39

猫の威を借る犬


       ■



 顎が、曲げた膝と同じ高さになるぐらいに頭を下げる。

 すぐにつむじのすぐ上を、赤い熱の塊が駆けて行った。


 もうなして何度目か。それでもその度に全身は冷や汗を噴き出し、恐怖で心臓はきゅっと縮む。


 息も止まってるんだよ。この瞬間。


 ゴッと一瞬で駆けては、当て損ねたのならもういいと言いたげに、宙で勝手に消える大樹の幹のような火柱を、左目の端で見送った。ぶつかる前に消えてくれるので、今の所その先で茂る竹林は、火の粉の一つも被っていない。


 沈み込むように落とした身体を持ち上げながら、減速分を補おうと、更に強く駆け出した。


「――ちょろちょ――てんじゃねえ半死人!」


 繰り返される火柱の発生と消失で、急な明暗の変化に付いて来れず、一瞬本当に真っ暗になった視界が、じんわりと周囲を捉え直す。


 地面は所々、焼け野原のように焦げ、縦へ横へ、斜めにも、黒い直線となった焼け跡が、無数に走り回っていた。竹林に当てるのだけは避けているようで、他の部分へぶつかっていく火は、放ったっきりでほったらかすのだ。


 やっぱり一番合戦さんを困らせるような事は、なるべくしたくはないらしい。多分そこから引火して、山火事になるのを恐れている。つまり攻撃そのものも、ある程度は抑えてしまっている筈だ。だから、なるべく竹林を後ろに置くように立って、攻撃を躱し続けてはいるのだが。


 いや無茶だろう。分かってはいたが。


 焼き潰されて、使い物にならなくなっていた左足が、黒犬の力で復活する。


 両腕と左足で、足を引き摺る犬のように駆けていた姿勢を、何とか二足歩行へ持ち直した。

 聞こえ辛かった、左耳も戻ってる。さっき左半身にあの火柱を受けてしまって、食らった直後は左目も見えていなかった。


 遠くに立つ銀は、何か怒鳴ったと思うと舌打ちし、また右腕を翳すと、あの火柱を放つ。先読みして放たれた火柱は、丁度僕が進もうとしている目の前へ駆けて来た。

 僕は踏み出したばかりの足を軸に百八十度回転すると、向きを変えて走り去る。矢張り当て損ねた火柱はその途端、しゅっと虚しい音を立てて見えなくなった。

 が、その拍子抜けな去り方に油断してはいけない。竹林にさえ当たる危険が無ければ、激しい水流のようにお構い無く周囲へ飛び散り、遠慮無く触れたものを焼き焦がす。何かに触れた瞬間、一番合戦さんの焚虎たけとらのように爆ぜはしないが、その火力は、僕の知る限りの焚虎と同等だ。

 今の所だけでも既に、一番合戦さんを相手取っているようなものなのだ。黒犬が敵対するのを恐れて、一番合戦さんの正体を今まで黙っていたように、普通にやって勝てる見込みなんかこれっぽっちも無いし、自信なんて一番無い。黒犬の相殺が働ているから生きているだけで、もう何度あの火柱に焼かれているか。


 普通ならそこで終わる。


 激痛にのたうち回って、二度と立ち上がろうとなんて思えない。


 そう考える心の余裕が、持てるような痛みじゃない。


 戦いに慣れている鬼討でもだ。どれだけ腕があろうと、場数を踏もうと、どれ程覚悟を決めようと、誰しも必ず限界がある。左半身を焼き焦がされて、それでもこうして走り回っていられるのは黒犬が、のたうち回る隙も与えず銀の攻撃を相殺し、即座に戻してくれているからである。浴びた瞬間こそ死ぬんじゃないかって思いはするが、思った時にはもう治っている程の高速で。


 生き地獄の中にいるようだった。


 一番合戦さんも鬼道おにみち様と戦った時、こんな気分だったのかな。下手に頑丈過ぎる分、何度殺されるような攻撃を浴びても死ねなくて。


 ……だったら駄目だな。ここで折れては。


 もう恐ろしくて仕方が無いが、君より先に音を上げるなんて出来っこない!


「――くそ!」


 もう一度仕掛けようと、銀へ方向転換し突っ走る。


 火柱を放つ為、地面へ向けるように右腕を振り抜いたばかりの銀は、僕に気付くと、自分から距離を詰めようと突進して来た。


 速いんだよ。


 突進の速度にタイミングが狂わされるが、何とか歩幅で調整する。

 だが銀はもう眼前に飛んで来ると、右の爪先を振り上げた。慌てて後ろへ仰け反った僕の鼻先を、ゴッと悲鳴を上げた空気が引き裂かれる。 


「う――ッ!?」


 躱し方が悪い。


 引いてしまったら、銀に足を下ろす隙を与えてしまう。


 案の定銀は、何事も無く右足を下ろし、下ろすと同時に上体を沈む込ませるように、前へ右足を着地させた。それを軸にして力を溜めるように、落とした身体を引き上げながら、左のアッパーを放つ。

 僕は咄嗟に外側を向けるよう、肘を腹部に溜めるように、構えた両腕で受け止めた。


 ぱん、と肉と肉がぶつかる音がして、その周囲の空気に刺さるような鋭い音と共に、へし折られた両腕が吹き飛ぶ映像が頭に浮かぶ。


 が、即座に黒い毛と爪を纏う、獣と化した両腕は、どっしりと銀の拳を受け止めた。

 想定内だったのか銀は構わず、続けて僕の左の脇腹に、横から右の拳を打ち込んだ。

 自分の腕で視界を遮ってしまっていた僕は反応出来ず、石ころみたいに吹き飛ばされる。まだ仰向けで地面すれすれの超低空飛行をさせられている内に、銀の方へ頭を持ち上げながら位置を把握しつつ、両腕の獣の爪を地面に食い込ませると、派手に辺りの地面も割って、一気に停止させた。衝撃で頭の後ろの地面が、ぼかっと大きく持ち上げられ、両腕を支えに屈み込むよう身体を起こす。


「――ビビんな! お前の判断が間に合わねえなら、こっちで勝手に変化させてやる!」

「そうは言われてもあんなに速いんじゃ――ねっ!」


 足元からの黒犬の怒声に返していると、銀が投げるように放った火柱が襲い掛かって来た。後ろに大きく跳び退ると、地面にぶつかった火柱が、水のように地を走って四方へ飛び散る。


 黒犬の補助で身体能力は上がっているから、銀の動きが目で負えていない訳では無い。ただあの馬鹿げた速さに、身体が中々慣れないのだ。



 ――ああこんな事になるなら本当、もっと一番合戦さんに徒手道としゅどう教えて貰っておけばよかったよ!



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