第10話 戻ってから
アイラ大学――。
あなたの知人が「アイラ大学出身だ」と言ったのなら、その人は学生時代にしっかりと遊んだ人だろう。間違いなく、数学の公式より、女の子のオッパイに興味があったはずだ。
この学校に、校風などという気取ったものは便所の中にも転がっていない。あるのは教える気のない教授と、授業を受ける気のない学生が作り出す、だらけた空気だけだ。もちろん、スポーツも弱い。
そんな三流大学の片隅――準備倉庫をむりやり改造した小部屋で、ドクはのんびりと午後の紅茶を楽しんでいた。
「いやぁ~、命の危険がないって素晴らしいな~」
自分の城で、中庭を眺めつつ、平穏な日々を実感する。こんな幸福なことが他にあるだろうか?
ここには一般人に拳銃をぶっぱなしてくる野蛮な兵士はいない。あるのはプライベートな研究資料だけ。最高に心がリラックスしている……。
「失礼するよ」
うららかな午後の日差しで停滞していた空気を、ドアのノックがかき混ぜる。せっかくノックをしたのだから、「どうぞ」を待ってドアを開けるべきだとドクは思うのだが、そんな事は言えない。
ギネス学部長だからだ。
「あ、これは学部長――この度は調査拠点の引き揚げに予算を割いていただき、ありがとうございました。おかげで、エドラドール政府にも怒られずに済みそうです」
ギネス学部長は、そのどこから見ても丸い体を小部屋にねじ込みながら「お前のためじゃない」と手を上げる。
「礼はいい。あそこは素晴らしい遺跡が数多くある。上手くやっておかなければ、君以外にも困る者がいるからな。それよりも、なんだ、君はよくそういった連中と縁があるな。調査方法に問題があるんじゃないかね」
徹底した平和主義と言えば聞こえはいいが、事なかれ主義ともとれる学部長の小言が始まる(口ひげがプルプル震えているのは怒っている証なのだ)。
どうやら、平和な午後は終了しそうである。
「事情を聴く限り、原因はあの高慢ちきなバルブレアの帝国主義みたいだが、君がいち早く危険を察知していれば、こんな事にはならなかったんじゃないかね?調査もほとんど終わっていたのだったら、さっさと帰ってくればいいんだ。春の休校中だからって仕事がないわけじゃあないんだよ。そこらへんの事を、君は分かっているのかい?」
学部長は置いてある十センチ大の金属片をクルクルと弄ぶ。
「あ、学部長、それは……」
大事な研究資料をペンの様に回されたら、さすがにドクも声をかける。勇気の代償は小言の延長だ……。
乱暴にそれを戻したあと、口ひげはさらにプルプルする。
「だいたい、象鼻半島から漁船で帰って来るとはどういう事かね。調査費用は十分に渡してあるはずだし、現に君は講義に穴を開けているじゃないか。飛行船を使う余裕がなかったとは言わせないぞ」
ドクは何度も説明した内容を、もう一度する。
「いや、ポポフの街を出てから街道沿いに進もうとしたんですが、エドラドールの兵士が検問をしいていたんですよ。何のための検問か分からなかったですし、迂回しようにも土地感がないし……。だから、たまたま出会った漁村の爺さんに口を聞いてもらって、スコッチ(アイラ大学のある公国)まで来る漁船に乗せてもらったんです。間に合わなかったのは謝りますが、努力は認めてください」
わざとらしく「フン」と鼻息を鳴らして、ギネス学部長は続ける。
「結局、エドラドールの連中は君を探していたのではなくて、バルブレアがポポフから足を延ばすのを見張っていただけというじゃないか」
ドクは「それは結果論だろうが、デブ!」と言おうとして言葉を呑んだ。
「……もうしわけございません……」
大人になるということは、言うべきことと、言いたい事を区別できるようになることだとドクの恩師は言っていた。
「まったく……ただでさえ文化人類学は人気の無い学部だというのに、君たちはまったくもって意識が足りない。いいかね、大学とは生徒が来てなんぼの商売なんだよ。タダで研究できるわけじゃあないんだ。キルホーマン教授も行方不明のままだし、君たち師弟は経営という事がまったくわかっていない!」
ギネス学部長は髭だけでなく、体全体を震わしながら、みっちり30分の小言を繰り出し去って行った。
「ああ、きつい……」
ドクは固いソファの上に体をあずける。
「だいたい、君も聞いていたのなら助け舟の一つでも出したらどうだ?」
ギネスと入れ替わりに入って来た男に、ドクは噛みつく。
男は爽やかな笑顔でドクの不機嫌を躱しながら、答えた。
「怒ったギネスに正論は通じないよ。まあ、あれでも学園長から色々言われてストレスをため込んでいるんだ。君に小言を言う事で気を晴らしている所もあるんだろう。それぐらいで学部全体が上手く回るなら安いもんじゃないか」
すらりとした身長に、少しウェーブがかかった黒い髪。アイラ大学の最年少教授であるカリラ・ポートエレンだ。専門は航空工学。畑は違うもののドクとはウマが合うらしい。
「君の所の学部長は人格者だからな。所詮他人事だ」
「そう噛みつくなって。ホラ、君の好きなヨードチンキ臭のする酒を持って来たんだ。酒の肴に象鼻半島の土産話をしたってバチはあたらないだろう?」
「今から飲む気か?」
さすがにドクも驚く。
日はまだ高い。
「僕はこれで三日連続の徹夜だ。軍のお偉いさんがせっついてくるとはいえ、流石に休憩が必要なんだよ」
「暴論だが正しいな」
ドクは机の奥――分厚い資料をどかして、グラスを二つ取り出した。
「鍵をかけてくれ。あれだけしゃべったんだから、もうギネスは来ないだろうけど、世界は偶然で成り立ってきた。警戒することはやぶさかじゃない」
「同感だ……よしOK。それじゃあ、君の無事の生還に――」
「新しい飛行技術の開発に――」
グラスが目線まで上げられて、互いに口をつけた。
背徳感のする味が、舌から指先にしびれていくようだった。
「実際に現地調査はどうだったんだ。成果はあったのかい?」
カリラの問いに、ドクはニヤリと笑みを浮かべる。
「表の研究と、裏の研究。どっちから聞きたい?」
「じゃあ表から聞こうか。裏の話はどうも胡散臭くて、酔いがまわってこないと頭に入ってこない」
「じゃあ、さっそく始めよう」
ドクは分厚い本を取り出して開く。中はキレイにくりぬかれていて、ナッツが収納されていた。つまみと酒で、講演の準備は整った。
「僕の予測したとおり、あの洞窟に描かれた壁画は人類最初の象徴的表現なんかじゃない。あれは確かに、『人外の存在』を示したものだけど、明らかに年代が新しい。つまり、洞窟内の壁画は二つの時期に描かれているんだ。もちろん10年、20年の差じゃないよ?塗料の採取ができなかったから正確な事は言えないが、少なくとも1万年以上の差があると僕は思うね」
カリラは口笛を吹く。
「根拠の無い推測はいちゃもんというんだぞ」
「もちろん、根拠はある。いいかい?問題になっている『人外の存在』は、芳醇な作物の茂る地に降り立つ姿で描かれているが、これは概念としておかしいんだ。定住しない狩猟民族であった彼等が『神によって恵がもたらされる』という概念を持つわけがない。彼等にとって作物とは『見つけるもの』なのであって、『誰かが育てるもの』という概念はなかった」
「断定はどうかと思うがね。事実、神は生まれたんだろ?正に転換期だったかもしれないじゃないか」
「順番の問題なんだ。『神が恵をもたらす』という概念は、実際に『人が作物を育てる』という事実行為があって、初めて生まれてくる。もちろん、積極的な植物の育成でなくてもいい。しかし、人間の持つ概念を超える『神』は存在しないんだ。作り出せないんだよ」
ドクの熱弁はしばらく続いた……。
「……だから、壁画の塗料を少しでも採取できたら――」
「わかった!そこから先は次の機会だ」
話が本筋から逸れたところでカリラはギブアップした。前編だけでこのボリュームだと睡眠不足が加速するだけだからだ。
「なんだよ、これからが本番なのに……」
「君も俺の新イオンエンジン構想を聞いたとき、『頼むからこれ以上、未知の言語で僕を苦しめるのはやめてくれ』と懇願したじゃないか。そっちの話は十分だ。あっちの話をしてくれ。もう、いい感じで睡魔と酔いが回って来た」
ドクはグラスに残った琥珀色の液体を飲み干した。
「わかったよ。まあ、そっちは論文にまとめる予定だし、そこで確認してくれればいい。(「かんべんしてくれ、読むのが嫌だから説明させたんだ」とカリラが嘆く)だが、あっちの研究は論文にしないんだ。しっかりつきあってもらうぞ」
苦笑しながらカリラはグラスを持ち上げた。この男も人が良い。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
結局、散会したのは20時を超えてからだった。いたずらに長引いた原因は双方の寝落ち。徹夜が続いていたカリラはともかく、話をしていたドクまで寝たのだから、よっぽど退屈な話だったのだろう。
ドクの家は近い。
大学側が用意した教職員宿舎だ。
古いがそれなりの共同住宅で、独身男性が住むにはお釣りがくる。ドクは3階までの退屈な階段を登りきり、愛想のないドアを開いた。
それでも愛すべき我が家。
ドクの友人はその部屋を「セクシーさに欠ける」とか「倉庫と本棚を合体させたような」などと評価する。確かに、この部屋を訪れた女性は極端に少ない。ドクが記憶する限り、数年前に一度、盛大にゲロをまき散らして帰った同業者がいたぐらいだ。
まあ、たまに寂しくなるけど、泣きそうになるほどじゃあない。
それに、今日は妙な客もいた。
勝手に他人の家へ侵入する人間を客と呼べれば――の話だが……。
「どうも、お邪魔しております……」
窓際に立つ男。
明らかに民間人じゃあない。
体は大きくないが、強い体幹が所作に美しさを与えている。金髪を短く刈り取っていて、有無を言わせない圧力が体から溢れている。
「次は玄関から入っていただけるとお茶ぐらいだせるんですけど」
口では余裕をみせてみるが、実際はパニック状態。それでも後ろ手で、手袋を外すだけの思考能力はあった。
「立場上、人に見られる事は憚れたので……」
「なるほど、ここは部外者立入禁止だからね(皮肉)。でも、窓からの侵入を許可しているわけじゃあないぞ?」
「ガラス代は弁償させていただきます」
「そういう問題か?っていうより、君の目的を聞きましょう。まあ、人違いじゃないようだし、金が目的じゃないことは確かなんだろうけど……」
男は頭を下げてから、こちらをギロリと睨む。どうやら、慇懃無礼なスタイルで押し通すらしい。
「私達と一緒に来ていただきたい。理由は向かう車の中で伝えます」
ドクは笑う。
いや、笑ってみせる。
「知識で飯を食う仕事をしているので、そういう誘いは珍しくない(らしい)けど、実際に付いていく人はいないと思いますが?」
「私は政府の人間です」
「この時代、その言葉は安心よりも不安を煽る」
男はジャケットの内ポケットをおもむろに探り始めた。
何を出すのか……。
ドクの右手はすでに糸を生成し始めている。
だが、取り出されたのは手紙。
差出人の名前には、見知った偽名が書かれていた……。
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