第12話「白い世界」

 その後の数日は、頭の中に広がる真っ白な世界だけを見つめて、全てを白く塗りつぶしていった。白塗りにされた母親の顔と、白塗りにされた犬と、白塗りのテレビ画面。色という色が消えた朝、昼、そして夜。誰とも会話は成立せず、笑うことも泣くこともなかった。感情の線は微動だにせず、ピンと張りつめて静寂を示していた。


 そんな時に家の電話が鳴った。けたたましいその音は逃避していた場所から僕を引き戻した。急に腕を引っ張られるように頭が現実の世界に戻ってきた。僕は目がチカチカして瞬きを繰り返した。そこには逃げ回ってばかりいる僕を糾弾するように、暴力的で耳をつんざくような音を撒き散らす黒い電話があった。その激しい音を鳴らす電話の発信者、それは元クラスメイトの上家だった。僕は受話器に全てを集中させる。自分の心臓の音も聞こえるくらいに。

「この間話した香織の件だけど……」

 前置きも何もなく、すぐに上家が切り出した。あのいつでも元気な上家の声が幾分か沈んでいた。なんとなく空気で事情は察していた。

「お母さんとも話したんだけど、今あまり調子良くはないんだって。でもみんなと話したいからって香織も言ってるから、是非来て下さいだって。今度の土曜日はどう? 」

 調子が良くない。白血病と聞いて覚悟はしていた。若いうちの発病は進行が早いこともわかっていた。でも実際に調子が良くないという言葉を聞いて、ほんの少しだけ持っていた、必死にかき集めた希望的観測もあっさりと消えて無くなった。希望という言葉がこんなに軽いものだなんて、今更ながらにショックを受けていた。だからって会わないでなんかいられない。僕はすぐに返事をした。

「了解。駅で待ち合わせて行こう。イガにも知らせておいて。」

 そう話して電話を切る。この間のように世間話をすることもなく、僕らは会話を終えた。電話から聴こえる「ツーツーツー」という音が、病院の心拍を伝える電子音に思えてドキリとした。彼女の命はどんな風にぶら下がっているのだろうか。僕はしばらく電話機のダイヤルを見つめていた。


 土曜日まで、僕はまた白い世界に戻っていた。小泉香織ちゃんと会って何を話すのか、どんな言葉をかけるのか、それを考えることからも逃避していた。色々考え始めると結論は一つの場所にしか向かわず、それを受け入れることが絶対的に出来ない自分がいた。僕は高校入学以来、頭の中に巣食っていた「中学校時代に戻るという妄想」にすがった。僕の未来はここにあるんだと言い聞かせた。だけど、妄想の彼女もいつしか笑ってくれなくなり、しばらくするとその姿を消した。過去の思い出の世界からも彼女は消えてしまった。小泉香織ちゃんのいない中学生活。そんなものには絶対戻りたくない。小泉香織ちゃんがいない世界なんて、過去だろうと未来だろうと、どんな風に考えてもあり得なかった。あり得るはずがなかった。僕は高校入学以来、常に頭の中に広がっていた異常な逃避の方程式、「そのうち中学時代に戻る」という考え、過去という名の未来を失った。逃避する場所を失った。精神科的には正常になったのかもしれないが、僕はより苦しい世界に足を踏み入れていた。過去にも行けず、未来も見えず、僕の目の前には空白のような今だけがあった。真っ白で何もない世界の迷い人になった。自分の体まで無色透明に感じ始めていた。

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