第九撃 飲んでも飲まれるな
その場にいた全員が成り行きを見守るなか、フスーが部屋の戸を閉めるまでずっと、イハは頭を下げ続けていた。扉と縁が出会った瞬間に、イハは腰から崩れ落ちた。
「イハさん!」
斜向かいからムーラが飛び出してイハの身体を起こそうとした。しかしイハはそれを軽く振りはらって、痛みに顔を歪めながら麻布に腰を落とす。
「ヘーキヘーキ」
止まっていた喧騒がまた戻り始めた。ツェナーは黍酒を飲み干すと、ムーラに無理な笑顔を向けているイハに目をやった。
「あんた、今朝の
ツェナーの落ちた声色に唾を飲み込むと、イハは素早く座り直してツェナーに向き合った。
「――――はい」
右下に目線をやるイハの表情が曇る。
「あの子、子供扱いされるとどうも自分が馬鹿にされてると思うみたいなの。――特に、『ガキ』って言われるのがダメみたいね。あんたさっきも言ってたでしょ。もう絶対にマトモに取り合ってくれないわよ」
怒られると身構えていたイハは、ツェナーの諭すような口ぶりに拍子抜けした。ツェナーはくすり、と笑うと続ける。
「頭はずば抜けて良くたって、でも実際、十三歳の子供なのよ。ちょっとしたことで怒るし、こういう場の空気も読めない。まだ仕方のないことよ。だから、あんたが大人になってあげなさい。ね?」
「はい!」
力強く頷くイハを笑いながら、ダンは
「ま、イハもまだまだ青臭えがきんちょだけどなァ」
ダンは大きく笑うとイハの背中を強く叩いた。イハが呻くと、宴会場は笑いに包まれた。
「つか、ダンさん、朝見た時は包帯まみれだったのに、包帯取れるの早くないっすか!?」
「あーこれなァ。おめーもそのうちこうなんぞ」
きょとんとするイハに、ムーラが人差し指を立てる。
「
イハは宴会場を見渡してみた。言われてみれば、朝には床に転がっていた他の
「特にダンさんみたいに経験が長いと大怪我でも一日で治っちゃうんですよ。」
ムーラがそう言うと、ダンは得意げに完全に包帯の取れた左腕を見せた。黄味がかったマナ灯に照らされる腕には、痣一つ残っていない。
「壊滅しても二日後にはどんちゃん騒ぎの回復力。つまり、ケガでの欠員が出にくいっつうことだな。だから
がはは、と笑うとダンは
「五百人いる
「あっこらテメー、俺がイハに注ぐんだろが」
「イハ!! こっちヤシ焼きまだあるぞ!! こっちの席で食えよ!!」
「このばかたれどもッ!! 主役は拳長副拳長の間だって決まってんだろがッ!!」
「ムーラちゃんもどんどん飲んでいいのよ」
「わっ、わたしはイハさんを看とかないといけないので……。」
酒臭い喧騒に揉まれながら、イハは
「みんなすまねえ! ヴィヌヴとの面談がまァた入っててなァ。おい、イハ行くぞ」
「へ、俺もっすか? いやちょっまっ、降ろしてくださいよダンさん!!」
ダンがイハを右肩に軽々と担ぎ上げると、途端に場は大爆笑に包まれた。御座の敷かれていない板間を大きな足で踏みつけながら、ダンは宴会場の入り口を狭そうにくぐった。
酒と歓声で篭った空気を抜けると、廊下はやけに冷えているように感じた。ギシ、ギシ、とダンは右に歩を進める。しばらく進んだところで、ダンは口を開いた。
「イハ。お前、酒は加減しねェと危ねぇぞ」
やけに神妙な声色が暗い廊下に響く。
「へ? 俺まだそんな酔ってないっすよ」
「このばかたれが」
「っつ!」
小鼓を打つようにしてダンは頭を突いた。そして声を潜めて、言葉を零した。
「――ハイビスカス」
放たれた古代文明の単語が、イハを酔いから引きずり戻す。
「だ、ダンさん、なんすか急に、何語っすかそれ――」
「今更シラを切る必要はねェよ」
「――ッ」
全身の汗腺が開いて、産毛が逆立つのを感じる。
――ああ、酔いに任せて言っちまったのかもしれねえ――
しっかりと刺すようなダンの声に、息を止められた気分だった。くっくっく、と笑うとダンは続けた。
「なんてなァ嘘だ。ちっとは酔いが覚めたか?」
「へ?」
すっかり拍子抜けしたイハを見て、ダンは、がはは、と笑うと再び声を縮めた。
「俺あン時見てたんだよ。お前の中にハォビ様が入ってくとこをこの目でな。で、お前がグースカ寝てるうちに、きっちり
「もうやめてくださいよ……俺てっきりやらかしたかと思ったじゃないすか……痛っ」
安堵するイハをダンはまた小突いた。
「このばかたれが。お前の口がツルツル滑らないように、俺が上手いこと
「――すいません」
「とどのつまり何とかなったからいいんだけどよ。まあ、これからは自分でも口に気をつけろってこったな。俺だっていつまでお前のケツを拭ってやれるか分かんねえしよ」
大きく笑うと、ダンは立て付けの悪い戸を引きずり開けて、外に出た。
「あれ、ヴィヌヴ先生とこに行くんじゃ――?」
「それも嘘だ。お前あれ以上酒入るとツルッと喋りそうだったからな」
そう言って古い石井戸に近づくと、ダンは雑にイハを脱がせた。そして豪快だが素早く全身に水を浴びせた。傷口に冷たい水が沁みる。
「服の代えは部屋に用意してあるからお前でどうにかしろ。ほら拭け……って無理だなお前」
固い布が荒く肌を擦って痛い。拭ききる前にダンはイハを抱え上げた。ダンはすぐに建屋の中に戻ると、すこし埃っぽい小さな部屋に入ってからイハを降ろした。
「予備の部屋ですまねえな。ひとまず朝までここで休んでろ。また明日呼びに来るからよ」
言い切るとダンは手荒く戸を閉めた。ギシギシと重い足音が遠のいて、やがて何も聞こえなくなった。
拭ききっていない濡れた身体をできる範囲で拭って、息を長く吐き出しながら御座の上に転がった。冷えた新鮮な風がそっと吹きつける。窓に目をやると、くっきりとした乳白色の月が見下ろしていた。
代えの練習着を履く気にもなれないまま横たわっているうちに、痛みとともに疲れがのしかかってくる。マナ灯を消すのは億劫だったが、眠気にも勝てない。イハはゆっくりと瞼を閉じた。
――早く俺も一人前の
ふと、甘酸っぱい匂いがイハの鼻を掠めた。胴の上に柔い重みが加わる。
「イハくん。おはよう〜。」
「わっ!?」
驚いて瞼をこじ開けると、珊瑚色の髪の女神がこちらを覗き込んでいた。
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