レムレースの森

星町憩


《西暦二〇×九年二月二十九日

 ×××、×××××地区の××××町における、かのエド・ゲインの事件を上回る程の怪奇かつ非道な連続バラバラ殺人事件の報道から六日目、一年前の今日、事件の犯人〇〇〇〇〇・〇〇〇〇〇〇の協力者の存在が確認されたことは依然記憶に新しい。

 かの事件は全貌が明らかになるにつれ、世界中がそのおぞましさに震撼し続けている。

 〇〇〇〇〇〇氏は死亡が認められたが、協力者である〇〇・〇〇〇〇〇の裁判は彼が生存している事から今も尚続いており、事件の鍵となる彼の視覚異常を脳の機能異常とするか精神異常と捉えるかについては、専門家の意見が分かれている。

『MRIや脳シンチにて脳機能野の検査が数回に渡り行われているが、彼の脳野に萎縮した箇所は認められず、これは〈機能〉としての脳の異常は認められないということを示唆している。

従って彼の視野異常は脳神経学的な原因を持たない。しかし精神的機能不全と言うには、彼の発言を信じるならば彼は物心ついた頃からその視野異常を抱えていたということになり、トラウマとなるエピソードもなく、説明がつかない。彼はそれ以外に置いては非常に【まとも】だ。そして、一般人と同じように、己が【同じ人間の死体を切断していた】という真実にショックを受けている。その発言まで含めて妄言と捉えるか否かで今後の対応が変わってくる。』――ドクターは語る。

『彼は言う。ならば僕は人間としては欠陥品なのだと。病気や精神異常を抱えた人は世界中に五万といるだろうけれど、その人たちは欠陥品ではない。なるべくしてそうなっている。でも僕だけが、エラーを抱えていて、世界を正しく認識出来ないんだ、と。』》


 天使というのは天の使いというだけあって、天の勅命がなければ何も出来ない立場にある。自我を持ってはいけないし、自我の赴くままに行動してはならない。それが掟だ。

 とはいえ天使も生き物の一部族だ。だからエラーを起こして自我を持ってしまうことは、知られていないだけで良くあることで。

 全て生き物は滅びるように設計(デザイン)されていて、滅びるための条件が【自我(エラー)を持つこと】であるらしい。例えば生まれてまもなく明確なこのエラーを抱える人間という生き物の一部は、その著書に【知恵の実を口にしたせいで楽園から追われる】という話を記したが、それはむしろ天使のための戒めの記録だった。もっとも、それを人間に書かせた天使は直ぐに死んだ。だからこそエラーを抱くことは天使の本能的な恐怖である。エラーを抱えた天使はそうでないふりをし続け、いつ自分が【余命の決まった天使】だと周囲に知られるかを危惧し、それ以降己が成長もなく衰えていくだけであることを嘆く。自我を持たない天使達は、その期間が長ければ長いほど、成長をし、階級を上げていく。言わば、【深化】するのである。その身はより硬くより豪華絢爛に、そしてより巨大な形へと変化する。そう言えば、人間が作り出すキュビズム的な彫像やコンピュータによるロボットは、そんな格上の天使達の姿によく似ている。やはり人間というものは天使の真似しかしない生き物だ。天使だって最上の存在ではないはずだが。

 真の最上級の天使がどんな姿をしているのか、知るものはいない。現在確認されている最上級の天使は、人間の作る城というものに似た姿をしていた。ならばそれより格上の天使は白き大陸になるのやもしれないし、あるいは白き球体星となって宇宙をさ迷っているのかもしれない。だとしてもそれらは自我を持たないので、「あなた方は天使ですか?」と問いかけたところで返事が返ってくるわけもないし、小さき者共の発する声が聞こえるはずもない。

 天の勅命とは不思議なもので、天が何者かを天使は知らない。ただ声が聞こえてくるのである。こうせよ、ここに至れ、と指示を出してくる。それに従っているのが天使であり、その指示が例えば人間を救うことで、人間に罰を与えることで、時には人間に関わらないことでもある。それは地上あるいは海中の生き物の脳みそが、その体に指令を出すことに似ているので、もしかしたら天とは天使の脳みそなのかもしれない。だが天使達はそれを知り様がない。【天使の身体を解剖せよ】などという指令は今まで一度もなかったのだし。

 ただ、そんな仮説を立てているのはアージュという若い生意気な天使一人きりである。アージュには【物心がついて】しまっているのであり、だからこそ暇で暇で、そういうことを考えるしかないのだ。

 このアージュは、際立った変わり者の天使だ。【自我を持つ】エラーに重ねて【それによる死を恐れない】というエラーまで合併している。厳密に言うと、本当は死ぬのは怖いのだけれども、だからといって死なないのも生き物なら不自然だと思ってしまう。だからいつか来る死を極度に怖がってはいないのだ。哀れなことに、アージュは深化した同胞たちを気持ち悪いと思ってしまうという、そんなエラーまで抱えている。ここまで来ると病人である。否、病天使か――アージュは今の、人間に限りなく近く、肉感のある姿の方が可愛いような気がしているのだ。人間と比べると、純白の美しい――どんな鳥類のそれよりも――翼まで持っている自分は世界で一番可愛くて可憐で素敵な生き物だと自負する。だから自分が変わり者であったとて、なんともない。気にもしない。ただ、とにかく退屈。

「つまんない」

 その呟きを、アージュは風に乗せた。風は雲の表面だけを削り取って行った。こんな呟きとため息、何百回目かあるいは何千回目だか、もう数えるのも飽きた。人間の大罪が怠惰なら、天使の大罪は退屈かな、とどうでもいいことさえ考える。アージュの退屈はまるでそれがアージュの体の一部であるかのように……あるいは人間の体によく生えてくる腫瘍のように、ずっとこびりついているのだった。

 だから、別にその日でなくても良かったのだけれど。それにその日は別に特別な日でもなかったけれど。

 アージュはふと短気を起こして、衝動的に空から落下した。身投げである。何度か人間がビルや屋上から飛び降りて死ぬのを見たことがあったので、真似をしてみたのだった。感覚的には、ただの興味・好奇心、暇つぶし。でもそれは、なんだか名案だったようにアージュには思えてきた。アージュの白い翼から羽根がはらはらと抜け続けて、まるでその場に滞空するかのように、アージュの体よりもゆっくりと落ちていくのだ。その羽根たちは、虹のような十一色の、虹とは違って直線の道筋を空から大地へと作ってしまった。ああ、なんて面白い眺め! アージュはケラケラ笑って、自分の爪先から天空に伸びる虹に拍手喝采した。

 この奇妙な虹はそれから数日消えず、地球上の各国の人間、研究者達にこぞってその存在と出現のメカニズムを科学的に議論させることになる。まさかそれが、ファンタジックでメランコリックな誰も知らないおとぎ話の始まりだとは誰も分からなかったし、知っていたところで、どうにもならなかっただろう。だって天使には予想もできなかったし、人間はそんなもの見ることも出来ないし、物語の舞台は人の集落から遠く離れていた。

 さて、そこでだ。天使の出会ったオバケの話を聞いてほしい。オバケの森の話を聞いてほしい。オバケと天使の、救いの話を聞いてほしい。

 私は誰かだって? 天の声だ。

 地上に勝手に堕ちた天使の子供の、天の声だよ。



 次にアージュがその大きな双眸をぱちりと開いた時、視界に飛び込んできたのは赤い地に青や金色や桃色、紫や白の煙模様が入り乱れた美しい空だった。色を宿しながら風に乗ってゆるりと右から左へ動いていく、雲々。その移ろいを眺めながら、アージュはぼんやりと、「夕焼け空って染め布に似ているなあ」と思った。いつかどこかの田舎村で、職人と呼ばれる男たちが水に布を湿らせ、着彩していたのを思い出したのだ。両腕を上げてみる。陶器のように白い肌には千切れた草がたくさん貼りついていてみっともなかった。上体を起こすと、真っ白な――否、草の緑と土の茶色で汚れた白い服が見えた。つまらない衣装だとアージュは自嘲した。今までそんなこと、思ったこともなかったのだけれど。なんだか気が重い。

 それは、地べたの上で空でよりも遥かに強く感じられる、内臓を下に落としこむような重力のせいかもしれなかった。なるほど、人間は「落ち込む」だなんて言って憂鬱を装うが、案外的を射た表現かもしれないとアージュは思った。翼を広げてみるにも一苦労だ。空から真っ逆さまに落ちてきた時にはあんなにも晴れやかだった心が淀んでいる。空で嫌と言うほど見、飽き飽きしていた夕焼け空を不覚にも美しいと思ってしまう程度には。

「重い……体が重い。羽も……重い」

 小さな悪態をつきながらアージュは立ち上がった。髪の毛も湿ってしまっていたし、汚れていた。立ち上がると頭がくらりとして、足がもつれ、尻餅をついた。痛いと思った。そして髪の隙間から、耳の後ろを沿ってぬるりと生温かい何かが垂れてきた。雨水にしてはべたべたとして気持ち悪い。それに触れて手を濡らし、掌を見てみれば、白い肌が赤に染まり、爪の間にも赤は入り込んでいた。爪と肉の境目が一層濃い赤の線になっているのが、なんだかおもしろかった。

 ああ、私はけがをしたのか――そう思って、もう一度髪を指で梳いてみた。白い髪を赤で染めたくて。汚れた手を服で拭いた。綺麗な赤い花模様にはならなかったから、アージュは少し不機嫌になった。

 血はなかなか止まらなかった。止め方もよくわからなくて、空が暗くなってもまだアージュは白い服を赤く染めることに躍起だった。やがて星が瞬く頃にはようやく飽きて、髪の毛がどうなったか見てみたいと思った。まだくらりとするが何とか立ち上がる。翼をはためかせようとするが、うまく力が入らなかった。仕方なく、ぷるぷると震える足をよいせ、よいせ、と踏みしめながら水場を探した。

 落ちた場所は森のようだった。木々がうっそうと生い茂っている。森の中はすっかり影に包まれていて、葉も枝も幹も根も、全部真っ黒く塗りつぶしたように見えた。しばらく歩いてようやく小川を見つけたが、そこに自分の顔を映してみて初めて、アージュは今が夜であることに思い至り舌打ちをした。明暗を浮き上がらせるだけの夜の水面に、赤色がわかるもんか。

 不意に、風が声を運んできたような気がした。舌打ちはやめてよ――誰の声だろう、とアージュは辺りを見回した。けれど、夜の森は虫と梟が鳴くだけで言葉を話す人の気配なんてありゃしない。アージュはまたむすっと顔を歪めながら、「誰?」とよく通る声で尋ねた。

 しばらく、風が吹いてひゅうひゅうと喉を狭めたような音を鳴らしていた。誰かが息をひそめているような気配がする。いいかげんにしろ、とアージュは地団太を踏んで、再び舌打ちをし、「誰だってば」と怒鳴った。

「……舌打ちはやめて。不快だよ」

 ようやく、誰かは答えた。

「出てこい。誰だ。暇なんだ。出てきて」

 誰かはくすりと笑った。

「命令なのかお願いなのかわかんないな。……ちょっと待ってね」

「はあい。待つよ。待てばいいんだろ」

 アージュは、水面に映る色のない自分の顔を見ながら暇をつぶした。じわじわと、その顔に色が滲んできた。水面がぼんやりと白みの強い赤紫色に輝き始める。アージュは、自分の頭の半分が赤色になっていることにぎょっとして、次に明るくなった周囲をきょろきょろと見渡した。蛍がいるわけではなさそうだし、蛍ならきっと緑色の光を放つだろう――空にはない、虫だけの色を。じゃあ、これは?

「こんばんは。あなたは生き物だったんだね」

 背中にかかった声に、アージュはばっと振り返って、そして目まいを起こした。頭がずきんと痛む。血を流しすぎたかもしれないし、頭を強くぶつけたら激しく動かさないほうがいいものなんだって、そんな人間の知恵などアージュは知らなかった。

 目の前には、体の輪郭や肌から紫がかった白い光を淡く放った子供――少年が立っていた。黒髪に茶色の目をしている子供だったが、右目の瞼から頬にかけて痛々しい傷跡があったし、右目の虹彩は左目よりも色が淡いように見えた。

 少年は、黒い布をマントのように体に巻き付けていて、その下には薄汚れた作業着を着ているようだった。そして、大きな銀色のハサミを持っていた。両手でようやく使えるほどの大きなハサミを。

「……何、それ」

 ハサミの切っ先の鋭さに、アージュは少しだけ背中を粟立たせながら、それを指さした。少年は小首をかしげ、何でもないように「これは剪定バサミだよ。知らないです? 植物の要らない部分を切るんだよ」

 ふうん、とアージュが声を漏らせば、少年は目を細め、にやりと笑った。その口から覗いた歯は黄ばんでいて、月明かりに光るということもなかった。

「……その翼も、【人間】には要らないものだけれど……切ってあげようか?」

「やだっ」

 アージュは反射的に肩を両手でかき抱き、翼をたたんだ。少年はまたくすくすと笑った。笑うと眉尻が下がって、とても間抜けな面になるやつだとアージュは思った。毒気の無い笑顔。

「嘘。冗談だよ、天使さま。こんな夜更けにどうしたの。俺、天使なんて初めて見たよ」

「普通は見ないだろうからね」

「それに、すごく怪我をしていますね。頭の右側に大きな花が咲いてる。……枯れかけてるけど。昼間咲いてたあの花はあなただったのかな。もしかして、仮死状態だった?」

「何言ってるのかさっぱりわからない」

 アージュは、警戒心をむき出しにそう言い放ち、少年を睨み付けてみる。

「ええと……」

 少年は頬を掻く。その爪も紫色に輝いていることにアージュは気づいた。

「俺、死んだ生き物が植物に見える奇病を患っているんです。だから、あなたの頭半分から花が咲いているように見える。だから……多分、酷いけがをしているんじゃないかな、と思った。頭を強く打った?」

「………血は、出てる、けど」

 アージュがいやいやそう答え、傷口に手を添えると、少年はアージュの傍に屈み、優しい手つきでアージュの髪に指を潜り込ませ、傷を撫でた。不思議と痛くなかったし、アージュはどきりと心の臓が波打ったのを感じて、かっと目を見開いた。

「……森の入り口で、綺麗な白い花が咲いてた。あそこは鹿がよく走っていく獣道だから、踏まれたら可哀想、別の場所に植え替えてあげようと思っていたんだ。なのに次に見た時は忽然と消えていて、花びらだけが点々と散っていたから……もしかして植物じゃないのかもしれないと思ってこっそり追いかけてきたんだけれど」

 少年は、アージュの傷口をそっと圧迫するように押さえつけた。

「何するの! ちょっと痛いよ」

「止血だよ。まだ血が止まってないじゃないか」

 少年は苦笑する。その声が妙に低くて、闇に溶けてしまいそうで、アージュは頭を動かせないまま目を泳がせた。触れられた場所が、心臓みたいにどく、どく、と拍動して、痛い。

「……怪我して死にかけた人間がいるなら、森から追い出さないと、と思っていたんだけれど……それが天使さまなら、どうすればいいのかな。俺わからないです」

「私だってわかるもんか。なんだお前は。この森の守護者か」

「そういうわけでもないけれど……でも、この森で感情があるのは俺だけだよ」

「……今は私もいるだろうが」

「はは、そう、そうとも言えるね。天使さまは案外面白い人なんだなあ。あ、人じゃないか」

「ややこしい!」

 そうだね、と少年は笑った。

 やがて、雲に透けていた月が雲を散らして、空の天辺へと顔を出した。空から白い光に満たされて、辺りの陰影は薄まり、藍色と灰色以外の色も僅かに判別できるようになる。

 すると、少年は立ち上がって、小川に鋏の切っ先を浸し、かしゃん、と水を切った。

 その音を合図に、辺りの景色が目まぐるしく衣替えをしていく。真っ黒だった影絵の木々が、白く輝き出した。昼間、青空の下では青々と揺れているはずの翠の葉までもが、白く光る――否、葉脈だけが鈍い光を放っているのだ。だから透明なのに、重なり合って白く見える。

 人間だったら魔法みたいだと表現するようなその不思議な現象を、天使のアージュは言葉にできなかった。ただ、すごいと思った。空は一向に色づかず影に染まったままだというのに、地上のものだけが薄い色を抱き、アージュの目をちかちかとさせる。

「すごい……ねえ、おまえ、どうやったの、これ」

「どうって……俺がどうこうしたわけじゃないですよ。ただ、ここからはお化けの時間。それだけです。俺は一番の古株だからその合図係。ほら、」

 少年は対岸を指さす。

「俺と同じように、紫色に光る白い影が見えるでしょう、たくさん。花びらみたいに、月下美人みたいに揺れて重なり合ってるでしょう。あれはオバケ。ゆうれい。彷徨える誰か。どこにもいけなくて、いつの間にかこの森に集まるようになったんだ。まあ、俺のせいなんですけどね」

「どういうこと?」

 アージュも立ち上がった。足元がふらついて、まるで少年に寄りかかるようになってしまったのがしゃくだった。少年はアージュの体を支えた。

「天使さまは足の筋肉が弱いの」

「知らない!」

「大変ですね。生まれたての子鹿みたいに足がぷるぷるしてる」

「うるさい。足は普段使わないし、ここは重いんだよ! なんかこう、重たいんだ!」

「生きてるって大変なんですね」

 少年はまた笑った。息をするように笑う子供だとアージュは思った。

「生きてるって大変だ」

「ねえ、そんなことどうでもいい。さっきの私の疑問に答えろよ。どういうことだと聞いたでしょ」

「ああ、そんなこと、簡単すぎて馬鹿らしい話だもの。聞いたって……」

 少年はしばらく口ごもって、そうして、自分を光る指先で指さした。

「俺、レイです。名前」

「また、そうやってごまかす」

「オバケのレイです。ゆうれいたちを引き寄せる、森の罪人なんだよ」

「ふうん」

「あれ? 意外と興味がないみたい」

「人間っていうやつは、罪があるかないかにやけにこだわるね。つまんない」

「そうかもですね」

「罪人かどうかで言ったら私も罪人だ。いや、罪天使? どうでもいいや。おまえに引き寄せられて、ここまで落ちてきたことにして」

「そんなの、荷が重いよ」

「言い訳。もし他の天使に責められたら、おまえを言い訳にして言い逃れしてやる」

「ええ……あ、やっと笑った。笑顔が可愛いのは天使さまだから?」

「そういうところがうるさい」

 アージュは、大して近くもない少年の――レイの横顔を手で押して遠ざけた。



 オバケ、というやつは夜にしか姿を見せない。どうしてと尋ねれば、レイは「だってオバケは幸が薄くて色が薄いから」と答えた。月は昼間には見えないでしょ、月も光っているけれど、昼の光の方が強いから消えちゃうの。オバケも一緒。色はあるけれど、昼の色の方が強いから紛れてしまう。だから夜でないと見づらいんだよ。

 昼間はレイの姿も見えないし、声も聞こえなかった。だから退屈で退屈で、結局アージュはその間空に帰るしかなかった。出戻りのアージュを誰も責めたりはしなかった。というよりも、感情なんてエラーを持った壊れモノ、みんな興味なんてなかったのかもしれない。神様は彼らにアージュを責めろだなんて指令を下さなかったのだ。

 夜は真っすぐに森へと降り立ってレイを探した。レイは案外優しくなくて、アージュを探しに来てくれないし、自分から会いに来てもくれないから、アージュはレイの名前を大声で叫びながら暗い森の上を飛び回ることになる。やがて飛ぶのに疲れた頃、いつも近くからレイのくすくす笑いが聞こえてきて、からかわれてるだとか、遊ばれてるだとか、アージュはむっとするのだけれど、レイの笑顔を見ると毒気が抜けてしまう。しゃくだ。

 あとは二人で夜の森を散歩する。森の中には時々、蛍の光のような、しかしそれよりも青みがかった小さな丸い光がふわふわと綿埃のように彷徨っていることがあった。それは【オバケの宝箱】だとか、【宝箱オバケ】だとかいうもので、人間が捨てたゴミなのだとレイは言った。

「おもちゃや本、時計、ぬいぐるみ……そういうものにも心が宿る時があって、」

「心ってなんだよ」

「ええと……感情で膨らませた風船みたいなものかな」

「よくわかんない」

「うん、俺もよくわかんないです。とにかく、そういう心の欠片は魂のゴミになって、彷徨うんだ。それで最近は、俺に引き寄せられて、この森に落っこちてる」

「それを集めるの」

「うん」

「集めてどうするの」

「集めて……川に流してみます」

「どうして? 誰かがそう、おまえに命令でもした?」

「命令……? いえ、誰も。これは俺が勝手にやってることだよ。死者は川を渡るというでしょう。だから、流してあげたら、いつかどこかにたどり着くかもしれないから」

「川の先は海だよ。ただの海」

「海は全ての命の源だって」

「それ、誰がおまえに教えたの」

「………さあ、どうだったっけ」

 レイはよく話を誤魔化した。そういう時は、どれだけ食い下がっても笑うだけで話を続けてはくれなかった。こちらは天使さまなのに、人間風情に振り回されている自分が嫌だなと思う時もあった。けれどアージュはそれでも、自分からレイに会いに行った。少なくともレイは、つまらなくはなかったからだ。

 でも、レイはどうだろうか。アージュが会いに来るのを少しは喜んでくれていたり……するのだろうか。そんなことを考え始めた自分に気が付いた時、アージュは顔を押さえて足をバタつかせた。そうしたら雲が一つ千切れてしまったので、同胞に叱られた。アージュは喜んだ。叱ってくれるのは興味が出たから? でも同胞は、そう指示が出たからアージュを叱っただけだ。それは頭で考えれば当然アージュにもわかることで。

 やっぱり、天使はつまらないとアージュは思うのだった。オバケでもなんでもいいけど、人間の方が面白い。オバケのほうが人間と違って私を認識してくれるから、楽しい。でも、オバケなら誰でもいいというわけでもなくて。

 どうしてレイだから嬉しいのか。その答えがいつか見つかりそうでほんの少し怖くて、同じくらい楽しみな心地もあって、そしてそれ以上に、アージュの頭の中は今夜はレイに何の話をふっかけるか――そんな悪戯心でいっぱいだった。



 月が一度満ちて欠けて、そしてまた満ちるくらいの数だけの夜、アージュは空から落ちた。落ちることにかけてはどの天使よりも極めたんじゃないかと誇らしくなるくらいには、落ちた。けれどアージュは最初の日以来、空と地を縦に貫く虹を一度も見なかった。あの虹はなんだったんだろう、とアージュは小首をかしげ、物は試しと羽根をむやみに抜いて散らかしてみたりもしたが、虹はそれでも現れなかった。あの時と今との違いといえば――思いつくのは、アージュが今目的を持って地上に降り立っているということだけだ。あの時のように、自棄になって、何の目的もなくただ【落ちる】わけじゃない。自ら意志を持って落下する。まっさかさまに。……遠ざかっていく空を見るのは気持ちがいいし、地面にぶつかる直前、痛いのを覚悟してきゅっと目を閉じる瞬間はちょっと怖い。

 とにかく、虹が出ない理由はそれくらいしかアージュには心当たりがないのだけれど、落ち方を忘れてしまったので、もうあの虹は見られなさそう。なんだか残念だなあとアージュは思う。あの時と同じように頭から真っ逆さまに身を投げてみても、あの時のけがを思い出して身がすくみ、翼が広がってしまうだけだ。それに、レイの下手な笑い顔が思い浮かぶので、邪念を振り払えないのだった。

 闇に白く光る森は、まるで白骨を重ねた丘のようだった。牛や羊どもが肉を失って、こちらを空洞の目で見つめているように見えて怖い。けれどよく見ればそれはただ枝と枝が重なり合っているだけで、触れれば木肌がアージュの手のひらにひっかき傷を作る。それらに触れる度に、アージュはほっとした。レイはアージュに自ら会いに来るわけではなかった。足がくたくたになるほど歩き回っても、レイに会えない夜もあった。木の根っこにつまづき、時に硬い石を踏んづけて、足にたくさん傷を作った。白い服はせっかく赤に染まっていたのに、今では茶色く汚くなってしまった。血は乾くと土の色になるんだとレイは笑う。そんなこと知ってると、アージュは拗ねた。

「そういえば、レイはさ、あの縦の棒みたいな虹を見た?」

 最初に出会った時ほど、アージュの鼓動が高鳴るような構い方をしてくれないレイに業を煮やして、アージュはとにかく思いついたことをその背中に投げてみた。レイは振り返って、二度瞬きをした。黒い睫毛が赤紫色の光に縁どられて、綺麗だった。

 レイは眉根を寄せて、視線をゆらゆらと泳がせる。やがて俯き、首を横にふるふると振った。否定。

「いや……わからない、です。俺、空をほとんど見ないし」

「えー! ひどいよ! 私たち天使がいる綺麗な空に一つも興味を持ってくれないの? 少しは興味を持ってよ。空って綺麗なんだよ。そう、私みたいに」

 にっこり笑ってみせると、レイは頬を掻いてアージュから目を逸らした。失礼しちゃうなとアージュは思う。

「ええと……ごめん。生きるのに精いっぱいだったし、花と土しか見て来なかったし……それに俺は、上を向いて歩けるほど綺麗な人生送ってこなかったしで」

「言い訳とか御託は飽きるからいいよ! オバケは別に昼も消えているわけじゃないんだろ。ちゃんと意思も体もあるなら、ちゃんと昼間は私が空を飛ぶのを見ててほしい。私もできそこないなりに天使業がんばってるんだ」

「それは大変だ。俺のオバケ業の助手までしてるし、忙しいね」

 ようやく、レイがくすりと笑って顔をほころばせた。アージュは楽しい!という気持ちに包まれて、翼を小さく羽ばたかせてみた。

「俺は人間だった頃、空を飛ぶ天使なんて一度も見たことがないけれど……見えるものなのかな」

「試してもいないくせに、そうやって不安抱えるのやめてよね! 私も不安になるだろ」

 こうして夜は会えて、触れ合うこともできるのだから、見えるはずだとアージュは鼻息荒くまくしたてる。そうして、レイの何の力も込められていない手を、薬指に触れて引っ張ったら、レイがぴくりと肩を震わせた。そのことにアージュは驚いて、レイの顔を見た。レイはなぜか頬を赤くしていて、見られていることに気付くと眉根を寄せ、顔を背けた。今度はなぜだかアージュも頬が温かくなってきて、手の甲で慌てて冷やしてみた。

 空には三日月が浮かんでいて、まだ満ちるには日が浅くて。月を見ていたら、アージュはおなかがとても空いたような気がした。不思議だ。天使に空腹や飢餓感なんてあるはずもないのに。「おなかすいた」と呟けば、アージュに薬指を握られたままのレイが小さく笑って、「花の蜜でも吸いますか?」と尋ねてきた。レイがちぎった花を吸うと、びっくりするくらい甘くて、そして驚くほど一瞬でその味が消えてしまったから、アージュは目を白黒させた。その反応が面白いとレイは大笑いをした。レイのそんな声を聞いたのは初めてだったからアージュはまた目を丸くして――そしてつられて笑った。満足するまで、といくつも花をすすったけれど、結局飢餓感のようなものは収まらなかった。薄赤の花を土色の唇で咥えるレイの横顔、その静かな景色だけが、アージュの脳に鮮明に焼き付いた。



 これは木の枝かな、それとも死体? 木だよ。そうですか、じゃあ少し要らない部分を切ろう――そんないつもと変わらない会話が辺りによく通って、響く。その反響音に耳を澄ませながら、アージュはずっと気になっていたことを思い切って口に出してみた。ちょうど、レイがアージュに背を向けていた時だ。夜空では星に紛れて弦月が鈍く光っていた。

「どうして、死者の魂がこの森にさ、おまえなんかに引き寄せられてるの。おまえは星の中心なんかじゃないくせに」

 問うた声が、少しべそをかいたような声になってしまって、恥ずかしい。

 ……ずっと疑問だったのだ。レイはちゃんと答えを知っているだろうか? 私に教えてくれるだろうか。とてもしゃくだけれど、くやしいけれど、アージュにとってレイはよくわからないもので、アージュよりも多くのことを知っているように思えて仕方がなかった。だから、レイが知っていることなら、何でも知ってみたかった。疑問は次から次へと沸いて溢れて、止まらない。声を聞いていたかった。目の前のものが植物か死体か、そんなわかりきったことをアージュに尋ねてくるレイがなんだか眩しいのだ。翼を楽に広げられない、天使としてさっぱりアージュが役に立たないこの森の中で、その質問をされる時だけはレイの役に立っているのだとなぜだか誇らしくて、こそばゆい気持ちになるから。要らない枝や葉をちょきん、と切り落とすハサミの金属音が、耳に心地よいと思うようになっていた。おなかはすきすぎて、一周回ってわけがわからない。頭がくらくらするのだ――レイの背中を見ていると。隣で歩いていると。声とハサミの音を聞くと。心臓が変な場所にあるような感覚に陥る。ある時は足元だったり、頭だったり、触れ合った肩だったり。

「なんで、」

 なんで、死んでない私を追い払わないの――そう聞きたかった。レイはちょきん、と葉っぱを一つ切り落とし、顔を上げた。その土色の目が紫色に光っていて、まるで鉱石のようだとアージュは思った。

「……俺のこと、なんでそんなに知りたいんですか。天使さまは死者に関わるものだっけ」

「死者? でもおまえのこと、私触れる。他のゆうれいは触れないのに」

「そう、そうですね、そう」

 レイは目を泳がせて、ハサミの銀色に映る自分の顔を見つめた。

「ここが本当は森じゃないから、ですよ」

「どういうこと?」

「ここは本当は、死体の積み重なった場所。死体だらけの街。俺が切り刻んだ死体たちが絡み合って出来上がった、墓場ですら無い場所です。みんなが俺をオバケだ、オバケだというから、俺はオバケになった。オバケが居つくここは、得体のしれない場所になって、怖い恐ろしい場所になって、だから【森】になった」

「それは悪いことなの?」

「なんで、そういうことを俺に聞くの?」

「だって、おまえ、教会で懺悔する人と同じ顔をしてる」

「……悪いことでしょ。悪いことなのに、俺、罪人になれなかったよ」

 レイは、立ち上がってハサミを投げ捨てた。その仕草は存外乱暴で、鋏は木の幹の一つに突き刺さった。レイは泣きそうな、悔しそうな顔をしていた。アージュはその顔に既視感を覚えた。

 ――ああ、しゃくだなって私が思っている時の顔と、一緒。

 下手な笑顔だけじゃない、そんなレイの顔を見られて嬉しい。……嬉しい? そう、これが【嬉しい】。きっと幸せとかに近い感情。人間が笑いたくなる感情。私のエラー。

 アージュは胸を掌で撫でて、ほう、と息を吐いた。聞きたい、という声は、知覚よりも早く喉から漏れていた。レイはいやだと言った。アージュもいやだと言い返した。何度かそんな口喧嘩のような応酬を繰り返して、レイがようやく折れた。

 アージュは笑った。またレイは、それを可愛いと言った。アージュはうるさいと言って、レイの唇に中指と薬指を突っ込んでみた。レイはしばらくアージュを睨んで、それからそれをそっと甘噛みした。



「俺が人だった頃、いや今でも、俺は錯視の病気を抱えていました。同じ人間のことが……というより、死んだ人が植物にしか見えなかった。でも俺は、そんなことに全然気づけないままのうのうと生きていた。身寄りがなかった俺を、母が仕えていたお屋敷のご主人さまが庭師として引き取ってくださった。俺は、花が好きだったから、ご主人さまの自慢の薔薇園を手入れできることがとても嬉しかったです。ご主人さまは、時々他の花の苗木も持ってきて、俺に手入れしてくれと頼んでくださった。俺は嬉しかった。役に立てるから。おまえが手入れした枝の切り口はとても綺麗だと言われて、誇らしかったんです。

 ……俺が、俺の目はおかしいんだって、すべてを知ったのはご主人さまが死んだ時だったんだ。目の前で、ご主人さまが人から植物へと姿を変えていった。最初は幻覚かと思いましたよ。でも俺には、ご主人さまを後ろからナイフで突き刺した男もちゃんと見えていた。そいつがご主人さまを殺したんだ。目の前が真っ暗になって、どうしよう、怖いって。でもそいつも怯えていました。そして、泣いていた。『やっとこれで、やっと、仇を』だなんてうわごとのように呟きながら泣いていました。そいつは、殺された恋人の仇を取るために、ご主人さまを殺したんです。俺がバラバラにした恋人のために、ご主人さまを殺したんです。

 悪い夢だと思いたかった。知りたくなかった。優しかったご主人さまが、俺に自信と生きる意味をくださったご主人さまが、猟奇的な殺人者だったなんて知りたくなかった。俺が今まで切り落としてきた腕が、誰かの首や腕や足や胴体だったなんて、知りたくなかった。でも俺は裁判にかけられた。俺はご主人さまの共犯者だった。ずっとずっと前から。俺が切っていたのは、どこまで本物で、どこから偽物の苗木だったんだろう。

 ……裁かれたかった。恨まれて当然だし、自分が怖くて恐ろしくて、気持ち悪くて、たまらなかった。何が怖いって、これからも俺は、死体かそうでないかを見分ける術がないってことです。脳みそが混乱しているんだって、俺を診た医者は言いました。多分先天的なものだって。笑えますよね。笑えるでしょう。生まれた時から俺、異常だったんだよ。

 ちゃんと俺のことも猟奇犯にしてほしかった。罰がどれだけの年月でも、牢の中で罪を償う決心をした。俺にバラバラにされた人たちのお墓なんてない。その人たちへの償いになるかわからないけれど、死刑になったってよかったんです。ご主人さまなんかよりいっとう苦しんで苦しんで、裁かれたかったです。でも、俺は無罪になった。病気だから仕方ないって。仕方ないって何?

 病気だからって。

 俺は確かに罪人なのに、それは俺の病気だから、俺の意思ではなかったから、ただそれだけのことで、俺は罪に問われなかった。

 でもね、たとえ罪にならなくったって、やったことは変わらないだろ。変わらないんですよ。それまでご主人さまを慕っていた街の人たちは、事件の全容を知って、俺を怖がり始めた。化け物だって言った。俺も自分を化け物だと思いました。そりゃ怖いでしょうよ。だって俺には、同じ形をしたはずの人がただの苗木にしか見えないんだから。そのせいで、ためらいなくハサミを入れられるんだからさ。だからつらくなかった。……いえ、嘘をつきました。ほんとはつらかったです。でもつらいほうがましだった。幼い子どもたちは、無邪気に俺をオバケと呼びました。その響きになんだか救われた。俺はそれから、街の片隅でほそぼそと生きることにした。何にもできない俺は、来る日も植物を切るしか能がない。時々入ってくる仕事を、それが植物と信じて剪定したけれど、本当にそれが人でなかったのか、動物でなかったのか、わからない。わかんないんです。

 そのうちね、流行り病が――多分、誰か旅人が持って来たんだ。伝染病は瞬く間に街中に広がって、みんな死んでいって、目の前で俺をオバケと笑う子どもたちが植物になっていくのを見ていた。そこからしばらくのこと、覚えていない。喉が枯れるまで叫んだ。ハサミがかちゃかちゃと鳴ってうるさかった。気づいたら、屋敷は、街は、森になっていた。たくさんの植物が枝を、根を絡ませあって、暗い暗い広い森を作っていた。たくさんの救われない魂が彷徨って、俺に何かを話しかけるんだ。でも俺には言葉がわからない。俺は死んでるはずなのに、俺も伝染病にはかかったはずなのに、なんで俺はあなたに触ってもらえるんでしょうか? 俺はなんでまだ意識があるの。

 俺はね、俺は……オバケになって、オバケだと言われて初めて、人が人だと見えるようになったんだよ。ゆうれいだけど。それでもちゃんと人が見えるようになったんですよ。病気だったんだ。おかしかったんだ。今更やっと、あの頃たくさんたくさん切り落としたそれが、ご主人さまの殺した誰かの四肢だったってわかるんだ。死んでるはずなのに、今でも夢を見る。ハサミを入れた薔薇の木が、枝が、切り落とされる瞬間、誰かの腕になるのがやっと見える。今更、今更……。

 だからみんな怖がった。俺はオバケだ。化け物だ。仕方がないんだ。仕方ないの」

 レイは、そう言って顔を覆い、泣いた。


 レイの告白を聞いた翌日の夜、アージュは森へ行かなかった。アージュは夜空を見ていた。

 たくさんの星が浮かんで、瞬いている。それらは深化した天使の姿だとアージュは信じているし、そうでなければ説明がつかない。けれど昼間人の家からくすねてきたギリシアという国の神話の本には、【神様が気にいったものを空に置くと星座になる】と書いてある。それは牡牛だったり、山羊だったり、英雄だったり、美少年だったり、蠍だったり、魚だったり。笑ってしまうくらいに可笑しな解釈だけれど、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 神様の言うことをよく聞く、神様に愛された天使たちは、深化できるのだから。アージュはエラーを抱えているから深化なんてできない。これからも神様の声は聞こえない。神様の声が聞こえるふりをするのはとっくに飽きている。この姿の方が可愛いだなんて思うのも、ただしゃくで、……悲しかったからだ。つらかったからだ。自分が欠陥品だと認めるのは骨の折れるようなことだった。死んだほうがずっとまし。

「そうか、エラーがあるって、つらいことなんだ」

 ぽつりとアージュは呟く。見つめていた星は二、三度瞬いた。

「でもそれは、不幸せ? エラーがないやつらが間違っているかもしれない。私の方が正しいかもしれない。でもレイは……自分が間違っているって信じている。多分、あの子は人として正しくないんだろう。だから不幸せ? わからない。わからない……幸せって何? 私が天使だから、わからないんだろうか。同じものじゃないから、理解してあげられないんだろうか? それならもう、こんな翼要らない。この真っ白な容姿も、血で汚れた白い服もいらない。私には私を引きずり下ろした憂鬱とこの頭の傷だけでいい……」

 アージュは、そっと神話の本を手放した。本は真っすぐに大地に向かって落ちていく。それを見ていたら、ようやくアージュは落ち方を思い出した。

 本にならって、重力に任せ、遠ざかる空にうっそりと微笑みながら落ちていく。

「……レイが好きだ。それじゃ、だめ?」

 白い羽根がいくつも抜けて、アージュが手放した空に滞空する。爪先が、虹色の直線を引くのを見た。アージュは高らかに笑った。さあ、さあ、どうとでもなってしまえ。私は覚悟を決めたよ。私はもう、翼なんていらない。

 エラーと共に、エラーを抱いて地をはいつくばって生きてやる。





「また花だらけ」

 目を開けて、飛び込んできたのは夕焼けの名残の薄紫色と、それと混ざり合った優しい赤紫色の光だった。

 自分を逆さまに見つめてくるレイの無表情な顔が、なんだかこの世で一番、自分よりもずっと可愛いものに思えた。アージュはずきずきと痛む頭をおさえ、だくだくと流れ続ける赤い血を指先でこすり合わせながら、息を長く吐いて、吸った。

「死にかけの私は植物みたいなものかな。だったら簡単にそのハサミで切れそうだ」

「いやだ」

「いやだとか言うなよ。この翼をちょんぎってほしいんだ。もう、翼はいらない。私は天使をやめる」

「いやだ……」

「レイ、お願いだから」

「名前を呼んでも、だめ」

 苦笑いを零して振り向けば、レイは見たことのない顔をして、アージュを睨んでいた。まだまだ知らない表情があるんだなあと、アージュはぼんやり考えた。血が足りていないせいか否か、思考がのろのろとしている。

 レイは、白い唇を噛んだ後、また口を開いた。

「それに、あなたが天使をやめるなら、それってただの人間と一緒だよね。だったら俺はあなたをこの森から追い出す」

「はは。おっかしいね。なぜ?」

「オバケは人を怖がらせる存在だからです。こっちへ来ないで。俺の傍によらないで。ここは迷いの森。人の帰る場所は、あっち。こっちじゃないよ。ずっとそうしてきた。それがオバケだからです」

「はは。それ、傑作。そうだね、オバケの森は畏怖されなければ姿を保てない。でも私はこの森を怖がらない。この森を怖がらない存在は本来必要ない。でも天使だから許された。天使じゃなくなったら許されない。そういうこと? だよね」

「そうだよ」

 レイは冷たい声で言って、ちらと空に延びる虹の直線を見た。

「あれ……あなたの仕業だったんだね。虹。天国から延ばされた梯子」

「は、なんだよ嘘つき。ちゃんと見てたんじゃないか。あれは梯子なの? 堕ちる私の爪先と取れた羽根たちから勝手に生まれたんだ。よくわかんないよ」

「あれがこの森とつながっていて……」

 レイは、はさみの片刃を半身にもたせ掛け、右腕だけでかしゃんと閉じた。

「……前にも、この森から何人かオバケ仲間が昇っていっちゃったんです。多分ふらふら彷徨ってたらたまたま迷い込んだだけだろうけど。またさっきも何人か、あっちに行っちゃった」

「それはおまえにとって都合の悪いこと?」

「さあ。わからないです。でも、あの人たちは何にも悪くない。ただオバケとか化け物とか呼ばれ続けて、行き場所をなくしてこの森に住み着いただけの魂だ。あの人たちが天国に行けるなら、それはそれでいいのかもって思います」

「でも、そしたら森はなくなっちゃいそうだね」

「どうですかね。俺はまだここにいるから」

「天国に行きたくないの」

「オバケは願い事なんて持たないんだ」

 レイは、苛立ったようにハサミを再び広げて、かしゃんと閉じた。空気を切るように。

「オバケには本能はあっても意志はどうでもいいの。オバケは人のなれの果てだからね、生きたいという本能だけ残っちゃってさ、だから消えることができない。消えたくても本能が勝つの。願いだけじゃどうしようもないことなんだよ。だからオバケは願わない。願いごとがない。願いごとは叶わない」

「ははっ。ああおっかしい。それって天国に行きたいだとか、消えたいだとか、そう言っているようなものじゃない」

「そう取りたいならそれでいいよ、アージュ」

 初めて呼ばれた名前は、棘があって、鋭い声に滲んだ。レイはどこでもない所を、地面のどこかを睨んでいた。

「オバケの願い事は叶わないけれど……でも、天とこの森がつながっちゃったら、いよいよ俺たちは天国に行かない理由をなくしてるよね」

「そうだねえ。なんとおまえの眼前には、天国行きの切符がちらついている! でも天国なんていいものじゃないけれどねえ。いつか天使に生まれ変わるだけだ」

「そうなの?」

「多分ね。わからないよ。神様なんていないんだから。多分」

「いい加減だね」

 レイは荒んだ眼差しでアージュを見つめ、口角を釣り上げた。

「俺は天国に行きませんよ」

「なぜ」

「オバケになった理由をまだ覚えてるからね」

「ああ……」

 それって、死に至るには致命的なエラーだよねえ、とアージュは思う。

「じゃあ、天国には行けなくても、レイを私が消してあげる。どう? 悪くないと思うけれど」

「や、だ」

「どうしてさ」

「俺は、この森の主だ」

「誰もレイにそんなこと強いてないのに」

「でも、そうしないと、償えない」

「みんな天国に行くのに? 私のおかげで」

「そうだね、俺があなたなんか引き寄せたせいでね」

「アージュって呼んでよ」

「今はいやだ」

「ははは、駄々っ子だ。レイはただの駄々っ子だ」

「名前を呼ぶな!」

 叫んだレイの口内に、指を四本突っ込んで。

 残った親指でその白い唇を撫でてみた。レイはアージュを睨んだまま、けれど固まってしまった。

「噛み切らないの?」

「しない」

「ハサミで切ってもいいよ?」

「しない!」

「好きって言ってくれてもいいんだよ?」

「そ、んなの……言わない。俺は言わない」

「なぜ」

「そういうのは幸せになる人が言う言葉だから」

「これから私たち幸せになるよ」

「意味が分からない」

「ああ、そうだね。私が、幸せになるのかな」

 アージュは、ハサミを持ち続けるレイの骨ばった手にそっと触れた。レイはびくりと肩を震わせた。

「何……」

「もう、楽になっていいよ。ハサミは私にちょうだい」

「………」

「森が心配なら、私がこの森にいるよ。翼を切ろうが切るまいが、私は人間にはなれないんだよね。ただの堕天使ってだけさ」

 ハサミを持つレイの手の力が、少しずつ、ほんの少しずつ抜けて行っていることをアージュは感じた。ゆっくりと時間をかけてその指をハサミの持ち手からほどいてやる。レイは抵抗しなかったけれど、目だけは、絶対に合わせてくれなかった。

 レイの手が、銀色の大きなハサミから離れる。

 ハサミは見る見るうちに黒ずんでいった。アージュに扱えるような代物ではないらしい。もうこうなってはレイにだって使えない。錆びついたハサミでは何も切れやしない。

 レイが静かに吐いた吐息が、アージュの髪をそっと揺らした。

「さよなら」

「うん。好きだよ、レイ」

「そう」

「好きを教えてくれてありがとう」

「勝手に学んだのは自分だろ」

「アージュ」

「しつこい」

 レイの体が、どろりと溶けていく。炎に溶けた蝋のように、透明になって、溶けて、土に落ちて、白くなっていく。

「しつこいよ……アージュ。なんで」

「わからない。レイと同じものになるまで答えを探すよ」

「……意味が分からない」

「君の間違い(エラー)も私が引き受けるからさ。楽になってほしいな」

「うるさい、アージュ」

 形を成さなくなった白い蝋の溜まりは、まだ熱かった。怒りのせいで熱いのか、それ以外の感情のせいなのか、アージュには知るすべがない。

 触れたせいで、アージュは指を火傷した。やっと傷をつけてもらったと、アージュは涙を一粒零した。蝋の溜まりは、涙が落ちたその一筋が一層白くなった。

 アージュは指で蝋を掬い、しばらく見つめた後、己の双瞼に塗り付けた。焼けるような痛み。目がつぶれていくのを感じた。暗闇が見える。もう光がアージュの世界に映ることはない。

「これっておまえの言うところの不幸かな。でも私は今すごく幸せ。……あなたが私に好きって言わなかったから、ちょっと不幸せ」

 そう言って、かすれた声で笑えば、まだ温かい蝋が小さな声で、「好きって言っても、一緒にいられないから、やだ」と言った。そうして、蝋はすっかり冷えてしまった。アージュはケラケラと笑った。

「だよね」



 一人の少年の命という、熱を孕んだ蝋で潰した私の綺麗な金色の目は、今どんな風にぐちゃぐちゃになって、汚く見えているんだろう――とアージュは思ってくすりと笑う。もう見た目なんてどうだっていいよね。私は自分が美しいと思うことでしか存在に意味を見いだせなかった。つまりとっくの昔から迷子の生き物だったってことだ。

 もし私を見つけたのが、たとえば物言わぬ子鹿だとか小鳥だったら、私は恋心を見つけただろうか? アージュは考える。あるいは、オバケではなく、天使を讃える人間なら? けれど、そんな空想、起こりえなかった未来なのだから何の意味もない。

 アージュは二回目の落下で確信したのだ――これが《恋に落ちる》ってことだって。遠ざかる空を哀しいと思った。けれど未練も抱かなかった。レイに早く会いたいと思った。相手がレイだったから、だなんて綺麗ごとを言うつもりはないの。もう私は、そんな綺麗な生き物ではないから。

 言葉を交わした。熱を交わした。指を噛まれた。優しく噛まれた。愁いを帯びた瞳が黒曜石みたいで綺麗だった。蛍の光は死者の灯のようだと思った。夜を待ち遠しいと思うようになった。慟哭を聞いた。彼のすべてを知った。落ちるには十分なだけの重たい重たい荷物だ。その荷物をアージュは喜んで抱えている。

 アージュは少しだけ泣きそうになった。レイはアージュのことを、天使としての苦しみを一つも知らずに逝ってしまった。レイに頑張ったねと言ってもらえる機会を一生失った。それが苦しい。でもそれでいいのだ。それが【焦がれる】ということなのだから。

 天使は恋なんかしない。繁殖する機能を持たないから、必要ない。でもアージュは欠陥もちだから――そう信じたい。これがアージュの存在証明。そして終了。アージュはレイと一つになりたかった。だから、目の前でレイが溶けたとき、体が芯から震えるほど嬉しかった。やっと一つになれる。一つになった。この気持ちが恋じゃないならなんだというの。

 間違いを抱えて生まれてきたのが、この結末のためならいいなあ。アージュはそう思う。レイが苦しんだのも、私に会うためだったらいいなあ。アージュは嬉しくて泣きたくて熱くて寂しくて、幸せでたまらない。

 本当の人間なら幸せになるために恋をするのだろう。でも私のレイは恋をするために苦しまなければならなかった。レイのところまで落ちてきたのは私。でも私と同じところまで落ちてきてくれたのはレイの方。アージュは蝋の貼りついた瞼と睫毛を撫でて、そっとはにかんだ。

 目を閉じる。森を閉じる。私の中に、彼と過ごした森がある。私だけが彼の苦しみを知り、目をつぶした。私だけが知ればいい。このオバケの森の真実を知るものは、もういないの。もうあの子が消えてしまった以上、幻惑はとれ、森は真実の姿を取り戻してしまうだろう。でもこの森が森ではなく、死人のてあしと知っているのは私だけ。そう見えてしまうのは、もう、私だけ。

 ならば私が見なければ、ここは森であり続けるのだ。だから潰した。彼の残り蝋で潰してみた。光を。

 今度は私が森の主になるの。またはぐれオバケが紛れ込んだら、私がこっそり天国へ送ってあげる。目をつぶした私は神様を知覚できないのだから、神様も私を知覚できない。私は化け物になるの。

 少しだけ天国に近い、あの人レイと同じものになる。





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レムレースの森 星町憩 @orgelblue

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