神戸蒼、という女(2)

 私が教室に戻ると、蕗塔さんも教室に戻ってきていた。そして蕗塔さんのそばには神戸さんがおり、他のみんなは英語の時間の前と同じく少し距離を置いてそっと見守っていた。そこから教室を横切ってみんなのところに行くわけにもいかなかったので、私は教室の外からそっとその様子を見守ることにした。


「……なに」


 神戸さんが近付いてきたことに気付いた蕗塔さんは、開幕からいきなり周りを険悪な雰囲気にするような声色で言った。


「あ、その、……ごめんなさい」

「だから、何が」


 ん? ちょっと待て。蕗塔さん、あなたもそんな偉そうにものを言える立場じゃないですよ?

 しかし神戸さんは構わず続けた。


「蕗塔さんが言ってたことはある意味、本当だった。わたしは蕗塔さんがこのクラスに来た時正直様子見を決め込んでたし、寺阪さんと積極的につるんでるのを見てもまだ関わったらまずいことになりそう、って思ってた。だけど運動会が終わって、見方が変わったんだ。わたしたちは転校生に対してあんまりいい思い出がなくて、蕗塔さんもおんなじだと思ってた。だけど違った。蕗塔さんは一生懸命わたしたちのクラスに馴染もうとしてくれてるし、その中でも個性を出そうと頑張ってくれてる。もしかしたらこの二つは矛盾してるのかもしれないけど、蕗塔さんは今までの転校生とは違うんだなって思ったの」

「……それで?」

「わたしが蕗塔さんを警戒してたってことは認める。それから、認識が変わったから話しかけてみようかな、っていう好奇心が動機だったことも。だから今さらかもしれないけど、……友達に、なってくれない?」


 ここに来て蕗塔さんが驚いた顔をして神戸さんの方を見た。


「友達……」

「確かにわたしが悪いところもあったけど、蕗塔さんだって全部正しかったわけじゃない。寺阪さんにも話聞いたけど、蕗塔さんも普通の子に言えばざっくり傷つくようなこと、たくさん言ってた。わたしは普段から男子とよく話しててからかわれることも多いし、慣れてきて同じ土俵に立って言い返せるようになってるけど、たぶんそういうのに慣れてない子が同じこと言われたら、ダメになる。そうなったらこれから先わたしだけじゃなくて、いろんな人に仲良くしてもらえない可能性だってある。わたしはそんな蕗塔さんが見たくない。だからそういうことを言わなくてもいい関係でいられるように、友達になろう、って」


 神戸さんは少し早口気味に、だが蕗塔さんにはちゃんと聞こえるように言った。蕗塔さんの目がみるみる見開かれ、うるんでいくのが見えた。


「……ねえ」


 少し間を空けた後、蕗塔さんが口を開いた。


「なに?」

「蒼ちゃんは、さっきどこに行ってたの?」

「さっきって、授業前?」

「そう」

「保健室……って嘘ついてもダメだね。ちょっと泣いてた。久しぶりに泣いたことにびっくりして、落ち着こうと思ってトイレで」


 五組の教室の比較的近くに、トイレがある。走って行った方向からしても、たぶんそこのことだ。なんだやっぱりそうだったのか、と様子をうかがっていたみんなも少しため息をついた。蕗塔さんはさらに尋ねた。


「それって、個室の手前から何番目?」

「え? 一番奥。五番目かな」

「私、手前から四番目にいた」


 それを聞いて私はズッコケそうになった。隣同士で泣いていたというのか。


「……あはははっ」


 先に笑ったのは神戸さんの方だった。蕗塔さんもつられるようにして笑みをこぼした。


「……何なのそれ、面白すぎ!」

「私たち仲間だねー」

「いや、それはちょっと……」


 うん。神戸さん、あなたの判断は正しい。


「私も悪かった。ごめんね?」

「もちろん。許すよ」


 このやり取りで無事、クラスの雰囲気からも緊張が取れたのだった。



* * *



 神戸蒼は陸上部のエース。同じ陸上部の女子たちから憧れの的になっているだけでなく、男子からも一目置かれている。身長は152センチと低めと言えば低め、というものだが、すばしっこさに関しては誰にも引けを取らないのだ。その才能は幼少の頃から如何なく発揮され、鬼ごっこでは毎回率先して鬼をやっていたものだ。


「待てぇぇぇーーーっ!!」


 朗らかな性格なこともあってか男子たちと気軽に話すことが多く、男子にもよくちょっかいをかけられる。そのたびに彼女は男子を追いかけ回し、そして捕まえてみせる。そんな活発を絵に描いたような彼女が最近していることはというと、


「ほら帰った帰った!」


 蕗塔さんのうわさが先輩たちにもじわじわと伝わっているらしく、休み時間になると五組の教室の前に先輩たちが何人か集まるようになっていた。たいていはナンパのようなそうじゃないような、要は蕗塔さんを冷やかしに来ているのだ。男子に対しても一切物おじせず、むしろ強気な態度で接することができる神戸さんは、そんな先輩たちを追い返す役目をやっていた。蕗塔さんが慣れない事態に戸惑いを通り越し少し不安そうな表情を浮かべていることも大きかった。(心の中では別だが)人に向かってあまり強く言えない性格の私はそんなことができるはずもなく、しっしっ、と手で追い払う仕草を見せる神戸さんを少し遠くから見ることしかできなかった。ちなみに今日の神戸さんはべーっ、と舌を出して威嚇していた。


 神戸さんが積極的に蕗塔さんと接するようになったおかげか、クラスの子も変な遠慮をする子が少なくなり、また蕗塔さんも他の人と話をすること自体は好きなようだったので、たちまちクラスの雰囲気は盛り上がった。しかしそんな中でもやっぱり、しょせんは転校生なんだよ、あんな態度上辺でしかない、と思う人もいた。私にはそれが何となく分かる。「こいつうぜえ」とでも言いたげな雰囲気を、堂々と出しているのだ。そしてそんなことを思うのはたいてい、小学校の頃からガキ大将とおだてあげられてきたちょっとガタイのいい男子と、その取り巻きだ。我らが香が丘中学校も、例外ではなかったらしい。


「……わっ」


 ある朝蕗塔さんは、かばんの中身を机の中に入れ替えようとして、素っ頓狂な声を上げた。


「どうしたの?」


 その時まだ朝早かったので、教室には私と蕗塔さん、それから朝練のために早く来ていて制服に着替え直す神戸さんの三人しかいなかった。神戸さんは制服のブラウスのボタンを留めるのに少し苦戦しつつ、そう尋ねた。


「砂が入ってる……」

「「砂!?」」


 それには私も驚いた。私たち二年生の教室は二階にあり、グラウンドの砂がじゃんじゃん入ってくるような環境にはない。つまり誰かが、意図的に入れたということになる。その証拠に砂は蕗塔さんの机の中でこんもりと山を作っていた。


「やることがしょうもないなー、さすが男子」

「これはさすがにわざとだよね」

「まあいたずらのレベルとしてはそんなに高くないのかな。どうせ大谷とかそのあたりだろうから、後でちょっとこらしめようか」


 神戸さんはよしよし、とか言いつつ指を鳴らしたが、意外にも蕗塔さんがそれを止めた。


「ちょっと待って」

「どうして? 放っておくの?」

「いやいや、そんなわけないじゃないすか先輩」


 どうやら策はあるらしい。蕗塔さんは何やら、怪しい笑みを浮かべていた。その時の悪人面といったらもう。

 私はごくり、と固唾をのむしかなかった。



 事件は翌日起こった。

 ちなみに砂はきれいに集めて、グラウンドに戻していた。神戸さんは先生に言う? と言っていたが、言ったらむしろこれからの計画が実行しにくくなる、と言って蕗塔さんは断った。先生が見てまずいと判断するようなことをするなよ。

 神戸さんの言った大谷、という男子はガタイがよく、腕っぷしも強いらしい。神戸さんは昔よく男子と混ざって遊んでいたらしいが、その中にも大谷くんはいて、ケンカの戦績も今現在まで引き分けが続いているらしい。その大谷くんは蕗塔さんの身に前日起こった事件など知らぬ存ぜぬ、という態度を貫き通していた。蕗塔さんの方に目をくれることもなかった。


「やっぱり一発かました方がよかったんじゃ……」


 さらっと神戸さんも恐ろしいことを言う。


「大丈夫大丈夫、今日のために徹夜してきたんだから」


 徹夜してすることなんてあったかな、と私はぼんやり考えていた。しかも徹夜したなんて、眠たかったり、疲れていたりしないのだろうか。

 蕗塔さんの方はというと真面目な顔をしてみたり、かと思うとにへにへしてみたり、ますます私の不安をあおるような様子だった。下手に波風……いや、大波を立てるのもそれはそれでまずい。ちょっと懲らしめる、ぐらいで済めばいいのだけど。


 悲劇は、四時間目の英語の時間に起こった。いつも通り杉下先生がのんびり解説し、真面目に聞いている人もしゃべっている人も、寝ている人もいる中でのことだった。


「うおおおおおっっっ」


 突然野太い叫び声が教室のど真ん中から響き渡ったので、うとうとしていた私もバチっと目が覚めた。どう考えてもそんな叫び声を上げる場面ではなかったので、私は声のした方を探した。果たして声の主は、件の大谷くんだった。そして彼の机の引き出しが、異変の元凶だった。


びしゃああああっ!!


 と、そんなバカなというような音を出しながら、机の中から勢いよく水が発射されていた。そしてその水は、まっすぐ大谷くんのズボンに命中し続けていた。みるみる濡れてはまずいところに染みが広がって行く。それだけでどんどん大谷くんの顔は気まずいものになっていったが、なんとそれでは終わらなかった。


ズバババババッッッ!!!!


 まるで大谷くんが焦り出したのを察したかのように机の中から噴き出す水は勢いを増し、大谷くんは焦る余裕もなく恍惚に満ちた表情を浮かべ始めた。まずいぞこれ。

 そして数分そんな状況が続いた後、ようやく水は止まり、大谷くんは我に返った。自分の置かれている状況と周囲の痛々しい目線を把握し、泣きそうな顔をしながらトイレの方向へ走っていってしまった。トイレに走ったところでどうするつもりなのかは分からなかったが。

 後には呆然とするみんながいた。その中で、一人だけニヤニヤしている子がいた。何を隠そう、蕗塔さんその人である。分かりやすっ。結局本人が勝手にいなくなってしまったことで授業は再開され、見ていたみんながその後なかなか切り出せないタブーな話題となってしまったのだった。



「……よいしょ」


 英語の時間が終わって、蕗塔さんは早速大谷くんの机の中をゴソゴソと探った。その様子を見てクラスのみんなも、やっぱり蕗塔のせいだったか、と半ば安堵の表情を浮かべた。机の中から水がバッシャバッシャ出てくるという変なドッキリをするのも蕗塔さんぐらいだし、まして言い争いからのケンカになればまず勝てない相手である大谷くんに対してそんなことをするのも、たぶん蕗塔さんぐらいだ。

 果たして蕗塔さんが机の中から引っ張り出してきたのは、普通のノートぐらいの分厚さで大きさのブツだった。私にはそれが何なのか見当もつかず、思わず尋ねていた。


「それは?」

「これはね、新型のスプリンクラー」

「スプリンクラー?」


 スプリンクラーと言えば、火災の時なんかに水を出して火が広がるのを抑えるあの装置のことか。でもそんなに大きかったらスプリンクラーの意味がないのでは?


「火災用のスプリンクラーだと普通は天井に設置して、熱を感知して栓が開くことで屋上のタンクなんかから水を供給しつつ消火するんだけど、これは床に設置するタイプなの。床から水を高圧でばらまいて、火の根元から消しにかかろう、ってタイプ」


 そんなタイプがあるのか。


「しかも非常時じゃなくてもそのまま外まで配線を伸ばして花壇の花に水をやることもできるし、水を浄化する装置もついてるから飲料水の供給もできる。それを全部自動でやってくれるようにプログラムした商品になります」


 宣伝っぽく蕗塔さんが言った。


「今のところこの床設置型スプリンクラーは小型化が難しいのが難点ですけど、今回はむしろ小型じゃないことが活かされましたね。うまい具合に机の中に仕込んで、さっきのように作戦成功の運びとなりました」


 聞いていたクラスの子の人混みの中から少し、おー、という声とともに賞賛の拍手があがる。


「ちなみに今回は学校の水道配線とつないでいて、さらに中庭の花壇の近くまで伸ばしているので、このリモコン一つで今から中庭の花々に水をやることができまーす」


 蕗塔さんがポケットからリモコンを出しつつそう言うと、興味を持った子たちが廊下の窓の近くまで移動した。そこからはちょうど中庭が見えるのだ。


「ポチッ、となっ」


 いつの時代のネタだと言いたくなるような古典的な合図をしつつ、蕗塔さんがボタンを押した。するとシュコッ! と新幹線のトイレを流す時のような音がした後、霧のように中庭の花々に水が撒かれ、そして太陽の光を受けて虹を作った。


「「「おぉーっ」」」


 感嘆の声を上げるみんなを見て、蕗塔さんは自分の開発した装置がどうだすごいだろう、とばかり威張っていた。しかし彼女は気付かなかった。


「なんか今朝から学校中の水道の出が悪いと思ったら蕗塔、お前のせいだったのか」

「わっ、杉下先生」


 不意に蕗塔さんの背後からにゅっ、と杉下先生が顔を出した。授業は終わったが次のクラスで準備をしており、騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。


「花壇に水をやる装置ならまだしも、……お前はここでもそんなことを繰り返すつもりか!」

「わーっ、ごめんなさーい!」


 蕗塔さんがわざとらしい声を上げつつ廊下を走ってゆく。それを全速力で追いかける杉下先生。蕗塔さんが悪あがきで廊下にばらまいた水で滑って思い切り尻もちをつく杉下先生に構うことなく、蕗塔さんはどこかへすたこらさっさと逃げおおせてしまった。

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