第十撃 交わりは月の下で


 「は、ハォビ様!?」

 「だーかーら。ハイビスカスだよう。」

 

 そう抗議すると、女神は絹のような質感の焦げた琥珀色の頬を少し膨らませた。今までに見たどんな宝石よりも美しく透き通る瞳がイハを見つめる。照れ隠しに言葉をひり出した。

 

 「は、ハイビスカス様、降りてくださいよ、」

 「あ〜ごめんね〜。」

 

 申し訳なさそうに女神が腰を上げようとした時、イハは自分が素っ裸であることを思い出した。

 

 「あッ待ってくださいやっぱそのままで」

 「ん? なんで〜?」

 

 こんな可愛い女神様の瞳に、男の裸など触れさせてたまるか。目を白黒させるイハに女神は少し首を傾げたが、気にもせずにまた胴に腰を降ろした。

 

 「こんなに身体ボロボロなのになんだかごめんね。すぐ治してあげるね〜。」

 

 ハォビの花の芳香が強まる。無邪気な笑顔のままハイビスカスは少し前屈みになって、イハの胸の中央に手を置こうとした。柔らかな二つの膨らみがちょうど目の前で歪められるのに気を取られそうになりながらも、イハははたと我に返る。

 

 「待ってください!」

 「え〜? どうして?」

 

 女神の寂しげな抗議に少し心を痛めながら、イハは医癒エメーの治療を受けていること、異常なスピードでの回復は怪しまれることをハイビスカスに述べた。

 

 「そっか〜。じゃあ仕方ないね。」

 

 そう言って、女神はとてもつまらなさそうに少し厚みのある唇を尖らせた。

 

 「まあでもいっか。わたしが来たのはイハくんを治すためじゃないし。」

 「へ?」

 「あのね、」

 

 

 

 女神は髪を揺らして小さく笑うと、素っ頓狂な声を出したばかりのイハの唇に細長い人差し指で触れた。

 

 

 

 「わたしと、体液を交換してほしいの。」

 「――たっ、たたた、タイエキッ!?コーカン!?」

 

 

 色付きのいい滑らかな肌。

 ココナツの実のようなたわわな胸。

 厚くて柔らかそうな唇。

 陽だまりのような金色の瞳。

 長く孤を描く睫毛。

 長く波打った艶やかなサンゴ色の髪。


 「ちょっと交わるだけなんだけど――だめかな?」

 「ま、交わ……」

 

 悦楽に誘うような女神の上目遣いに、イハは思考を塗りつぶされた。身体は正直に、下半身に血を集める。いかがわしい妄想を働かせるには、女神ハイビスカスはあまりにも魅力的過ぎた。

 

 イハの頭は熟れさせすぎた浜柑ナットヮのように破裂しそうだった。ハイビスカスは甘く囁く。

 

 「わたしとね、ちゃんとちぎりを交わしてほしいな〜って、思って。」

 「ちぎり……?っつ!?」

 

 イハのいやらしい期待はすぐに葬り去られた。すっかり熱に浮かされきっていたイハの胸に、ハイビスカスはどこからか取り出した小さな刃を突き立てた。刃先でぷつーっと引かれた小指ほどの長さの傷口に、真っ赤な血が小さな玉をぽつぽつとつくる。

 

 「な、何して……」

 

 自らの左手にも刃を立てる女神を見て、イハは言葉を失った。柔らかそうな手のひらに赤い筋がうっすらと浮かぶ。

 

 「体液ならなんでもいいってお父様は言ってたんだけど……。体液って、血しか思いつかなくて。ごめんね。すぐ終わるからね。」

 

 短い謝罪とともに、ハイビスカスはひりつく傷口同士を擦り合わせる。互いの血が混じり、脈動を感じ合う。

 

 

 ――女神様にも、父さんがいて、血が流れてて、人間みたいに、あったかくて、どきどきするんだな――

 

 

 短い間だったのか長い間だったのかは分からない。イハは洞窟にぽっかり空いた風穴のような月をぼんやりと見つめていた。

 

 「終わったよ〜イハくん。ありがとう。」

 

 女神は優しく微笑むと、切り傷をそっと指でなぞって癒した。

 

 「んでこれ……何の契りなんすか?」

 「んんとね、これでイハくんはわたしの巫子スァーナになったの。」

 

 未だ状況を理解出来ないイハに、ハイビスカスは御座の端を僅かにちぎって目の前に持ってきてみせた。

 

 「イハくん。これ、睨んでみて。」

 「睨む……ってこうすか?」

 

 刹那、女神の指に挟まれた籐の切れ端が閃いて、即座に灰になった。

 

 「ふふ。イハくん上手〜。」

 「これって、ハイビスカス様の――」

 

 イハは自らの瞳が、一瞬だけ太陽の光のような黄色に閃いたことにまだ気づいていない。

 

 「そう。私にはそれが使いこなせないから――」

 「なんでなんすか?ハイビスカス様の力なのに」

 

 女神は自分の手を哀しげに月にかざした。マナ灯の作った陰を月が蒼白く照らす。

 

 「あの力を使いすぎるとね、身体を維持するためのマナが足りなくなって、私――消えちゃうの。」

 

 浅く息を吸って、ハイビスカスはイハを太陽のような瞳で見つめた。

 

 「ガームのあなたなら紋様を使ってマナを吸収することが出来るんでしょ〜? だから、イハくんにこの力を貸そうと思って。」

 「でも――女神様のことを隠しとかなきゃいけないんなら、この力、使えないんじゃ……」

 

 戸惑うイハに、ハイビスカスは微笑みかけた。

 

 「別に、無理して使わなくたって良いの。イハくんはイハくんなりにガームとして闘えるんだから、この力はお守りだと思ってて。――あっ、そうそう、あげたからって、わたしが力を使えなくなるわけじゃないし、イハくんの中に入らなくてもマナを分けてもらうことも出来るようになったから――」

 「――俺、分かりました」

 

 イハは自分の胴の上の女神をしっかりと見据えた。

 

 「女神様の力には頼りません。女神様にも頼りません。俺は巫子スァーナじゃなくてガームとして、この手で、この島を、サフティを守ります」

 

 それはガームとしての意地だった。この手で守る。隠さなければいけないのなら、女神の手をこれ以上汚させなければいい。それに何よりも、父親が帰ってくるための場所を、自分の手で守っていたかった。

 

 「でも、この間のフビジ浜のフナムシみたいなのが出たら――」

 「ハイビスカス様。ガームとして、俺、絶対に、もっと強くなります。だから、ハイビスカス様には、普通の女の子でいてほしいんです」

 

 ハイビスカスは、はっとした表情を見せた後に、くすくすと笑った。

 

 「やだなあ。普通の女の子だなんて。じゃあ、ハイビスカス『様』なんて呼ぶの、やめてよう。くすぐったいの。ハイビスカス、でいいの。」

 「は、ハイビスカス――?」

 

 目上の立場の存在に、敬称を外すよう要求されたイハはおぼつかない口ぶりで、女神の名を声に出した。

 

 瞬間、扉が開かれる。薄暗いマナ灯がちらりと揺れて、扉の外で立ち尽くす少年を映し出した。

 

 「女神様! やっと見つけ――って、ちょっと、これは、いったい、何を――」

 「わ〜っ。バレちゃった。」

 

 裸のイハ。

 髪を乱してそれに跨る女神。

 

 少年学者は強すぎる刺激に耳まで赤くすると、額を右手で押さえて頭を振った。

 

 「……なんと破廉恥な。それに、女神様と交わるだなんて――これは事案です。ヴィヌヴ先生に報告の上部門長会議に提言を……」

 「違う! フスー、これは違うんだ! おい待て! 俺の話を聞いてくれ! おい!」

 

 フスーは雑に扉を閉めると、そそくさと廊下を戻っていった。

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