神戸蒼、という女(1)

 運動会が終わった。

 障害物競走では見事二年五組が優勝したが、他の競技ではふるわず、総合優勝は逃す形となった。それでも障害物競走の神戸さんの活躍で、うちのクラスは大いに盛り上がっていた。運動会の代休が明けて最初の登校日は、休み時間のたびに神戸さんの周りに人だかりができていた。もちろんバリケードを作った子たちが口をそろえて言うのは、


「すごかったよ神戸さん、あの逆転劇」


 だった。しかも神戸さんもそれを言われるたび、それほどでもないよ、と少し照れながらもいろいろ話すので、ますます神戸さんに対するクラスの好感度は上がっていた。そんな中昼休みに神戸さんは自ら、蕗塔さんの机まで行き、話しかけた。私はその様子を比較的近くから見ていた。


「蕗塔さん」

「どしたの、蒼ちゃん」

「……!!」


 神戸さんはさすがにいきなり名前呼びされたことに驚いた様子を見せたが、すぐに友好的な態度だと受け取ったのか、


「来賀ちゃんにうまくつなげてくれてありがとう。すごく助かったよ」


と言って、手を差し出した。しかし蕗塔さんはその手を握り返さないどころか、軽く追い払うような仕草さえ見せた。


「……ちょっと、どういうこと」


 これにはさすがの神戸さんも少し不機嫌な声になった。


「別に。何でそうやって話しかけるのが今さらなのかな、ってふと思ったから」


 その口調は普段の蕗塔さんのものとは思えないほど、冷淡だった。


「今さら?」

「まるで私が転校してきたのが昨日やおとといみたいな話しかけ方だったから。言っとくけど私一応、四月からいるよ?」

「……何、その挑戦的な態度」


 空気がどんどん険悪になってゆく。神戸さんの周りに群がっていた子たちも下がり、固唾をのんで様子を見守っていた。私も同じだった。


「まあ、仕方ないよ。こんな変な転校生、話しかけようがないよね。転校生っていうだけで敬遠するような子たちばっかりだもんね? ね?」

「そんな言い方することないでしょ!」


 神戸さんもムキになって言い返す。


「わたしが蕗塔さんに話しかけるのに、そんなに他意があると思う!?」

「なかったら最初から話しかけてるよね? 別に当然話しかけるべきだなんて自意識過剰ではないけど、少なくとも今のタイミングはおかしいよね」

「……っ」


 私ははっとして、改めて神戸さんの方を見た。神戸さんの声が途中からくぐもり始めたと思ったら、彼女は涙を流していたのだ。最初神戸さんはそのことに自分でも気付いていない様子だったが、やがて手で拭って涙がついたことに少し驚いた表情を見せて、それからどこかへ走り去っていった。

 それから私を含めたみんなの視線は蕗塔さんに移った。蕗塔さんはまるで何事もなかったかのように自分の勉強に向き直り、シャーペンを持って問題を解き始めた。それを見ていつまでも蕗塔さんを避けておくのが気まずいと思ったのか、みんながぞろぞろと自分の席へ戻り始めた。すでに席替えをしていたので私の席は蕗塔さんから少し離れていたが、私もちらちらと蕗塔さんの方を見つつ自分の席に着いた。


「舞ちゃん」


 私も次の時間の用意しよ、そうしよ、と知らんぷりを決め込もうとしたのだが、蕗塔さんが私の名前を不意に呼んだ。その一声でまたクラスのみんなの空気が張りつめ始めたのが分かった。今度は何をするつもりなのか。そういう恐怖に近い雰囲気だった。それでも私は蕗塔さんのところへ行かないわけにはいかず、彼女の前まで来た。


「どうしたの、」


 私はなるべく平静を装って返事をした。


「……私、そんなにヤな奴に見える?」


 半分くらい本音でそうだよ、と言いたかったが、蕗塔さんの言っていたことが完全に間違っていたわけでもないと私は思っていた。


「はたから見たら、ヤな奴かもしれない。でも、全部間違ってたわけじゃないと思うよ」


 私はなるべく角を立てないよう、そう言った。


「……そっか。ありがと、舞ちゃん」


 そう言うと蕗塔さんは急に何かを思い出したかのように立ち上がり、どこかへ行ってしまった。


「(蕗塔さんまで?)」


 私は蕗塔さんがどこへ何をしに行ったのか、少し気になった。というのもその時すでに、次の授業が始まるまでもう一分もなかったからである。



「……あれ、蕗塔がいないな。どこ行ったか知ってる奴ー」


 次の授業は杉下先生の英語だ。杉下先生は結構真面目に出欠をとるので、最初にクラス全体を見渡して先生が言った。


「神戸さんもいませんよー」

「ん? ……ああ、本当だ。珍しいな、神戸も蕗塔も」


 クラスの中で首をかしげているのは杉下先生だけだった。ほとんどみんな二人のケンカを目撃していて、事情を知っているのだ。


「まあ、たまにはこういうこともあるのか。もしも授業終わっても帰ってこなかったら、様子見に行くか」


 どこに行ったのか分かるのだろうか。



 そして変化があったのは、授業が始まって十分ほど経った頃だった。


「……じゃ、この文の主語は何だと思う、西之瀬」

「えーと……Thereじゃ、ないんですか」


 問題の答え合わせで西之瀬さんが当てられ、答えた時だった。


「違うよ、にっしー。それは仮の主語なだけで、実質的な主語はその後の名詞の方」


 教室の後ろの方の扉がそろっ、と開いて、青いショートカットの髪がちらっと見えた。神戸さんだ。


「お、神戸か。大丈夫か?」

「え? ……ああ、はい、大丈夫です。ちょっと頭が痛かったんですけど、もう大丈夫です」

「そうか、分かった。蕗塔はどこ行ったか知らないか」

「知りません」


 蕗塔という名前を聞いた瞬間神戸さんは少し顔をしかめたが、すぐに取り繕うようにしてそう言った。


「そうか」


 杉下先生は特に気に留めなかったらしく、授業は再開された。結局授業が終わるまで蕗塔さんが帰ってくることはなかった。



* * *



「ねえ、本当に知らないの」


 英語の授業が終わった後、私は神戸さんを呼んで、屋上で話を聞いてみることにした。学校の屋上というと普段は開いていなくて、カギが壊れているとかちょっと裏技使ってこじ開けたとか、特別な事情があって初めて入れるいわば神聖な場所だが、残念ながらうちの学校の屋上は完全に壁やら天井に覆われていて危険性のかけらもないので、普段から鍵が開いている。


「何を?」

「蕗塔さんがどこに行ったか。あの子だと学校飛び出してどっか行ってるかもしれないから、心配で」

「じゃあわたしから聞くけど、どうして寺阪さんはあの子のことを心配してるの?」

「え……? だってそりゃ、調子が悪いわけじゃないのに姿を見せないなんて、単純に心配じゃない?」

「あんなにひどいことを、次から次に言うような子だよ? わたしはそんな子のことまで心配していられるほど、心が広くないから」

「あれは、」


 違う。きっと蕗塔さんだって、本心からあんなことは言わないはずだ。普段からちょっと変なことしたりするけど、それでも心の中がそんなに冷たい子ではないということは、何となく分かる。


「確かに、蕗塔さんも言い方があったと思う。でも私は、蕗塔さんが全部間違ってるわけじゃないとも、思う」

「……どういうこと」

「私も思ったの、どうして話しかけたのが今なのかな、って」

「それは、単純に気になったから。こう言ったらなんかヤな感じだけど、どうして私のところに来ずに、勉強してるのかなって。それとも何か急ぎでしなきゃいけないことあったかなって、確認もしたくて」

「……それを蕗塔さんは、クラスの人気者になった今なら自分にも応じてくれるだろう、って思ってる、そう考えたのかも」

「そんな、」

「本当のところは蕗塔さんにしか分からないけど、私はそれが理由な気がする。私は二ヶ月ぐらい蕗塔さんの隣にいた……寄ってこられたけど、そんなひどいことを言うような子じゃないから」

「……わたし、どうしたらいい?」


 神戸さんは寂しそうに言った。私は特に何も言うことなく、続きを促した。


「蕗塔さん、わたしのこと『蒼ちゃん』って呼んでた。だから確かに、嫌ってるわけじゃない気がする。けど、こういう状況は経験したことないからよく分からない」

「……神戸さん、頭が痛くて保健室に行ってたっていうの、あれ嘘よね」

「え? ま、まあ、そうだけどさ」

「本当はどこかでひとしきり泣いてたとか?」

「どうして分かったの?」

「だって泣いてるのを隠すようにどこかに行ったんだから、分かるよ」

「……ちょっとね。泣いたのなんて妹とケンカした時ぐらいしかなかったから、戸惑っちゃって」


 神戸さんはへへへ、と照れ隠し交じりに笑顔を浮かべた。


「蕗塔さんも、あの後泣いてたの。それから神戸さんみたいにどこかに行っちゃって」

「蕗塔さんも泣いてた? どうして」

「蕗塔さんも言いたくないこと言っちゃった、って思ったんだと私は信じたい」

「信じたいって、何それ」

「本当の気持ちなんて分からないんだって。特に蕗塔さんのことだし」

「……そっか」


 神戸さんは少し上を見上げた。屋上は壁で覆われているとはいえ、あちこちに窓があって外の景色は見える。そこからは青空が広がり、雲もどこかへ逃げてゆく空の様子が見えた。そして神戸さんは決意したように、私に言った。


「わたし、蕗塔さん探してくる。言わなきゃいけないことがあるから」


 そしてダッシュで扉を開け、教室の方へ戻っていってしまった。私はその後ろ姿をしばらく眺めた後、心の中で小さくガッツポーズをして、後を追いかけた。

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