第四章:食われた心
1.憎悪の痛み
気がついた時には、首にナイフが刺さっていた。
いつもと変わらない学校帰り、通学路、人混みを避けた裏道、いくつものビルと跨線橋に囲まれた薄暗い裏路地。
ただ歩いていただけで、担任教師との進路相談の為だけにわざわざ学校に呼ばれて、イライラしながら帰っていただけだった。
細い裏路地の向こうに突っ立ってる男がいて、邪魔だなと舌打ちを打った。
男のことなんか気にせずに路地を抜けてしまおうと歩いていると、俯いていた男がこっちに向かって歩き始めて、その速度が段々早くなって……。
何なんだよ、と顔を上げると、白いコートを着た男が何かを振りかぶっていた。
それを脳が認識したと思ったら、次にはもうナイフが首に入っていた。
ぶちりと皮を破き、鋭利な切っ先が肉を切り裂いて神経を引き裂く。
脳天まで電気が走り、痛いというよりも熱かった。
何だこれは、どうなってるんだこれは。
どうして喉が熱い? どうして体中に電気が走る?
どうして大量の汗が噴き出す? どうして……。
「テ……メェ……」
喉から声が漏れ出ても、その男はじっと冷たい眼をしてこちらを見下ろすだけだった。
ナイフは横へと力をかけられぶちぶちと皮を裂いていく。
喉から溢れる血で溺れそうになり、口から血を吐き出さなければ窒息死しそうだった。
ナイフが引き抜かれると男はこちらが倒れないようにと体を支えてきたが、力をかけられた時点でコイツは押し倒す気だとすぐにわかった。
頭の中を埋め尽くしていたのは死への恐怖でも、男への驚きでも、困惑や混乱でもない。
怒りと、憎しみだけが脳内をどす黒く染め上げていた。
「殺す……コロしてやる……」
「……」
口をついて出たその言葉に男は反応すると、気が変わったかのように突然手を離して歩き始めた。
支えをなくした体はその場に崩れ落ち、ただ惨めに地面に這いつくばって血と胃液と唾液を吐き出した。
靴底を鳴らしてアスファルトを踏む男はこちらに一度も振り返ることなく立ち去り、ビルの通用口から誰かが出て来て気付き、救急車を呼ぶまで。
彼は再びその場に立ち上がることしか出来なかった。
何なんだアイツは、殺すんじゃなかったのか、殺すつもりだったくせに、どうして去って行った、どうしてオレを殺さなかった?
憎い、怨めしい、中途半端なことしやがって、やるんだったらかかってこいよ、何途中で逃げ出してんだよ、オレを殺すつもりだったんだろう、オレを殺さないのか、殺せないのか、殺すんならとっとと来やがれ、オレがお前を殺してやる!
これが、二年前のことだ。
救急隊員に取り押さえられて無理矢理搬送されるまで、彼は誰かを追うようにして歩みを止めず、引き留める人間をどけとなぎ倒していたらしい。
病院についてからは輸血で繋ぎ、結局それから一週間後に目を覚ましたとも。
だが喉にナイフを刺された瞬間から後のことは、不死原は覚えていなかった。
完全に忘れているわけでもないが、ぼんやりとしか覚えていない。
目覚めた彼に残っていたのは自分を殺そうとした男の顔と格好、それから一つの感情……。
殺意だけが、しっかりと脳に刻まれていた。
そんなことを思い出しながら不死原は自分の首に巻いてある包帯を指で撫でる。
乾いた指先と包帯が擦れてザリザリと音を立て、消えない古傷が疼くような感覚を覚えた。
「不死原先パイ」
影浦が美術室を飛び出してしばらくすると、綾子が不死原へ声をかけた。
声はかけてきたが、顔はタブレットを見つめたままだ。
「ホントに先パイが殺しちゃったんですか? あの警察官」
「悪ぃか? ゴミ屑をこの世から排除してやったんだ、文句が言いてぇなら無能な警察にでも言えよ」
「僕は別にどうとも言いませんけど……」
綾子の平坦で静かな声に、何だ? と首をひねった。
「首を切った理由、聞いてもいいですか?」
チラ、と綾子の視線が不死原へ向く。
その問いを受けて不死原は鼻を鳴らして笑ったが、その顔は笑顔とは決して言えないものだった。
「何でだろうなぁ……特に理由はねぇよ。そうしたかったから、そうしたまでだ。切りたかったから、切り落とした」
「……そうですか」
ケロリとした声で返事をすると、綾子は何かをタブレットに打ち込んでいく。
「……」
「あ、ご心配なく。警察に突き出すようなこと、僕はしませんから」
「んな心配はしてねぇよ」
「えぇ? ホントですか? この状況で?」
「当たり前だろ? この状況で通報なんてしたら、オマエはここで死ぬんだからな?」
「……」
自分の中立性を示す為の弁明だったはずなのに、いつの間にか不死原から脅迫を受けていることに気付いて、綾子はますますタブレットにかじりつくよう首をすくめた。
さも当然、当たり前だろ? という不死原の声音には流石の綾子でも笑えず、空気が張り詰め気まずくなる。
しかし不死原はそんなこと等お構いなく、首の包帯を爪先で引っ掻いた。
首の傷が疼く。
チクチクと、うずうずと、蠢いているかのような痒みを感じる。
(アイツもどうせ一緒の癖に、何を善人ぶってんだか……)
殺人鬼を嫌う者同士仲良くやっていけると思ったのに……なんて。
思ってもないことを考えながら不死原は薄く笑う。
影浦に自分の犯行と「模倣者」への挑発を見破られてしまった今、彼にはもうやる気がなくなっていた。
これ以上動いても影浦や月城に邪魔をされるだけだろう。
だったら「模倣者」の殺害は諦めて、他の殺人鬼にするか……本命を探すかした方が楽しそうだ、とぼんやり考える。
「おい綾子! お前、俺の居場所がわかったんなら月城の居場所わかるか!?」
すると突然、飛び出していったはずの影浦が大声を上げて戻ってきた。
「どうしたんです……え!? どうしたんですか!?」
俯いて返事をした綾子だったが、影浦の様子を見て思わず声を上げる。
影浦が誰かを抱えて帰って来たのだからそうなるだろう。
彼の腕にはぐったりとした百合が抱えられていた。
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