不思議な転校生(3)

 次の日は入学式で、学校はなかった。次に学校に行ったのはそのさらに次の日だ。

 校門前の立ち当番は幸い始業式の日しかなく、私はいつも通りの時間に起き、いつも通り朝ごはんを食べて家を出た。


「……はあ」


 昨日の疲れの元凶とはいえ、さすがに隣に引っ越してきた転校生をさっさと置いていってしまうほど、私は残酷ではない。と信じたい。この時はそう思って、蕗塔さんの家のインターホンを押してみた。


「はーい?」


 元気な女の人の声が聞こえた。だが、昨日散々聞いた蕗塔さんの声とは違った。そしてドタドタ、ガチャガチャ、と家の中で何やら騒がしい音がして、玄関の扉が開いた。


「あら、おはようございます、寺阪舞さん、よね?」

「はい、そうです」


 出てきたのは蕗塔さんのお母さんらしかった。昨日は外が暗いこともあってよく見えなかったが、お母さんの髪は娘とは違い茶色だった。


「茶色……じゃなくて、彩さんはいますか」

「あの子なら、もう学校に行っちゃったわ。なんだかすっごく張り切ってたけど、今日は何かあるの?」


 今日そんな張り切ることあったか?


「いえ……」

「あら、そう? とにかくもう行っちゃったから、ごめんね? あと、」


 彩をよろしく頼むわね?


 蕗塔さんのお母さんはそう言って、私にウインクしてみせた。本人だけではなく親にも頼まれるとは。なんなんだこの親子。


「……行くか」


 先に行かれてしまった以上、家の周りでとどまっている理由がなくなったので、私は学校に向けて歩き始めた。



* * *



「おはよー」


 私は朝学校に来て教室に入る時に、そのあいさつだけはするようにしている。それは教室に誰かいてもいなくても一緒……と体のいいことを言ってみたかったが、実際私がそんなに早く学校に来ることはないので、結局誰かしらにはあいさつをしていることになる。そしてこの日も、すでに二年五組の教室には一人いた。


「あ、おはよう舞ちゃん!」


 蕗塔さんは朝から元気百倍だった。大丈夫だろうか。水かけられたりカビがついたりで力が出なくなったりしないだろうか心配だ。


「蕗塔さん、朝早いね」

「え? 早い?」

「だって来た時、教室に誰もいなかったでしょ?」

「いなかったけど、それが普通じゃないの?」


 ん?


「それって来るのが早すぎるって、思ったことはない?」

「そうなんだー」


 こいつ人の話受け流しやがった。


「でも朝起きて少し勉強したら頭がよく働くって聞いたことがあるから。さすがに朝起きてすぐにそんな時間はないから、じゃあ学校でやろうかな、っていうのが習慣になってさ」


 言っていることはたぶんいいことなのだろうが、言い方がちょっと気に食わないのは気のせいだろうか。


「あ、そうだ舞ちゃん、今どこまで勉強進んでるか教えてくれない? 先に知っとくといいかなって思って」

「え? ああ……うん」


 どこまで進んでる、と言ってもまだ今日が二年生最初の授業日なので、二年の内容の最初からだろと言いたいところだが、残念ながらその通りではない教科もある。中学校が義務教育である以上誰かを置いてけぼりにするわけにはいかず、結局のところ全体の進度が遅れることもあるらしい。つまり二年生になったのにまだ一年生の内容をやっている、という具合だ。私は蕗塔さんに一通り内容を教えた。その中で蕗塔さんは社会の授業が気になったらしい。


「どうしたの?」


 突然蕗塔さんの手がぴたりと止まったので、私は尋ねた。


「香ヶ丘って社会の授業、どんな進み方?」

「どんな進み方? えっと……」


 どんな進み方も何も、中学校ならどこも一緒ではないのか。逆に違っても問題では?


「まず一年で地理をやって、それから二年で歴史。三年で公民、って言われた気がする」

「やっぱそうなんだ」

「違うことなんてあるの?」

「前の中学校が特殊だったのかな。一年と二年の合わせて二年間で地理と歴史をやるんだって。公民が三年生の一年間なのは一緒」

「え? それって一年でどっちかやって、もう一年でもう片方ってことじゃ……」

「違うよ、それじゃわざわざ二年間で、って言った意味がないでしょ。地理と歴史を同時に進めて、二年間かけて両方終わらせる計画」

「ん……?」


 そんな特殊な進め方あるんだ、と私は思っていた。続きを聞くとどうやら私立の学校でよくある進め方らしい。だからといって蕗塔さんの前の中学校が私立だったわけではないらしいが、そう考えると本人の口から特殊、という言葉が出るのも不思議ではないのかもしれない。

 蕗塔さんはしばらくうーん、とうなった後、はっとした顔をして言った。


「……地理もやるか」

「……は?」


 あまりに唐突な発言だったので、私は無意識のうちにそう返していた。


「だってどうせ受験の時には使うんだし。でしょ?」


 いや、そうなんだけど。

 私はそう言おうとしたが直前で口を開くのをやめた。蕗塔さんはあと二年後の高校受験のことも頭に入れているというのか。私はと言えば高校受験なんて考えたこともなかった。


「私的には歴史の方が好きなんだけど、だからって地理、やらないわけにはいかないし」

「でも地理をやるって、どうやって? たぶん転校生一人のために地理をやるなんて、先生はやってくれないだろうし……」


 私の言っていることは正しいはずだった。それは先生が厳しいからとかそういう問題じゃなくて、転校生が何十人もいるならまだしも、一人のためにあらためて地理の授業をする、そんな措置が取れる余裕があるはずがないのだ。


「え? そんなの、自分で勉強するに決まってるじゃん」

「……ん?」


 今私には理解できない言語で話された気がする。


「だから、自分で勉強すればいいし。たぶん、大丈夫だよ」


 何を根拠にそんなことを言うのか、私には全く理解できなかった。



* * *



「……と、いうわけで先生、お願いします!」


 事件が起きたのはその日の放課後のことだった。

 お願いしますとか言われてもなあ……と、蕗塔さんの向かいにいた杉下先生は頭をぼりぼりとかいて、気の抜けた感じでそう言った。

 そこは職員室の一角。蕗塔さんは職員室に殴り込みをして杉下先生を呼び出した後、職員室の隅にあるテーブルで、とある直談判をしていた。そして関係ないはずの私がなぜか一緒慌てた様子でることになった。いざという時の保険の役割をしてくれ、だそうだ。私はその程度の価値しかなかったというのか。

 蕗塔さんが杉下先生に直談判した内容、それは、


『地理の勉強はこの際自分でするから、中一の地理のテストだけ、一緒に受けさせてくれ』


 だった。


「……ほう! ふんふん、なるほどな。全然分からん」


 さすがの杉下先生も話を聞き終わってからの第一声がそれだった。そしてしばらくして蕗塔さんの言わんとしていることを理解したのか、


「いや、さすがに学年を越えてテストを受けるのは……仮にテストの時間割の都合がついたとしてもだな……」


 と慌てた様子で言った。


「これは私にとってはデメリットですよ? なにせ教科が一つ増えるんですから、他の人に比べてかなり不利になるんですよ?」


 どうやら蕗塔さんはそのデメリットをダシに……いや、条件に、自分の提案を受け入れてもらおうとしているらしい。私は職員室の中でもそのテーブルから少し離れたところから見守っていたので状況を完璧には把握していなかったが、とにかくデメリットを全力で主張して押し通すつもりのようだった。


「いや、お前にとってはメリットでしかない、それは分かってるんだ。押し通されるな俺……だけど地理をやらずに高校受験を迎えるのは……そもそも蕗塔、なんでテストを利用するんだ? 自分でやればいい話じゃないか」


 それは杉下先生の話が正しい。どちみち自分で勉強するなら、わざわざ学校のテストを利用する理由はない。どういう意図があるのか。


「だって、自分で勉強してるだけじゃどれだけ頭に入ったか確認出来ないじゃないですか」

「それを自分でやれって言ってんだよ……」


 そんなぱあっとした明るい顔で言わないでくれ、と言わんばかりに杉下先生は頭を抱えた。それにしても、蕗塔さんにとってメリットしかないとはどういうことなのだろうか。と思っていると、唐突に蕗塔さんが私に向かって手招きをした。私ももう少し詳しく話を聞きたいと思っていたので、二人の方へ行った。


「ん? 寺阪、いたのか」

「はい、蕗塔さんに近くにいるように言われてたので」

「どういうことか俺にはさっぱり分からん。寺阪、代わりに俺に説明してくれないか」

「すみません、私もよく分かりません」


 というより蕗塔さんに関して私は分からないことだらけだ。


「うぉーっ……」


 杉下先生は何だかよく分からないうなり声を上げて、思い切り伸びをした。その間にも蕗塔さんはあちこち見渡しては目をキラキラさせていた。


「あ、そうだ。杉下先生、もし地理を成績に入れたら蕗塔さんにとってメリットになるっていうのは、どういうことなんですか?」

「ああ、それか。蕗塔はな、すごい成績優秀だって前の中学校の先生から聞いているんだ。体育以外は五段階評価で5以外を取ったことがないという話だ。実際に成績表も見せてもらったが、事実だった。体育以外は、全部5だった」


 杉下先生は体育以外は、というのを強調した。


「一年生の頃の試験でも、一位以外を取ったことがない。普通はそんな奴いないんだが、蕗塔はそれを実現してきたらしい」


 こんな変な外見で? あ、いや、ごめんなさい。

 蕗塔さんは見た目からして非常に派手だ。まず雪のように真っ白な髪。私たちの住んでいる地域はあんまり雪が降らないし降ったとしても少しですぐ融けて色も汚くなるから白もクソもない、という話は置いといて、とにかくあれが蕗塔さんか、と廊下の端からもう片方の端を見てもすぐ分かるくらいには目立つ。身長に関しては大きくも小さくもない感じでその意味では目立たないのだが、何せ白い髪が特徴的過ぎる。


「それで、だ。もしも蕗塔だけ地理を受ける、そんな特別ルールが仮に適用されたとしても、自分で勉強する、しかも学校の勉強と両立させながら、書道部で活動しながらということを、蕗塔ならやってのけかねない。もちろん俺としては全く問題ないんだが、だが……」

「あ、木戸先生!」


 眉間にしわを寄せうんうんとうなりながら話す杉下先生をよそに、蕗塔さんが通りかかった別の先生に声をかけた。


「はい?」

「あ、いえ、すみません、うちのクラスの生徒が……」


 杉下先生は若い。先生に向かってその手の話をする勇気が私にはないので本当のところは知らないのだが、多めに見積もっても三十五歳くらいだ。だが通りかかった木戸先生はもう定年間近というベテランの男の先生。なぜ蕗塔さんが木戸先生を知っているのかも疑問だが、とにかく蕗塔さんはキラキラした目を木戸先生にも向けた。


「木戸先生は、一年生の社会担当ですよね?」

「はい、そうですが?」


 一見厳しそうな表情とは裏腹に、木戸先生は丁寧な口調だった。


「かくかくしかじかありまして……」


 蕗塔さんは杉下先生に話したのと同じようなことを木戸先生に説明した。というか事情を話すときにそのまま「かくかくしかじか」って言う人初めて見た。


「……はあ」


 さすがの木戸先生でもそんな話は聞いた試しがなかったのか、少し気の抜けた返事をした。ちなみに私はこの時初めて木戸先生を見かけて、そして初めて知った。なのにどうして蕗塔さんの方が知っているのか。


「そうですか……しかし、地理を終わらせずして受験を迎えるというのも、不安が残るところ……」


 気の抜けた返事をしたものの、蕗塔さんの言いたいことは理解したらしく、木戸先生はそう言った。


「ですよね!? やっぱりテストはしないと頭に入ったかどうかは分からないと思うんです!」


 その言葉を同意と受け取ったか蕗塔さんが興奮気味に言った。というかいつも興奮して話してるの間違いか?


「一年生は確か三百人、それを私ともう一人で分担して担当しますから、およそ百五十人……となれば、私は構いません。採点しましょう」

「……!?」


 一番驚いていたのは杉下先生だった。それだけ勉強に関心を持ってくれるのはいいことだ、とそういう意味のことを言って木戸先生はその場を後にしていった。残ったのはあちゃー、みたいな顔をした杉下先生と、余は満足ぞ、という顔をした蕗塔さんと、いまいちどんな顔をしたらいいか困っている私だった。杉下先生が観念したと思ったのか、蕗塔さんはまたぱっ、と明るい顔をして言った。


「……というわけで、よろしくお願いしますね」

「……一つ、条件を出していいか?」


 杉下先生がそう言った。ここにきて条件? しかし蕗塔さんは急にきっ、と杉下先生の方をにらみつけて言った。


「まさかテストで手加減をしろ、なんて言わないですよね? ねえ杉下先生?」

「うぐっ……」


 図星だったようだ。その旨を言うと予想した蕗塔さんも蕗塔さんだが、それを生徒に向かって言っちゃう杉下先生も杉下先生だ。そんなこと先生が言っていいのか。


「くれぐれも、よろしくお願いしますね?」


 と思うと蕗塔さんは再びにこやかな顔に戻って、杉下先生の方に深くお辞儀をしてその場を去っていった。少し肩を落とした杉下先生の様子は先生に怒られた小学生みたいな格好だった。私はそんな雰囲気を醸し出す杉下先生の方を少し見て、それから蕗塔さんの方を追いかけていった。

 実は後から分かったことなのだが、木戸先生は一年生の社会担当ながら私たちの中学校で教務部長をも務めているらしく、木戸先生が許可したことだから、と蕗塔さんのこの一件は賛成、というより反対の理由なく話が進んだという。

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