて笑顔を浮かべた。そして事情をよく分かっていないだろう彩も、にっこーっ! ととびきりのスマイルを浮かべた。
あれから十年。
少女蕗塔彩は中学二年生になった今でも、肌身離さずその雪うさぎの髪飾りを持っている。お父さんと交わした約束は、今も守り続けている。
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